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気狂いヘルツォーク [AtBL再録1]

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 『アギーレ・神の怒り』ヨーロッパ文明の断末魔的自己批判を見た。
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 ことは当方の視角に関してであり、ヴェルナー・ヘルツォークという作家のメッセージに関してではないから、かれがこの「キチガイ映画」イッパイに自己批判を充填したという意味ではない念為。
 人はこの「キチガイ」の自然描写に対してモゴモゴとふんぎりのつかない図式意見を述べることで作品評にまぎらせようとする。
 それも識見ではありましょう。比較の対象にもってこられるのは、ベルトリッチであったり、ダヴィアーニ兄弟であったり、テレンス・マリックであったり、PLO映画『土地の日』のガーレブ・シャースであったり、はたまた今村昌平であったりするだろう、いやはや。

 大体が『フィッツカラルド』のほうから見てしまったのが失敗ではあった筈だ。こちらは「キチガイぶり」は一貫しているが「作家精神」としては盤石のものとなっている。植民地主義浪漫パトスの作家としての「気狂いヘルツオーク」の資質と傾向がどっしりと(沢山の人柱の上に)ゆるぎないものになっているのである。
 コッポラの『アポカリプス・ナウ』は「ヴェトナム戦争を映画の上で再戦した」という点の他は、コンラッド、マーク・トウェイン、ヘルツォーク、白人帝国主義の居直りなどが雑多に入り混じっただけの、何のオリジナリティもない駄作だったわけだ。
 あの映画で一等すぐれていたところの、あのワグナーをBGMに重装ヘリの空挺騎兵隊が解放軍の拠点と勝手に決め込んだ村落を襲撃するすさまじいシーンに会って、当方のような日本人にもなけなしにあったらしい内なるアジアがかきむしられて涙が止まらなかったことがあるが、その時はヘルツオークの存在も知識には挿入されていなかったらしい。
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 河の映画である。
 コッポラの河下りは、いわば逆ハックルベリイ・フィン、つまりは奴隷買付けの地獄旅なのであった。そのように『フィッツカラルド』も、最初は、おえッ、これは本年度最高最悪の超感動作だと思った。基本的にこの感想は動かないが、『アギーレ』へのコッポラ的変質あるいは俗悪パロディを通過した形で『フィッツカラルド』は形式的には大仕掛けとテーマ的安定に向った、と訂正しなければならない。

 十六世紀の未開の奥地に黄金郷を夢見て侵入するスペイン軍隊の「キチガイ隊長」を描こうが、二十世紀の未だに未開の大アマゾン流域にオペラハウスをぶったてようと夢想する「キチガイドイツ人」を描こうが、そしてそこにワグナーという援軍を付加しようが、ヘルツォークの映画戦略の本質に変わりはない。しかしテーマを自然対文明人の関係に解消する限りこれら「キチガイ映画」を鑑賞する安全保障は確定しているにしても、植民地主義ヨーロッパ文明の現地的試練という枠で見てゆけば、『アギーレ』から『フィッツカラルド』への変質は明らかである。
 ボロ汽船にオペラ座の座員たちを積み込んで文字通り移動するフローティングオペラをみやげに帰還する植民者の大満足で終る『フィッツカラルド』はスペクタクルの華麗さで超弩級ではあってもコッポラ映画の最終的無反省に血縁するもののようだった。ドアーズの「これで終り〈ジ・エンド〉かい、マイ・フレンド」はここでこそ流してほしかったね。

 (話は飛ぶが、二つの「キチガイ河映画」を順序は逆にだが見て、『死霊』第六章が連想されて仕方がなかった。明るい静謐な河を行くボートのイメージがあれには中心にあったと思うのだ。現代日本文壇文学の空なるかな虚なるかなの感慨をだらだらと書いた本『主題としての空虚』で吉本御大は、あの河は隅田川さ、とおろかなことを断言して人のイメージに泥をぬる解読を披露しているが、とんだクソリアリズムというものだ)。

