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仮面舞踏会の夜 後篇 [AtBL再録2]

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 それは何故か、少し保留しよう。
 少し保留して、崔洋一の公開未定作『十階のモスキート』における世代の交通について考えてみると、ここでの十代(小泉今日子)は原宿で遊んでいる反復でしか現われないが、素行不良・好き勝手破滅の人生を親爺(内田裕也)に先行されてしまうタイプである。


204h.jpg203e.jpg 要するに、一人の「市民」がパソコンにのめりこみ、競艇場通いに狂い、サラ金地獄にはまり、別れた女房には金を取られ、出世コースからも外れ、遂に郵便局押し入り強盗に決起するところの、中年がんばってる映画だから、親爺の「非行」が娘にどう反映してゆくかは作品の外側にはじかれる結果になっている。
 かつて李学仁『異邦人の河』をつくった頃、在日朝鮮人映画作家によるはじめての劇映画という自恃を非常に強調していたのだが、そのことも含めてかれの芸術観の問題はかれの作品を規制する貧しさに結果したと思わざるをえなかった。同様のこだわりの位置付けをすれば崔の作品は日本映画史上で二番目の在日朝鮮人の作り手による劇映画であることになる。
 そしてそういうものとして公開を拒否されているのだ。
 『十階のモスキート』という作品は、こうしたいい方にそぐわない質のものであろうけれど、あえてそう書き止めておきたい。

 『水のないプール』の続篇でもあるようなこの映画は、前作のようなアンチ・クライマックスから一転して、包囲されたまま夜をむかえた裕也の強盗ポリが、逮捕され、同僚たちからぶちのめされ、引きずられ、狂い回り、叫び出す、くどいほどに丁寧に呈示された破局において、異様なばかりのボルテージに達している。
 ガキもポリ公もはねあがる今日、表層ばかりの通行儀式〈ソツギョーシキ〉に不可欠の護衛者として東奔西走する番犬たちの胸にもこうした焦燥があることを結果的に証明してしまっている娯楽映画を、多数の人の目にふれることを封鎖する意志が現実のものとなっている。
 一方で焦燥にかられながらも市民ポリの義務をつつがなく果し、また卒業式防衛闘争の勝利の展望を保障している多数の「公僕」の確固たる実在に対してこの映画がもたらす挑発力を恐れるのだとしたら、その貧しさが却って崔の作品の勲章となるに違いないのだ。

 『丑三つの村』の戦時下に実在のモデルをもつ三十人殺しの青年も、今日の閉塞状況に行きはぐれた個別性として明確に突き出されている。

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 曽根が『色情姉妹』をつくったようには『夜をぶっとばせ』をつくらなかったのとは反対に、田中登は『神戸国際ギャング』や『屋根裏の散歩者』をつくった延長でこの映画をつくった。徴兵検査を不合格になった村一番の秀才が肺病やみと排外され、村の掟を握る者らとの闘いに立ち上がるまでを克明に跡付けてゆく手法は分析的であると同時にしっとりと悦楽的である。
 そして強調しておきたいのは主人公の祖母(原泉)の存在だ。この作品、相米の作品、更に趙方豪主演『春画』と、力をはきだしているシナリオの西岡もさることながら、そして古尾谷雅人も強烈だったが、非国民・ゴクつぶしと罵声を浴びて耐える孫可愛いさに慟哭する彼女の表現に時空を超えてプロレタリア詩人中野重治の妻たる人の屹立を見た。
 佐多稲子は五十年来の同志中野を悼んで一本を著したが、同等の深い悲しみを原泉はこの映画の容れ物に刻みつけたのではないだろうか。
 そしてようやく、テーマは、世代の交通というその一点に収斂してゆかねばならないようである。

 で、相米は、この方法論偏重長回し曖昧屋は、何をあの映画のラストにきて照れてみせたのだろうか。つまるところ、ミドルやくざとミドルティーンの風を喰らった旅の旅程は終着に届いたのである。「ふられてBANZAI」を唄い、踊るガキたち。もちろんのこと、主題歌が流れ、高まりを持続させつつ、次の詰めに向わねばならないのだ。カメラは依然として勤かず静止した凝視を強要する。
 ましてやこれはアングラ仕掛けの大団円なのだ。舞台を仕切る垂れ幕ははね上り、劇場を包囲していた異貌の都市空間が進駐し、役者たちはこれを最後に暴れ狂い絶叫し、客席から投げ銭と掛け声が飛び交い、火が燃えさかり舞台は解体する……つまりは共有された興奮は外に向って解放されてゆくのだ。
 しかして『ションベン・ライダー』においてはどうだったか。

 想像力空間への外界からの圧殺が定在してくる。誘拐凶悪犯のアジトを包囲した公権力からの恫喝が「武器を捨てて連やかに投降せよ投降せよ」を繰り返す。そして圧倒的に暴虐な放水がかれらを撃ちつける。
 この仕掛け舞台においては、観客は想像力が外からの攻撃によって封殺される様を凝視せねばならない。かれらの奇妙な凶状旅の終りが、強権的に水びたしにされたように、あの冬、あの誤謬多き連合赤軍の兵士たちは、死刑判決のみではあきたらない司法官僚による《最後まで人質に隠れてわが身をかばい続け、おめおめと全員逮捕されて生き恥をさらした》との罵言を投げ付けられたかれらは、水びたしにされた。
 映画のラストが告げようとしたことはこのことではないのか。203n.jpg
 つまり、われわれ自身の浅間山荘が内部からの凝視を欲求されたのだ、と。
 解体された「旅団」に直面してゴンベは一人背負って出てゆこうとする。死に場所を求めて立ち現われてきた赤い着物の真情としてそれはあまりに自然ではあったが、かれは、仲間である・仲間であったミドルティーンたちにあいさつをせねばいけないのだ。
 その言葉はあるだろうか。おめおめと生き残るにせよ、おめおめと死地におもむくにせよ……。
 その言葉はあるだろうか。
 『西ドイツ「過激派」通信』の共著者は、未成年における麻薬常用・犯罪・自殺・情緒障害などのデータをあげた上で、ファシズム土壌を肥えさせる若者たちについて、かれらに個人的な単独責任を負わすことは正しくない、という意味のことを書いていた。
 映画で、救出されたガキの一人がいい捨てる《ずっと僕達だけで頑張って来たんだ!》がわたしの胸につきささる。


「日本読書新聞」1983年4月18日号


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