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復員兵士の詩 [AtBL再録2]

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 『スカーフェイス』『キング・オブ・コメディ』『ストリート・オブ・ファイヤー』ブライアン・デ・パーママーチン・スコセッシウォルター・ヒル、登場して十年ほどになる四十代のアメリカ人作家たちの新作は、何れも、かれらが育った映画環境への狂的なノスタルジアに支えられつつ、暴力的なほどに現代の問題に関わってきている。

 『スカーフェイス』は隠れもなく『暗黒街の顔役』の半世紀ぶりのリメイクとして、ペン・ヘクトハワード・ホークスに捧げられている。しかし、キューバ・カストロ政権に放逐されてアメリカに流人してくるアウトロウをスナップ・ショットするタイトル・バック(ジョルジオ・モロダーの音楽も素晴しい)からして、これはまぎれもなく現在進行中のギャング映画であることを強烈に伝達してくる。これはデ・パーマの最高傑作だろう。

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 犯罪分子を流入させることによって隣接する帝国主義アメリカを擾乱するという、戦略的には正しいのだろうが、戦術的には若干どうかと思われるカストロ政策によって、棄民にされる新型移民の群れが主人公である。
 かれらの頭目であるアル・パチーノは会話のキイワードをおおかたファックで代用するタフガイなのだが、「俺は政治亡命者なんだ」と自己規定は正確なのである。

 パチーノのいつもながらのくさいオーバー・アクトにはこれくらいの役柄がよく似合ったものだ。かれは強制移住された社会にあって、そこでの成功というアメリカン・ドリームに支配されるアメリカ人なのである。
 かれはかれを放逐した政権が望んだようには帝国主義者を憎まず、その替りに、正当にもかれを放逐したコミュニスト政権を全身をもって憎んだ。他に見るべき傍役もおらず、三時間近いこの映画は、ひたすらパチーノの映画だった。かれの憎悪と成功への夢とファック・ユーの連発。そしてデ・パーマ主義の悪趣味〈ファック〉な色彩とモロダーの暗鬱きわまりない音楽(挿入されるディスコ・ミュージックではなく『エルビラとジーナのテーマ』)。

 ボスを倒し同時にボスの女を奪い、第一歩の夢の実現を果したパチーノが、World is your own.の気球(パン・アメリカン航空の広告である)を見上げるシーンは、この映画のすべてを凝縮したようでもあった。ガラス窓越しに見える邸内の一階には、自らも傷ついたパチーノが満足した表情で立っている、二階には身仕度している女の後ろ姿、空の上には気球、という遠景の構図である。

 わたしはこれまで、デ・パーマ主義のイマデルゾイマデルゾ式のサスペンス趣味にはかなり白らけていた口だったが、そして観る前にも、このヒッチコック・フリークが一体何ができるのだと期待半ばであったが、――とにかくこれは最高のデ・パーマ映画だ。これこそアメリカ映画(何ならアメリカ帝国――ファック――主義映画といおうか)だ。

 同じことをもっと興奮していいたいのが『ストリート・オブ・ファイヤー』だ。これははっきり、――『スカーフェイス』がディスコ時代のギャング映画であるのと同じく――ロックンロール時代の西部劇なのだ。
 冒頭、ロックンロール・クィーンのステージに乱入したストリート・ギャングが彼女をさらってゆく。現代のアウトロウはバイクにまたがって悪役ぶりを競演する。そして、一人のソルジャー・ボーイが街にふらりと戻ってきて、彼女の救出のために命を張るのは当然のことだ。男はいつも惚れた女のための気狂いピエロだ。
 ほとんど定石通りのプロットが用意されているから次の展開にとまどうことはない。むろん、かれは、アウトロウの拠点を襲撃し、神々しいまでのヒロインを救け出すのだ。……いつもどこかで見たことかあり、夢見たことがあるような情感であり、なつかしいようなシーンである。これは映画が観客に与えることのできる悦楽の一形態への一つの贅沢な見本であるのだろう。

 そして続いて、雨の中のラヴシーンや、夜明けの決闘や、身を引き裂かれるような訣れが、用意されていることも当然であるだろう。
 同じダイアン・レインが出ていたことで『アウトサイダー』、同じスタジオ撮影ということで『ワン・フロム・ザ・ハート』を、想起せずにはおれなかった。二つともコッポラ映画であるが、前者は要するにディヴィド・O・セルズニック映画『風と共に去りぬ』『白昼の決闘』もそうだったかな)で繰り返される夕陽けの彩りにふちどられて立ち尽す人物のシルエットで何かこうものすごく興奮してしまうパターン――ヘの、それだけへの、ノスタルジアなのだ。いやはや。
 まあ、互い、そういう映画環境に育ったのだから、とやかくいえないか。けれども、だから、ミリアスの『デリンジャー』やボグダノヴィチの『ラスト・ショー』でのホークス礼讃のナイーヴさを想い出して、『スカーフェイス』には感心してしまった次第なのだとでも、再度いっておこう。それにしても何というコッポラのノスタルジア垂れ流しだ。『ワン・フロム・ザ・ハート』というスタジオ撮影の人工的な、ロボット同志のとしかいえないような(主演がデブとブスだったので唯一救いの人間らしさがあったが)恋物語には、ほとほとあきれかえってしまった。

