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ブラームス『ドイツ・青ざめた母』 [AtBL再録1]

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 ヘルマ・サンダース・ブラームス脚本・監督の『ドイツ・青ざめた母』は、昨年「西ドイツ映画祭」の三日目に上映された。作者自身が来日し、上映のあいさつとして西ドイツの戦後と女性精神史について語り、またヘルツォーク、ヴェンダースを含めたシンポジウムでニュー・ジャーマン・シネマにおける女性作家の位置について注意を向けたことでも記憶される。

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 これは極めて正当的な女性映画である。平均的な一市民が、戦中・戦後を通過してこうむった精神的負債を、女性の立場において、正面から見すえた、という意味で――。

 これに先立って話題になった映画に『鉛の時代』がある。比較してみれば、マルガレーテ・フォン・トロッタの映画は、鉄の母たちによって生み出された子弟の戦後史に関わっていたわけであるが、ブラームスの視点はあくまで、母として戦争を通過した女性に重くすえられている。この正当性がしばしば紋切り型に収まってしまう辛さがあるのだけれど。
 何故そうであるのか。作者の視点が、母であることへの限りない讃歌に一貫すると共に、その母性を翻弄した歴史解釈に関してはある種の客観主義にとどまっているからだろう。
 ――戦争は男を人殺しにまきこむ、しかしそんな状況にあっても女は新しい人に生を与え続けるのだ、と。そうであるから、この作品が「変型母もの映画」として鑑賞されてしまうような事態は充分に危惧される。

 主演のエーファ・マッテスの存在感は畏怖に値した。確かにそうである。戦火のドイツを幼児を背負って彷徨する中盤のいくつかのシーンは忘れ難く見事である。母であること女であることの強さ哀しさがこの上ない自然さで画面に決定されてくる(この部分に、ミゾグチの例えば『雨月物語』からの引用を感知するスノビズムは慎もうではないか)。
 最も侵犯的だったのは、先立って、顔のクローズ・アップのみによってなされる出産シーンである。ただここで、苦痛と神聖を告知する表情に重なって、空襲のフィルムがカットバックされるという全く折り目正しい技法を作者が使っているので、かえって場面(戦火のさなかの出産)の効果は底が浅いものに結果したと惜しまれる。

 作者がこの(自伝的であることを隠さない)作品で、旧世代に対する決着を、もしつけ得たのなら、更なる作品で、自らの戦後史を、紋切り型におちいることなく、切開してくることを期待しよう。

「ミュージック・マガジン」1984年7月号


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