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小栗と崔のために [AtBL再録1]

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 在日朝鮮人作家による原作を純日本的感性と図柄において捉えた自主製作映画とベストセラー商法に乗った原作を素材にして在日朝鮮人作家によって作られた角川青春映画と……。
 この対照的な成立の構図が、小栗康平の第二作『伽耶子のために』崔洋一の第三作『いつか誰かが殺される』とを、さしあたって規定しているように思う。一方は作りたいものだけを作るという作家的誠実性に賭けて懸案の李恢成原作に取り組んだのであり、もう一方はプログラム・ピクチュアの世界に身を沈め、日活ロマンポルノからテレビのサスペス・ドラマまで、むしろ作りたくないものを発注されるという姿勢で現在に至っている。

 むろん、こうしたことは作品自体への評価とは別物であるとするのが「批評」の礼節であるのだろうが、あの屈辱の九月六日、天皇・全斗煥会談によって歴史の汚点として切り開かれてしまった憎むべき[日韓新次元]の不可視の抑圧の出発点にあって、偶然にも並んだ小栗と崔の新作を、わたしが特別の感慨をもって見ざるをえなかったこともまた確かなのである。
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 先ず、小栗のケース。この映画は徹頭徹尾、小栗の世界なのだと断言するところから始めねばならないようだ。原作と原作付き映画の比較の問題はまさに宿命的な俗論の拠点ともなって正当な映画批評を汚しつくすわけだし、小栗の映画はシナリオがかなり原作に忠実な抜粋的構成を取っているために、細かい点での説明不足という原作依存の傾向をかなりもっているのだが、一応、原作と映画は別物だというごく当り前の論の前提を明確にしておく必要があると思える。
 少し前に、他ならぬ崔が、小栗が李を映画化することは極く自然だ、と発言しており(本書所収「ひとコマのメッセージ」)、その意味は充分了解できるのだが、まだやはり、言葉を補う必要はあるようだ。
 伽耶子の使う独特の方言、たいていは「――だから」で終る会話について、小説では、主人公の受感として《発音は語尾が感情をあずけるよう下ってきて格別な優しさがある》ないしは《この終助詞で括られる言葉はいつも物問いたげであでやかな余韻がこもっていた》という印象を与えている。