 フランシス・フォード・コッポラとはとてつもなく映画に関して無垢な人物なのだろう。『アポカリプス・ナウ』によって性格破産してしまった作家としては、幼児退行してゆく他ないのだろうか。巨匠の名による退行映画とは興味ある素材であるにしても、すすんで見たくないものである。『ワン・フロム・ザ・ハート』は、 ヴィデオ・テクノロジーとスタジオ・アートに無限の信頼を置いた(要するにヨダレクリになっちまったのだ)作家の実験意欲作であったことだった。
 コッポラおやじの「心の贈り物」などにはヘキエキしていたところが、あの『アウトサイダー』というセルズニック・シルエット映画なのだから。いやはや。
 どうやら私としては、コッポラの映画については、自伝的大作『ゴッドファーザー』を別にすれば、あの衝撃的デビュー作『グラマー西部を荒らす』“Tonight for sure !"だけを記憶に残しておけばよさそうだ。
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 『ストリート・オブ・ファイヤー』のスタジオ撮影が優れているのは、その夜の素晴しさである。いや、あの表現主義映画『ウォリアーズ』からのコンビ、アンドルー・ラズロのカメラが捉える夜の素晴しさである。かれらの映像は、青春を、決して明けることがない真夜中の物語として謳い上げる。夜は決して明けることがない特権的な時間であるからこそ夜なのだ。
 ウォルター・ヒルは、どこかでいつか見かけた場面からのみ構成して、どこでもないいつでもない場処での、ロック・オペラをつくってみせた。夜がこんなふうな夜であるとはこの映画(あるいは『ウォリアーズ』)を見るまで知らなかったことを告白せざるをえない。

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 映画の主人公が(マイケル・バレ――眼がいい)決闘にさいして云った言葉“Sorry,too Late.”は、こうした「アメリカ映画」をやっと作りえた監督のあいさつの言葉としても受け取れるわけだ。

 デ・パーマ、一九四〇年。ヒル、スコセッシ、一九四二年の生れである。
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 さて、それで、マーチン・スコセッシ、ロバート・デニーロの世にいう「パラノイア・コンビ」による『キング・オブ・コメディ』である。
 これは疑いもなくあの夢幻的なテロリストの物語『タクシー・ドライバー』のちょうど八年後の後日譚である。そしてそれ故、再び疑いもなくヴェトナム復員兵士の八年後の後日譚なのである。トラヴィス=デニーロ、二十六歳。あの不眠症のエロ映画マニア、大統領狙撃未遂犯人のモヒカン刈り、十五歳の娼婦を救助するために命を賭けた夢幻的ヒーロー。かれは八年後によみがえったのである。このように――。
 ルーパート・パプキン=デニーロ、三十四歳。一夜のコメディ王を、せめてそれだけを、夢見る男。

 かれ(トラヴィス=ルーパート)の夢は、すでに、コメディ王になりたいという夢だけに、一元化もしくは矮小化している。かれの夢は八年間の間にどんなにか擦り切れてしまったろうか。八年間の間にどんなにか磨滅してしまったろうか。復員兵士の詩はどんなにかその間に疲弊してしまったろうか。けんかの相手に対して本能的にマーシャル・アーツの型を身構えてしまうトラヴィスだったが。訓練された肉体も弛緩してしまった。
 名前も変わっ――ルーパート・パプキン(パチーノのファックと同じ位の回数、デニーロはその名を自己紹介として名乗った)――カボチャ男か? これがこのシンデレラ・ボーイの名前だ。こうしたヒーローを提出したスコセッシの屈折をこそ先ず受け止めねばなるまい。

 人はあるいは、デニーロのコメディヘの狂疾をもろに観て取ろうとするだろうか。そういえば、かれの最初期のロジャー・コーマン作品『血まみれ〈ブラディ〉ママ』の四人兄弟末弟のジャンキー役で、デニーロは、チャップリン・ウォークを数歩、歩いてそのまま倒れるという死に様を演じていたことではあった。
 だが今は、スコセッシの作品軌跡を辿ることにするほうがよかろう。
 例えば、デニーロにライザ・ミネリを配した『ニューヨーク・ニューヨーク』のような作品があるのだ。これには了解を絶するといういい方で対しておくほうがよいだろうか。かれのノスタルジアを許すまい、とはいうまい。――何だかややこしいか。
 スコセッシはそのようなナイーヴな作り手であることをも示したのである。その延長には『ラスト・ワルツ』がある。これは単なるコンサート映画であり、「ザ・バンド」とかれらの解散コンサートに集った人々を主人公とする映画であるともいえる。それは『ウッドストック』の助監督・編集を経験したかれにとって待望の音楽映画であるかもしれない。必ずしも作家の映画ではない、ともいえる。だが、これは明確に、スコセッシによる退役兵士の詩なのだ。それは明確なことである。

