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情事OL1984 [AtBL再録2]

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 ジョージ・オーウェルの一九八四年でありますが、ジャーナリズムのオーウェル祭りよりも、権力が先手を取って、風俗営業法改悪に乗り出してきたような気がします。アンソニー・バージェスの『一九八五年』やG・K・チェスタトンの『新ナポレオン奇譚』などの、ユートピア小説の便乗については、べつだんどういうこともありませんが、管理統制の便乗はいかがなものでしょうか。オーウェルのアンチ・ユートピアの言語統制が他ならぬ本年度に実現されて、ポルノ映画界の自主規制から「女子大生」や「OL」などの言葉が消えてゆくとは想像だにしなかったです。おかげでニッカツなどはずいぷんと不入りになっておるそうじゃありませんか。
 『ブルータス』89号で岡留安則君が、フーエー法改悪反対のゲキをとばして、《断固として悦楽的都市生活の自由を守るゾ!》と呼びかけておりますが。

 ポルノ映画界に関しては自主規制してしまったのだから何とも致し方ございませんね。守るべき何物があるのか。大体がポルノポルノといいながら、オメコもオメコの毛も、見ない・見せない・見せられないの三段変態活用の世界なのですから、そういう局部同様にいくつかの用語が「発禁」になったからといって騒ぐほうが間違っているのかもしれませんな。
 どうも小生も、それかあらぬか、ずいぶん映画を見なくなりました。裏ビデオの世界に通じているはうが何かと人付き合いにも便利な様子なので……。
 エンツェンスベルガーの『意識産業』ではありませんが、そこらのいかがわしいニュージャーナリストなんかじゃなくて、本気に「射精産業」の多角的考察が必要とされているのではないですか。それどころか、オーウェルについてのおしゃべりで、すでに今がそのアンチ・ユートピアの一九八四年だと現認するものがありましたか。
 問題はフーエー法改悪という問題だけではないようです。局部および局部の毛ならびに局部的用語、というものがタブーになりました。ポルノ映画とは、現代において、全くそれらしからぬ題名ならびにそれらしからぬポスター・宣伝を使って、客を誘い込み、それらしからぬ隠し方を見せる、というそういう領域になったようです。つまり、情事OLなどという語を使わずして、情事OLの濡れたビラビラやふるえて口を開ける局部〈あそこ〉を妄想させねばならないのです。

 まさにジョージ・オーウェル的状況ですな。
 情事OL的状況です。

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 『週刊宝石』が「ピンク色のゲリラたち」として取り上げたように、しかし日本映画の新しい才能たちは、この領域からしか出てこないような気がしますが。
 『話の特集』(エーツ・何号か忘れてしまったな)では、蓮実重彦先生が、周防正行脚本監督『変態家族・兄貴の姉さん』を、例によって例の調子で激賞していましたな。この映画を見ずして人は本年度の映画に関して語る資格はいっさいない、ということでした。いや、映画全般について、だったかな。
 先生は何をいいたいのですか。エロ映画とローアングルの連関とか、日本的家屋の構図とはだかの肉体の共存とか、そういう瑣末なことなのですかね。

 これこれ不謹慎ですね。先生は、ロバート・ロッセンの『オール・ザ・キングス・メン』を何十年ぶりかで見るために、わざわざ下高井戸京王まで足を運ぶお方ですぞ。大体が、松田政男先生も加えて、この方たちの年間鑑賞本数におそれいりなさい。とても及びもつかないくせに偉そうなことを申すのは考えものです。
 そういえば、紅顔無知・厚顔無恥の者は、すべからく周防の映画を観る前に、先生御自身による小津安二郎論の御著書を読みかつ詳細に研究するべきだとも書いておられました。仲々謙虚な御提言であると拝受致しました。ところで低予算のピンク映画にこれだけの宣伝資金があったとは意外や意外です。
 これこれ……。この場合は、先生御自身が製作資金をお出しになったのではないかと考えるほうが適当なのではありませんか。
 いえ、クレジットを見落しましたが、まるきりあの方がお作りになったのでは……。
 余計に不謹慎ですよ。それにしても、あれは、あの脚本は、『オヅの記憶装置』でしたっけ、それとも『オヅの魔法使い』でしたっけ……。失礼、いや、忘れました。
 そういうことではあなたも先生から《地獄に堕ちろ》と罵しられるのがオチですな。しかし、別にあのような労作を読まぬでも、周防の作品が、小津映画のシミュレーション・ポルノだということは瞭然ではありませんか。麻生うさぎがパンツの上からフェラチオするところとか、大杉漣の笠智衆ものまねは面白かったですが、それ以外に何かありますか。
 大杉=笠が息子の嫁(風かほる=原節子、いや大分落ちますな)に向って、あんた今幸せかい?とたずねる川岸の場面とか……後景を電車がゆっくりと通り過ぎていきますな……、息子が家出してしまったあと、あんた遠慮することは何もないんだよ、と同じく父親が息子の嫁に語りかける屋内のシーンとか、まだまだいっぱいありますな。
R 何ですか。要するに小津名場面集のリメイクであるだけでしょう。少し猫背ぎみに放心の表情をつくれば、日本の父親の原像=笠が、ハイ、一丁上りになるだけじゃありませんか。映画的教養の問題なのですかね。もっとましなものはありませんか。