 思うに、この「あでやかな余韻」という一点に刺激されて小栗はかれの『伽耶子のために』の創作にかりたてられたのではないか。それほどまでにかれの描く伽耶子は輝くほどに魅力的なのであり、そうしたものとしての作品は小栗個有の世界を貫徹させて、またふたたびの丹念な手作りの小品なのである。
 判断抜きに、小栗の世界は美しい。しかしそれはあまりにも脆弱で静謐にすぎる美しさだ。そういう映画もあってもいい、とは思うが、まるでスライド・フィルムが一枚ずつさしかえられてゆくような短いカットの積み重ねの進行に、次第に、わたしは居心地悪くなってしまったのだ。
 伽耶子は光り輝く聖少女であり、故にかれらの恋愛は未成年のゴールのない睦言にすぎない。そんな「伽耶子のために」棒げられた青春のレクイエムで、小栗の作品はあるようだ。
 そうした意味で主人公の男女は演技以前の現前性にあるだけでよかった。これは『泥の河』から変わることのない小栗の方法論なのだろう。そして小栗の世界にあっては、自明性の哀歌に流されてゆく庶民の像が演技される身ぶりを要求して、底に重くよどんでくるのも、前作同様で、今回はその庶民が在日の一世であり、かれらがほとんど(説明不足から)青春への抑圧者――一つ具体的には主人公たちの愛を引き裂く当事者――として現われてきてしまう構図によって、普通の意味でのリアリティからは昇天してしまったのだ。
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 作品はそして破綻してしまうべきなのだ。
 べつだんわたしは、小栗が社会意識の欠落した作家だとも、日韓関係の認識レベルにおいて特に低度の人物だとも思わない。逆に、戦時下の植民地朝鮮において受胎されたという個人史を持つ小栗が、植民地人の犠牲によって成立した近代化によって盲目にならされている日本人一般に対する痛みに正当に反応できる作家だという一定の信頼もある。
 ただわたしが感じるのは、小栗は方法的に社会意識が欠落した作家だ、ということだ。そしてそれは『泥の河』の作家にとっては不名誉ではないが、『伽耶子のために』の作家にとっては充分に不名誉なのである。
 二人が結ばれる場面に語られる「戦争があちこち引きずりまわしてくれたおかげで、ぼくたちは会えた」という言葉は、画面自体からも、またその意味内容からも疎外されて白々しい。
 二人を別れさせようとする親たちに対して伽耶子が口走る「いつか一緒に――朝鮮さ行くんだから」の言葉も同様なのだ。理想化された女性「伽耶子のために」捧げられた場面のつくりとして、これは美しいし、それ以上に崇高ですらある。
 しかし問題は、映画自体の特権的な美しさという地平にとどまるのではなく、どうしてこの朝鮮人の父と日本人の母に育てられた日本人の少女が主人公の全く精彩なく優柔不断な在日朝鮮人青年に恋してかれと離れたくないためにこの言葉を吐くのかという社会性に開かれてゆかなければならない。原作ではいくつか書き込まれている、この言葉への伏線的背景は、すべてシナリオで省略されているために、この場面は例の「原作を読んでいないとわからない」式の唐突な説明不足をもってしまった。だが唐突さはこの場面において最良の効果をはたしたと思える。
 わたしたちは少なからぬ体験として、在日もしくは「在韓」の朝鮮人と添い遂げまた添い遂げるだろう日本人を知っているはずだし、そうした個人史にとって一時的な唐突さはあっても、経験としての普遍性は必ず根拠をもつはずなのである。しかしこうした認識はとても日本人一般のものではないし、また小栗がそうした特殊性をあてこんであえてこの場面を作為したとも思わない。
 全くフツーの日本人に向って小栗はこの場面をあえて説明省略のままぶつけてきたし、その異化効果は充分にはたしたと思えるのだ。惚れて添い遂げたいと思った朝鮮人が祖国への帰還を熱望しているのなら、一緒にそこへ行きたいと思うのは当然であるだろう。それを伽耶子という一個の具体性を通して表現しようとするのが小栗の世界の方法論である。これは成功している。そしてわたしはこの成功にこそ強い疑義を持つのである。
 いつか一緒に朝鮮に行きたい、帰りたい祖国へという恋情は、語尾が格別な優しさでもって感情をあずけるように下ってきて、あでやかな余韻のこもる「朝鮮さ行くんだから」という独特の話し言葉で表明される。
 この美しさの完成する場面にわたしは疑義を持つのだ。この美しさが、異国人との恋愛を通しての日本人意識の拡大という方向に聞かれているのか、それとも個別の新人女優(南果歩)の輝きに吸収されているのか、確定は慎しむにしても、ただ小栗にとっては随分と冒険を強いられただろうこの作品が、最終的にはヒロインの魅力に依拠してしまったことに対して非常な「遺憾の意」をあらわさずにはおれない。
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 ところで、わたしの李恢成の『伽耶子のために』に対する評価は、これが典型的なパッシング・ノヴェルであるということに尽きる。パッシング・ノヴェルとは、アメリカの黒人文学史における被差別の領域に通有してゆこうとする黒人のアイデンティティ意識をテーマとした一時期の傾向を指示しているのだが、五〇年代末(母国では四・一九革命前夜ということである)の在日朝鮮人学生と日本人女性の苦い成就しないラヴストーリーという基本的な骨格に、一世と二世の世代的相剋と帰国運動高揚の中での個別の選択の幅とを肉付けしようとした李の作品は、すでに黒人やユダヤ系アメリカ人の文学が使いきったパターンの踏襲にいくらか日本人好みの陰翳を与えただけのように思える。
 その限りで李の文学の本質が、一地方文学としての日本文学におもねったものとはいえないにしても、わたしらの文学の決定的な狭さをぶちこわすものとしてはそこに認知されなかったことを李のためにいたましいと思う。

