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枯れはてたプールで [AtBL再録1]


IMG_0023y.jpg 『水のないプール』は、若松孝二の八十数番目の作品である。映画館は満員だった。若い女性客の熱気で充満していた。わたしは衝撃を受けた。映画に対してではなく、若松映画において若い女性が着衣を引きむしられ暴行を受けるのではなく映像を鑑賞する側に回っているという事態に対してである。

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 内田栄一の脚本は例によってくさいこときわまりない。いつまで中年イチビリ路線のオジサンを回春させて下さい的メッセージを無闇に発信することを止めないのだろうか。不愉快なはしゃぎぶりだ。
 『十三人連続暴行魔』に始まる近年の若松作品のハイ・ボルテージがシナリオのいやらしさと不協音を発する。だがやはり時に脚本(つまり若い女性にのみ恥知らずに媚びる)に寄り添ったハイな振幅を示して閉口させられた。とりあえず脚本は無視してしまおう。
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 水のないプールを疾走する男のイメージは鮮烈である。かれはその底をついたプールを疾走せねばならないのである。プールサイドにはいつも優しげに裸身をさらし幸せのシャボン玉を吹き続ける少女がいる。少女は男(内田裕也)の危機を指示している。ちょうど野間宏の大道出泉がかれの危機において黒いビーズ玉の少女を視界の隈に捉えることがあったように――。この男がかつて時代と共に疾走し今は失速と焦燥の極みにある作家のあまりの似姿に思える、などと野暮はいうまい。作者はいわば疾走を義務付けられているという自己意識に苦しめられている、などと客観的判断を下したってどうにもならないのだ。この手応えを作者に叩き返してやるべきだ。
 強姦されかけた少女(MIE)を男が助けるという冒頭の出会いはすでにかつての暴行映画への訣別的批評性なのか。青春は去ってしまった。凡庸な地下鉄改札係の孤独な日常が押しかぶさっているのみである。この男が夜な夜な徘徊して女を麻酔でねむらせ夢の中で犯す一九八二年の強姦者に成る。
 この成ることは哀しい。哀しいのだ。映画はこの哀しみに居直った脚本に規定されながらも苛立ちを随所に見せる。

 男のする行為は関係であるのか。ないのだ。川端康或の『眠れる美女』の世界ではないか。ただねむりにねむって反応しない肉体をもてあそぶだけだ。のみならず男の肉棒は自動販売機のコンドームにブ厚く包まれて保護される。性映画は暴行者の像を歴史的にいってどのように描いてきただろうか。かつての若松映画にぞろぞろと出現した密室の屍姦者や閉じ込められた性的テロリスト、かれらはどこへ行ってしまったのだろう。あの十三人連続暴行魔は――。
 高橋伴明の『人妻拷問』はおなじみの妹を喪った復讐者のパターンを使った。田中登の乱歩原作『屋根裏の散歩者』は天井裏の覗き見視姦者という逆説的暴行者に存在意義を与えようとした。本来はこの系譜の中に輝くべきだった長谷部安春のレイプ三部作はどうしようもなかった。加藤彰の『OL日記・牝猫の情事』は会社の上役を一室に軟禁して強姦するOLを主人公とした。男たちを威厳をもって犯すという異常な設定を中川梨絵という女優は前作『OLポルノ日記・牝猫の匂い』に続いて倒錯を排除した青春の一過性で演じてみせた。それら性の一方通行者は、ある時は激しくある時は静かに、時代の底流に沈む性的錯乱を切り拓いてみせたものだ。


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 昭和五十七年の夢犯者は行為の後に一人の女のために朝食を用意してやる。このとき夢犯は男にとって生活へと反転した。かれの夜の王国はそれ以降、一人の女へのオマージュの試みと沢山の女を漁りまくるハレム作りにはっきり二分される。後者で男は、ポラロイド・カメラによる局部の密写マニアになる一方、ねむっている女たちをピグマリオンのように侍らせ無言の晩餐会を楽しんだりする。
 これらの部分はあざといほどに今日の性風俗の最前線をかすめとっている。本番ストリップ劇場の特出し速成カメラや空中ノーパン喫茶・覗きせんずり喫茶のセルフ・セックスや『少年チャンピオン』の少女われめくいこみ漫画『あんどろトリオ』(SM誌から少年誌に上昇した内山亜紀)など、構造不況に挑戦する狂乱怒濤のセックス産業との粘着は内田栄一にでも引き受けてもらって、問われるべきは夢犯者の生活についてである。

