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ランブリング・コッポラ [AtBL再録1]

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 『ランブル・フィッシュ』
 光と影の映画……。
 雲と風と闇と霧の映画……。117a.jpg
 『アウトサイダー』でかつてのセルズニック風のトワイライト・シルエットを多用したコッポラが更に弛緩した映像に後退してくるのかという暗澹とした予想で見に行った。実際に、最初の雲が高層で流れてゆくモンタージュ・シーンに出会って、今度はゴッドフリー・レジオか、とあまりの臆面のなさに恐縮してしまった次第だ。
 コッポラの提供プロデュースで現代アメリカの病根をえぐるとかの評判になった『コヤニスカッティ』がいやでも想起されてきたのだ。少なくとも十回は、『コヤニスカッティ』――モニュメントバレーを静止したように捉える自然風景から都市の高層ビルに反映する光や雲を対照してくるドキュメンタリ――の借用シーンに、観客は遭遇することになる。
 次に、モノトーンの映像である。どうもコッポラは、自分がプロデュースした作家たちの方法論に大変ナイーブな影響を被る、ということなのらしい。かれは、かれにまねかれてハリウッドで(というよりもかれのゾエトロープ・スタジオで)『ハメット』を作ったドイツ人ヴィム・ヴェンダースに正直いかれてしまったのだろう。ヴェンダースは後に「ことの次第」を作って、コッポラと自分の芸術論の相違を丁寧に作品化してみせたし、のみならず、コッポラヘの芸術的軽蔑を友情の形で提出するふうの繊細さを見せてくれた。多分、コッポラはこの年少の映画フリークスに対して、全面的に影響されてしまって、色彩のない映画を撮ったのだろう。

 コッポラとは、映像方法論に関してはおそらく幼児のように無垢で、何事につけ発見の驚きを感じ取れる感受性の持ち主なのだろう。もう少しはっきりいい直せば、映画学校初級の学生タイプであり、実作はしばしば試験の答案のようなものだ。こうした人物が「映画マフィア」の頂点にあってアメリカ映画を代表する一人の作家たりえていることに対しては、尽きない興味がある。ここにもアメリカ映画という恐るべき深遠、恐るべき振幅が見つけられるのである。

 正直なところわたしはこの映画に感動してしまったのだ。
 それは何故か。簡単にいって、再び、かれが血縁の、兄弟と父親の――要するに自伝映画を、作ったからに他ならない。コッポラにとって、それが絶えず立ち戻ってゆく固有の原点であるのだろう。この映画がモノクロである理由を、色彩をよく判別しえなかった兄へのレクイエムだからなのだ――と解釈することもできる。
 マット・ディロン、ダイアン・レインといったアイドル・スターをでくのぼうよろしくドラマの中軸に突っ立たせておいて、兄のモーターサイクル・ボーイ(ミッキー・ローク)とアル中の父親(デニス・ホッパー)に、いっぱいの真情を捧げる。
 母親はいない(『エデンの東』のようにといってもよい)、父親は敗残者、兄は弟がそうなりたいと思うもののいっさいだ。けれども崇拝の的であるかれは二十一歳ですでに信じられないほど老い込んでいる。

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 兄弟は夜の街路を彷徨い、父親が酔いどれている酒場の前までくる。この果てのない彷徨! そしてその舞台である霧にけぶるゾエトロープ・スタジオのモノトーンの奇怪さ! (わたしは『ワン・フロム・ザ・ハート』のあの安物のイルミネイションにピカピカする同スタジオのおぞましさを想い出し、この隔絶に一層の感激をもつ)。
 ここで父親役のデニス・ホッパーにまた再会するのである。およそ三十年前の『ジャイアンツ』でのかれは、やはりマット・ディロンのようなバカ面をしていただろうか、あの『イージー・ライダー』のアメリカン・ドリームに敗れ去った反逆者役から数えてももう十五年か。
 父親は語る――兄は何をやらしても大した男なのだが、しかし肝心の何をしたいのかがわからないのだ、と。それをきいても、弟は兄のようになりたいのだという考えを変えない。
 兄弟は再び街に(ゾエトロープ・スタジオに)出、果てのない彷徨につく。この街は何なのか。どこなのか。風と霧と……。わたしはこれほど手きびしいグロテスクに夢幻的な街路の彷徨シーンを他のアメリカ映画に知らない。
 コッポラはヴェンダースを通してフリッツ・ラングを、ドイツ表現主義映画を、摂取したのだ。とりあえず――そう了解することでこの場面については相対することもできる。
 そして兄が自己破滅の途にすすみ、弟がそれをなすすべもなく見守る他ないという結末についても、すでに予想がつくことである。
 
 最初の、モノクロ場面にそれだけ着色されたランブル・フィッシュが念入りに最後にも登場してくる。こうした画面処理は鮮やかというよりもグロテスクであり、より適切にいうなら、初級の学生レベルである。しかしもっとあからさまなことには、兄のミッキー・ロークの役柄――コッポラはこの作品を自分の兄に捧げていた――を通して、コッポラのランブリング・アラウンドが、ここに定着されているのである。
 画面のグロテスクさはコッポラの自己意識のグロテスクさに他ならない。流れ去る雲が鏡に映るショットもあまりにも多用されていたが、作者自身の影がそこに映されるためにはもっとすさまじい饒舌がコッポラには宿命付けられているようだ。
 白人帝国主義者の存在的な深遠と振幅については『地獄の黙示録」――あれは戦争映画ではなく戦争それ自体ではなかったのか――に納得させられたはずだったが、所詮は紋切り型の居直りに収束していくようだった。
 わたしは、『ワン・フロム・ザ・ハート』『アウトサイダー』と経て、コッポラのアポカリプスは前世紀のコンラッドの煩悶のレベルに終ったか、と幻滅するばかりだった。それをこの映画によって訂正せねばなるまい。
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 以降、コッポラの製作活動がどうあろうと(次なるコッポラ映画は推測するに小津映画へのオマージュになるはずであるが)、入門コースの学生タイプの方法論的遍歴〈ランブル〉は変わることもないだろうが、それとはあまりにもアンバランスに過剰な自己釈明欲の容量は跳躍〈ランブル〉を止めることはあるまい。

「詩と思想」27号、1984年10月


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