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 米田彰脚本監督『虐待奴隷少女』はいかがですか。
 まことに結構、蓮実先生ほどの筆力には恵まれませんが、恥かしながら推薦の辞に駄文を費してもよろしい。
 有楽町駅前の雑踏で主人公が、勤め人生活からポカンとドロップ・アウトしてしまう冒頭から、同じ場処に恋人を捨て去って逃亡してしまう終末まで、見事な青春映画であります。珍らしくも男優がそろっています。山路和弘、下元史郎、中根徹。三人ともよろしいのは、この種の映画としてはまさに出色です。要するに、シャブボケでセックス人形になってしまった少女(美野真琴)への「愛」をどういうふうに始末をつけるかという三人の男の選択の話だったと思うので、余計にそうです。女優に関しては、『セックスハンター・濡れた標的』で米兵に輪姦されて気の狂った後の伊佐山ひろ子を引き合いに出すのも酷かもしれませんが、もう一つという感想です。一等真剣だった男は、親友に彼女を押し付けて蒸発する。託された男は、何か責任を引き受けるように女と暮すけれど、最後は引き受けきれずに、雑踏の中に女を捨てて逃げる。彼女は一体だれに拾われるのかというところで幕引きになります。鮮烈です。

 倒立した春琴抄物語とでも申しましょうか。設定は彼女を弱い存在と捉えることによって状況の典型化をめざしているようでもあります。しかし女は捨てられても存外したたかに生きてゆくかもしれないという視点を捨象しているので、やはり、浦山桐郎の『私が・棄てた・女』的な男の側の映画にまとまってしまったようです。しかしそうであるなりに今日のピーターパン的青春の苦い閉塞に深く突き剌さっていると思えました。こうした状況映画としては、中村幻児が朝吹ケイトを使った二作『下半身症候群』『トルコの48時間』で、ソツない出来映えを示しています。これらをまとめてピーターパン青春ポルノ映画と呼べるでしょう。

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 『下半身症候群』は中根徹がよかったです。中根とかれの同棲相手朝吹、そしてかれのホモの愛人大杉漣の各々のからみがよかったです。かれは女相手には反応しない身体、しかし一人寝が淋しい女が裸で肌を合わせて側に寄り添ってくれないと安心して眠れないというので、仕方なく添い寝してやる。覗き部屋のアルバイトでいつもさらされている彼女の無色透明のような肉体が、かれの不能にふさわしいとでもいうように――。かれの夢は、居もしないニューヨークの愛人のもとに行って、一緒に暮すことです。折りにふれてかれが語る夢は、ぶらぶらと下半身産業で日々を過している日常の耐え難さに関わっているだけなのに、そこにこだわったかれは、現在の愛人に叩き殺されるのです。

 久方振りの幻児調青春映画であるようです。『トルコの48時間』も中根・朝吹のコンビで見せますね。ところで、今さら幻児でもあるまいというムキには……。

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 磯村一路脚本監督の『愛欲の日々・エクスタシー』など。見ず知らずの男女の行きずりの愛欲と別離、というかなり廃品回収的な設定を臆面もなく使って、美学だけを突き出そうとしていますな。たいへんに古風で、しかも、愛の不毛という紋切り型がどうも鼻につきますが、場面のつくりにだけは見るべきいくつかを記憶します。それと、磯村脚本、水谷俊之監督の『女子大生・教師の前で』は――。