 その限りで、李の作品が小栗のような日本人作家に簒奪されてゆくことに対して(崔が小栗の『伽耶子のために』は自然であり、見る前からわかっている、といったように)、痛憤を感じる在日朝鮮人の意識の予想に、わたしの心は痛む。
 わたしは在日日本人の一人としてどうにもかれらには答えられない。李の『伽耶子のために』はとこまでも恋愛小説である。ここで描かれている民族問題の苦渋はあえて強調するのなら付録であり、省略することも可能である。それは小栗の映画という形でこの上もなく明確に指示されてしまった。
 李の小説は、最終的には伽耶子が自分の淫蕩な血を強調し、それを受け入れることのできない主人公の未成熟が二人を切り離すという結末によって、かれは自己正当化的に救われ、もって作者も救われる、そういう仕舞い方になっている。
 性的に男よりもずっと経験豊かな女性を受け入れることができない未成熟において自己のアイデンティティの始末をつけた主人公(作者)の視点に、わたしは、李の日本人に対する恨の代行を見る。
 しかしもっと徹底して、日本人女の淫蕩さにふりまわされた純情な在日朝鮮入青年の恨みつらみを表現する方法もまたあったし、かれがただ観念的に自己の民族性の注入に努めたとして、その結果として日本女の口から出てきた「いつか一緒に――朝鮮さ行くんだから」へのその浅薄さへの心の底からの抗議(それが個人的な愛と紙一重であることはあまりに自明ではないか)を言葉いっぱいに充満させる方法もまたあった。

 『伽耶子のために』を読み返してみて、あらためて、李の分担させられている在日朝鮮人文学の貧しさとそして、それを癒着的に包括する「日本文学」の貧しさに思い到って、思い屈した。
 李はヒロインの性格付けとして秘かに自分でも意識していないかもしれない日本女への恨みを定着したのだが、小栗は彼女を聖処女のようにたてまつることにおいて、原作にはかろうじてあったパッシング・ノヴェルの陰翳すらけずりとってしまった。
 小栗の作品は日本人の映画である。日本人しか登場しない。だから原作では作者自身の投影であるような主人公の優柔不断が作者自身にも帰せられたように、映画での主人公も小栗そのままに何か中間的な調停的な位置にいて、女の存在を受け止めることができないのだ。
 『伽耶子のために』を、掌の上で転すだけでも壊れてしまいそうな繊細な美しさに構築した小栗に対して讃辞をつらねることはたやすいが、それはすべてこの作品の社会性を捨象せねば成り立たないだろう。原作をもっと破壊し開示するような方向で、かれらの愛の結末を考えさせる展開において、原作をのりこえた映画が望まれてあった。

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 次に、崔のケース。『いつか誰かが殺される』については何もいいたくない。何もいいたくないのである。強いて言葉を絞れば、崔は自分の『地下鉄のザジ』を作ったつもりなのだろうが、こちらの受け取ったものはだれが作ろうと一緒な角川映画に他ならないのだった。
 大林宣彦の『時をかける少女』根岸吉太郎の『探偵物語』森田芳光の『メイン・テーマ』も崔の今回の作品も、そして角川御大自らの監督による何本かも、みんな一緒なのだ。
 何かが根本的に間違っているのではないか。わたしは最高の善意をもって、今日の映画状況をかつてのハリウッド黄金時代の小アナロジーとして見なし、かつての映画のタイクーンを思い、角川にアーヴィング・タルバーグを重ね合わせてみたりする。だがそのつど、思い当るのはすでに、フリッツ・ラングもシュトロハイムもスタンバーグもビリー・ワイルダーもいない、ということである。

 わたしにはあのアイマイな相米慎二の名しか上がってこない。一人が突破口になるのではなく、一人が一人の屍の上に積み重なってゆくというのが、従来の角川メニューのパターンだった。それもわずかな作品歴の作家たちが、あたかも赤川次郎の世界のような一躍の成功という吸い上げられ方にさらされるのである。ムーヴィ・モガールの大満足、作り手たちの一定自負、大動員される観客、となるとまるで三題噺で、もはや、映画批評がつけこむスキはなく、奇怪な駄作が残ってくるのみである。
 NHKによる趙容弼〈チョー・ヨンピル〉かいとりに象徴されるように、資本の文化簒奪の形は急角度を描いてこの在日の足元に癒着構造の触手をはりめぐらせてゆく。
 [韓日新次元]の、映像レベルにおいてもの深い混迷と不可視は、大まか以上の考察を、わたしをして、小栗と崔のために、強いることとなった。

「詩と思想」28号、1984年11月


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