 用意された朝食に女は最初は驚く。しかしやがてそれにも慣れる。麻酔のあとの行為と眼覚めと朝食は彼女にとっても生活へと反転する。クロワッサン風であり何の違和感もないのだ。男はついには女の下着まで夜中にごしごし洗ってやるようになる。朝食と吊された下着が彼女を待つ。女はサンタのおじさんがやってきた的気分に更に快感をおぼえたりするのだ。これがかれらの婚姻の形態だったようだ。
 わたしは『新鮮』などのよい読者ではないから若い女性の被レイプ願望の実態について統計的知識をもかないが、こうした優しげな夜の訪れに対する願望なら相当の支持率で、時の政府与党への数字をも上回るのは確実だと思った。それは満員の映画館の闇の中で観客の全般的反応として感じられた。
 映画はこうしてあやういほどに女性向きポルノに同一化してメッセージを発している。わたしのような四角四面もおかけで、強姦と和姦との中間主義、合意と非合意との調停主義、上に乗っかっている相手の現存的制限を限りなく解約してロマンに昇華する大乗主義、とうの渦巻く女心の機微について勉強させてもらった。

 今日の観客に媚びながら若松は明日のためにも手探りした。夢犯という、このしがない勃起力、こんなふにゃふにゃの道具しか与えない時代の性闘の意匠を突破しようとした。

 中年オジンの焦慮に若い世代の暴走的暴力表現がかぶさってくる。石井聰亙でもよいが、とりあえず井筒和幸の『ガキ帝国』(西岡琢也脚本)を例にあげよう。ドツキ合いが唯一のコミュニケーションであるストリート・ファイティング少年たちの祝祭の日々を描いたこの作品は、三人の在日朝鮮人俳優に事実上の主役をふりあて、自分以外はすべて敵と宣して大組織のてっぺんまでのしあがってゆく男(升毅)、日本人の友達もいるがどのグループからもはぐれて一匹狼を通す男(趙方豪)、在日同胞のみで組んでツッパリあげくは頓死同然に殺されてしまう男、を典型化し、更にかれらがことごとく女にふられるさまを付け加え、ガキこそ差別するという命題をつきつけた。

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 この命題にしても、劇中朝鮮語の会話がポンポンとはじけ飛び日本語の字幕がそれを追うといった在日映画への独創的な異化効果にしても、井筒が今後どう引き受けてゆくかは別にして、非常に重たく、『ゆくゆくマイトガイ・性春の悶々』というみじめったらしい青春グラフィティ映画でデビューしたこれがあの井筒和生かと感心したことも確かである。
 しかし『ガキ帝国』は、ガキが年をくってガキでなくなったらただちに存在をやめて消滅してしまうという、初期小松左京の最も美しい短編『お告げ』の恩寵的世界を断固として措定したわけではない。石井の映画でもそうだが、転向暴走主義者が屈折ぬきに薄汚いマッポに栄転する姿を投げ出して、世の中こんなものさと先回りする老成ぶりは間違っているのではないか。
 それに井筒には中島貞雄のような差別作家のチンピラ映画に思い入れがありすぎるようだ。基地の街の混血児同志の内部ゲバルトを希望にみちて描ききった長谷部安春の『野良猫ロック・セックスハンター』(大和屋竺脚本)などにむしろ典拠を置く
べきではなかったか。
 ――とまあこんなことをくどくど書くと、大島渚の『青春残酷物語』の、力及ばずして敗け込んだオッサンが当世の若者に説教ポーズの愚痴をきかせるあまりにも有名な一場面みたいだからやめておこう。
 疾走せねばならない。そこがたとえ枯れ果てたプールの底の冷たいコンクリートであっても。

「同時代批評」5号、1982年6月


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