 全くこれほど典型的なピーターパン映画はありますまい。覗き部屋で裸を見せるアルバイトの女子大生が、その労働の延長からついには、その覗き部屋に住み込むようになるという話です。裸を見られるという賃労働が自分の肉体を性欲対象から疎外してしまうところまで行くだろうという余断が、この前提にはあります。その意味でシンボリックに逆説的な話であるようですな。
 これも一種の倒立した春琴物語です。現代の佐助たちは、目をつぶすかわりに〈見る〉こと――視姦、見ることだけで欲望の昇華であるような――を選びますが、すでに物語の枠からは排除されて、ただ観客の中に像を結ぶしかないようです。もともと、「覗く-覗かれる」というセックス産業の一つの形が、そのまま、春琴抄の倒立なのではありませんか。ここにはセックスはあっても、オメコはありませぬ。
 ……いえ、水谷の映画の話でした。彼女の裸体は実体をなくしてしまうのです。アルバイトの時間の切り売りで虚ろに裸体をさらしている時だけ実体をなくすのではなく、もっと積極的に生活まるごと実体をなくしてしまうことが志向されるのです。
 下半身産業への従事がそのように疎外であるという現認以上に、その疎外こそが楽しいという逆説すら映画は語っているようなのです。彼女の裸体がレンズとなって、覗き部屋の全景が透視されるようなモンタージュを観るとき、そうした主張をききとらざるをえません。「虚ろに裸体をさらす」などという視点自体が、これはもうクラシックであるようですな。虚ろが楽しいのですよGS……ピース、ピース。
 ここまでくると何かこう、わたしのごとき虐待奴隷中年の了解範囲を越えます。……ところで浅田彰先生の御著書などには、こうしたスキゾ・ギャル生態論が、さぞかし鋭く分析されておるのでしょうな。

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 悲観することはありません。周防脚本水谷監督『スキャンティドール・脱ぎたての香り』の下着フェティシストおじさん上田耕一(間違っても「郎」をつけてはいけません、『赤旗』コワイゾ)の頑張り方をごらんなさい。一昨年の『キャバレー日記』から今年の『スチュワーデス・スキャンダル・獣のように抱きしめて』まで、あの彼のぐわんぶわり方を――。
 スキゾ・ギャル生態論はさておき、あの、それはそうと『神田川淫乱戦争』に、何やらおぞましい秀才マザコン受験生の役で出演したのは、あれはかのA・A〈アサダ〉先生ではなかったですか。
 どうもあなたは眼力まで鈍りましたか。浅田先生とは、だれあろう、あの永遠の映画少年、あのサヨナラオジサン淀川長治先生の生まれ変わりなのではありませんか。

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 『スキャンティドール・脱ぎたての香り』は頑固一徹の下着職人をやった大杉漣がよかったです。どうも今回は、作家の映画という切り込み方で、男優の話に終始してしまうのですかね。ことほどさように、只今、女優が枯渇している事態のようで……。これはスキゾ・ギャルの肉体の透明感(肉体をおおう布切れの透明感ではないですよ)に関係してくるのでしょうか。ビ二本ギャルのあの無機的にすきとおったオメコを一体どう考えるべきでしょうか。これは今日の『逃走論』の権威に是非とも御示唆願いたいことですな。

 止めておきなさい。サイナラ、サイナラといわれるのがオチです。
 どうも困りましたな。これでは映画批評にもなりません。蓮実先生ではありませんが、わたしも自分の著書の宣伝でもしたくなりました。
 ずばり、見せましょうよ、オメコを。いや……、でなかった、つまり、このテーマですな。ピーターパン・シンドローム下にあるポルノ映画の新しい才能だちと、情事OLの一九八四年の問題を、です。まとめましょう。

 ずばり、アンチ・ユートピアですよ。逃げるところなんかありません。逃げようとする意識の自由が確保されていること、これほどの統制はありますか。かつてありましたか。下半身地獄です。サオひとつ、アナひとつの……。えっ? 何の話かって? 勿論、情事OLの話です。一九八四年ですからね。不条理なのです。だから不条理から逃れようとする安心立命のイデオロギーの瀰漫が現状を制圧し、それが不愉快なのです。出口はありません。
 そうしたところに収まってしまうような映画がすでに不愉快なのです。水谷の作品は嫌いですが、『女子大生・教師の前で』がすでにその題名(それだけの)故に、再度の一般公開が無理だろうことには怒りを感じます。
 八つ当りをするわけではありませんが「『パルチザン伝説』出版弾圧事件」パンフレットを作製したグループ、わたしはあなたがたの誠意を疑いはしないが、目に見えた弾圧だけに反応するあなたがたの「誠意」に対しては一種の倨傲を感じざるをえない。ポルノ映画における局部および局部の毛ならびに局部用語と同様の目に見えない弾圧が進行しているのですから。

 じつに一九八四年ですね。
 そうです。
 ところで『スキャンティドール・脱ぎたての香り』はずいぷんと森田芳光の『ピンクカット・太く愛して深く愛して』に相似でしたね。細部がどういうことではなく、全体的なトーンが……。
 そういうことです。水谷にとって流行監督宣言まであと一歩なのです。さて来年あたりは、水谷、周防、米川、磯村たち「ユニット・ファイヴ」による角川映画をサカナに愚痴を垂れることになるでしょうかね。

「映画芸術」349号、1984年8月


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