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シャフナザーロフ「ジャズメン」 [AtBL再録1]

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 さらばオデッサ愚連隊、という気分で期待して見に行った。
 ソヴィエト映画の新しい才能によるジャズ映画。監督シャフナザーロフは、わが日本映画界でいえば、森田芳光や水谷俊之や上垣保朗ら、あっというまに脚光を浴びて第一線にのしあがり(あるいはその途上で)、流行監督宣言をぶちあげたり、そのとたんに驚異の低迷を示したり、とにかく話題に事欠かない一群の「シネマ・モラトリアム派」と同年代に属する。いわば映画が絶対であるという環境で育った世代。そして国内的には、官立の映画大学に学ぶ中から傑出してきたという条件をもって、タルコフスキイ、ミハルコフ、故シュクシーン、に続く才能であるわけだ。

 映画は、一九二〇年代後半の「国際都市」オデッサ、一人のジャズ青年が帝国主義の手先として追放されながらも、自己の夢に賭けるところから始まる。すでにレーニン、トロツキーなく、スターリン主導の一国社会主義路線に整理されてきている時期だが、それは、ソヴィエト・ジャズの先駆者たることの栄光と悲惨のドラマにふさわしいものであるかもしれない。そして「革命の辺境」であるオデッサにおいて「辺境の反革命音楽」に捉われてしまった若者のピカレスクな反抗物語の展開が期待された。しかし結果は、ダイナミックな素材をソフトで無難なお話にまとめあげる才能の管見に終ったようである。

 なるほど主人公がグループを結成するまでの前半部には、いくらかの躍動が感じられないではない。しかし後半に移って、かれらクァルテットがモスクワでの成功を追うようになってからは、映画は、整合された一本線のサクセス・ストーリーに収まってゆくようだった。
 障害は様々のタイプの音楽官僚から発せられてくるが、根幹は一国社会主義の「世
界政策」がこの混沌たる表現形態を認知するかどうかである。作者が前半部にみられた反抗にもう少しテーマの力点を与えていたなら、映画はこの歴史的な文化のダイナミズムを引き入れることができていただろう。

 しかしシャフナザーロフの欲求は、全体を軽妙なコミック仕立てにまとめることにあったようだ。軽妙という点では、見終って少し苦しいが、顕わになるべき問題意識が回避されたという点ではうまくいっている。まことに優等生的な作品なのである。
 それは学校を出なければ映画をつくれないという体制の問題であるだろうけれど、それにしてもタルコフスキイもミハルコフも、すでにあんまりにも面白くないのだな。

「ミュージック・マガジン」1984年5月号


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