 河の映画であるけれど、時と河について考え抜いた映画ではない。

 そのぶん、顔の映画である。クラウス・キンスキーの顔である。

 来日したヘルツォークが、『アギーレ』で最も手古摺ったのは天才パラノイア俳優キンスキーのあつかいであって、ピストルで脅迫して演出したのだ、と裏話を語っていることは《映画好きの人間なら誰でも知っていよう》――なんだか文体がH教授に似てきてしまったな(かれのヴィム・ヴェンダース論は映画批評が嗜好とペダンティズムの垂れ流しと同義であるこの国の風土にあって依然有力であるぶっとび方で出色のものである――お世辞ではない)。
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 「キチガイ」監督におどかされたもう一人の「キチガイ」俳優が映画で喋ったセリフは「わしこそ神の怒りだ。わしの一にらみで空飛ぶ鳥さえも一瞬に墜落をするのだ」に違いないし、それはあのギョロ目ゲタ顎ナメクジ唇に奇怪な憂愁と尖鋭な欲情はりつかせたあの「気狂いキンスキー」のあの顔であるのだ。
 顔である他ないのだ。歴史上の征服者に対する作品化欲求が征服行を縮小コピーする過程をもたざるをえないような映画製作行においてこうした「キチガイ同士」の激突を見るとは全く稀有なことではないか。
 どこまでもドイツ帝国の拡大版図への夢想に重なり合ってしまう狂気の主人公を、一人は征服行の再現者であるといえる映画監督として、もう一人はかれの独裁に敢然と対峙するのだが結果は最もかれに忠実な傀儡となって演ずるしかない俳優として、分業的に生き直しているのである。
 かれらのドラマこそがこの映画の振幅であり、それはすべてゲルマン・ファシストいまだ顕在なりを語るあの怪異な顔に集中的に表現された。
 かれが河と密林に囲饒され地団駄ふんで何物かをにらみつけている時、監督をにらんでいるのだと考えて間違いないのである。
 かれらがなれあったところにはかれらの歴史的本質への居直りしか出てこないことは必然であろう。安息した植民地主義者のダルな面付きである。
 《『フィッツカラルド』もまた、ウォーレン・オーツの不在のみが嘆かれる映画だ》とH教授はかなり意味不明のことをわめいているが、ピーター・トッシュと「ドント・ルック・バック」を唱ったミック・ジャガーの不在もまたこの映画にとっては嘆かれるべきことだろう。

 河から顔へ。
 自然の無機的な成立への偏執から被抑圧人民ヘ――これは最頂期の花田清輝も掘り下げをよくなさなかったテーマであるが、大自然とよく闘う者は自ずと抑圧階級に自己を置いている置かざるをえない、そのことをヘルツォーク=キンスキー「気狂い共闘」は身をもって示した。
 草原・海・砂漠などについての花田のエッセイは、とりあえずかれの個的な変身願望(そこから政治運動論へと直結させるアリバイをも含めた上での)以外のものを少くしか残していない。
 かれのアヴァンギャルド芸術諭の精髄が自然弁証法へと猪突する場をもしもったとしたらという焦慮は、ありうべき戦後革命への繰り言同様もはや悪質である他ないだろうけれど、自然の暴虐と静観とにどうしようもなく捕えられてしまった人間は、それを征服するしか途をもたないという答えではない別の綱領が手探りされたかもしれなかった、とだけはいっておきたい。

 土地を征服する者がそこに属するすべての生物や無機物をも征服せねば止まないこともまた自明であるから。
 すべての部下を奪われて唯一人残ったアギーレが「キチガイー直線」の不退転を演ずる時、そこにはヨーロッパ文明総体への自己批判が遁れようもなく現前化してくることはすでに見届けた。

「日本読書新聞」1983年6月13日号

【単行本 後記】
 「気狂いヘルツオーク」の新作は『コブラ・ヴェルテ』、アフリカの奴隷商人の映画である。キンスキーは山賊から身を起こし奴隷国家の首長にまで成り上がる。アマゾネスの女軍隊を訓練し、敵を攻め落とすところに、キンスキーの好色と侵略性がいかんなく発揮されていた他は、凡作にとどまった。

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