 ザ・バンド――ボブ・ディランのバック・バンドとして出発し、いつしかその通名よりも「ザ・バンド」と呼び慣わされる名誉を待ったグループ。かれらのリーダー、ロビー・ロバートソンは五十歳になってもロックを続けられるか? という疑問を解散理由に語っていた。そして、ツァーは人々を消耗させると強調して、オーティス・レディング、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックスなどの名を例示した。その言葉をもってかれらは解散の自己弁護とする。これは明確に、退役兵士の詩であり、それ以外の何物でもないのだ。かれらはロックという戦場から退役してゆくだけなのである。

 『タクシー・ドライバー』から『キング・オブ・コメディ』まで、この二本――『ニューヨーク・ニューヨーク』『ラスト・ワルツ』――に加えて、あの『レイジング・ブル』がはさまっている。
 『タクシー・ドライバー』のラストの謎めいたニヤニヤ笑いと、『レイジング・ブル』のシャドウ・ボクシング(画面には室内のみが映り、フンフンという息と空気を切る音だけが残ってくる)とは、同様の終り方だった。
 たとえていえば、ロジャー・コーマン作品『ビッグ・ボス』で、ペン・キャザラのアル・カポネがシルベスター・スタローンの子分にのしあがられながらも、まだまだ自分は退役はしないぞと、目だけを光らせていたラスト・シーンにも酷似していたこともある。

 そして復員兵士は帰ってくるのである。『キング・オブ・コメディ』に。
 ルーパート・パプキンという名前で。
 この男の存り様はすこぶる滑稽であるが、コメディアンとしての才能に関しては全くのところ心もとないようである。映画会社の営業を生業とする(多分)が、自分はコメディアンの天分があると思い込み、憧れの大スター(これがジェリー・ルイスである)に熱狂的な売り込み作戦を展開する。妄想狂のかれの部屋には、等身大のライザ・ミネリ、ジェリー・ルイス及び沢山の観客たちのパネルが置いてある。かれの日課は、そこにくつろいで、パネルのかれらと対等の会話を楽しむことである。
 そこではかれは王様なのだ。芸人としての尊敬に恵まれた王様なのだ。しかしこれが客観的にはかれの一人言に過ぎないから、そこに母親の叱り声――ルーパート、いいかげんになさい! と。これが大変なマザー・コンプレックスの男。そのたびに、かれは哀願の表情になって、一声「マーム!」と叫び返す。俺の芸術をどうして理解しないのか、と。――これがかれのコメディ修行であり、日常の様態である。

 八年前のタクシー・ドライバーにはまがりなりにも孤独な肉体の修練があった。今、このカボチャ男には何かあるのか。夢、夢、である。かれの妄想は、喜劇王ジェリー・ルイスを誘拐して、その持ち番組を乗っ取る計画にまで拡ってゆく。
 そしてまんまと成功までしてしまうのである。「一夜だけのキングでもいい!」はこの映画の謳い文句でもあった。しかしこれにとどまらず、一夜だけのキングというアメリカ的成功は、かれが誘拐犯として何年かの服役を経ても、変わらぬ恒久的な成功に結果する。刑務所では自伝を執筆し、それがベストセラーを続けている間に出獄してきて、そのまま人気芸人の晴れ舞台にすべりこんでゆく。かれは妄想の中の人物と一体化することができたのである。

 これは果してハッピイ・エンドといえるものだろうか。
 あまりにもいじましい夢にとらわれた復員兵士が、あまりにもいじましい成功を得たにすぎないのではないか。かれに成功を与えるほうが、そのほうが、より苛酷な解答といえるのではないか。いやかれがその夢を獲ち得るか、それとも転落してしまうのかは、どうでもよいことではないか、すでに。
 ただ八年後の復員兵士の「夢と現実」がことほどさように救いようのないものであることを確認すれば充分である。そのようにスコセッシは、五〇年代の往年のスラップスティック・コメディアン、ジェリー・ルイスを起用することによって、ノスタルジアに傾きつつも、現在の課題の先鋭な水位に突き出てきた。

 それを見届け得たところで、アメリカ映画の最前線が大まか一望のもとに了解されることであろう。わたしに関していえば――。
 ルイスが一人ホテルの部屋に帰ってテレビを付けると、いきなりギャング役のリチャード・ウイドマークが現われる。ほんの一瞬だったので、あれが、『ノックは無用』の場面だったか、『拾った女』の場面だったか、いまだわたしは想い出せないでいる。それが心残りである。

 

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 心残りといえば、サム・ペキンパー『コンボイ』以来、八年ぶりに作った『バイオレント・サタデイ』を(原作も読んでいないし)見そこねている。『コンボイ』のあまりのくだらなさに、わたしはペキンパーとエンを切ったが、他ならぬ作者自身が実作とエンを切っていたとは、うかつにも知らなかったのだ。心残りがたまって、またの機会としよう。

「映画芸術」349号、1984年8月


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