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怨恨の明確な対象――ブニュエル試論 1 [AtBL再録2]

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 ランボオの《眼の中を太陽が彷徨う》とはヨーロッパ共同体の世紀末につきつけられた呪詛であったかもしれない。
 『アンダルシアの犬』(1928年)の映画史上あまりにも有名な、満月を鋭利な薄雲が横切るように「眼の中をかみそりが両断する」シーンは、今世紀の年若い希望にみちたシュールレアリストであったルイス・ブニュエルを捉えた同様の呪詛であったように思える。
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 それほどまでにブニュエルの遺作『欲望のあいまいな対象』(1977年)の例の、きわめつきの血だらけのレースの白い下着が縫いつくろわれるシーンの、この映画自体に対してもつばかりでなく、「処女作に向って出発する」的なブニュエル全作品に対してもつ強烈な完結的説得性の衝撃と感動は、あまりに震撼的なものだった。
 ほとんど身ぶるいするようにわたしはこのシーンにうたれねばならなかった。作者自身が次のように強調するほどである。
 《最後のシーン――血にまみれたレースの白い下着の破れ目を、女の手がそうっと取りつくろう(それがわたしの撮影した最後のショットとなった)――には、なぜだか自分ではいえないが、感動した。結末の爆発に先立って、そのシーンは永遠に謎めいたままなのだろうから。

 しかし本当に謎めいたままなのだろうか。ブニュエルには必要以上に自作を謎めかせて神秘化する悪癖があるので、ここでも同じ語り口があるにすぎない。このシーンに対して明確な説明を回避することは許されない。

 『欲望のあいまいな対象』は一人の初老のブルジョアジーを捉えた過酷な愛の物語(対象との性行為を成就できない)という滑稽なピカレスクを基調にしながら、かのブルジョアジーがテロルの影におびえてヨーロッパを転々する一種の〈亡命〉物語という隠されたテーマを持っている。
 なるほど前作『ブルジョアジーの秘かな愉しみ』(1972年)は、有閑階級の一グループが共に食事することを成就できないという一層滑稽な話だったが、二作に共通した主役を演じたブニュエル映画の看板役者フェルナンド・レイの某国大使が、常にテロにおびえて食欲のかたまりだったことも思い出されるだろう。
 今度は性欲のかたまりであって、『欲望のあいまいな対象』は、この背中にはりついたかのような恐怖感が更に頻繁に強調されてきたのである。ある一つの行為を禁じられることと、それに付随する恐怖や混乱とは、多くの場合、ブニュエル映画の共通テーマであると、一般的には通有しているようだ。
 例えば、もう少し先立った作品『皆殺しの天使』(1962年)の有閑集団が、夜会の広間から外へ出ることができなくなってしまうように。
 ここから、ブルジョアジーはその欲望から疎外されてあるべきだ、という無遠慮な批判的テーゼを取り出してくることは至極簡単である。しかしそれでは一体なにも批判することになりはしない。

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 たしかに『欲望のあいまいな対象』の欲望にうちふるえて、挑むたびに拒まれ、そしていやが上にも燃えて更に挑むが、もっと手ひどく拒まれ、遂にはなりふりまわず啜り泣いてしまう男の姿に、快哉を叫ぶことも自由である。これほどまでに性欲の昇華作用について困窮するブルジョアジーを見ることは胸のすくことかもしれないからである。
 しかしそうした単純構造のブルジョア批判ならば、例えば向井寛の『東京ディープスロート夫人』(1975年)あたりで、充分に代行できるのである。そうであるかぎり、ブニュエルのいくつかのシーンは謎めいているし、謎めいたままに放置して「素晴らしい」とかの評価に輝かせる他はないのである。

 この批判され嘲笑されるべき対象が、常に同時に何者かの影におびえているという二重性の規定のうちに現われてくるとしたら、自ずと評価は変わる筈ではないか。追われおびえるというイメージは何なのか。
 ここで、スペイン・ファシスト政権から壮絶なスキャンダルと共に追われ、十数年を無為に浪費したあと、とりあえずメキシコ映画市場に亡命の拠点を降ろさざるをえなかった作家自身の軌跡について連関付けてくるべきなのか。それもまた単純にすぎる解釈であるだろう。第一、作者の視点が全く主人公のそれに一致しているわけでもない。主人公の視点に関していえば、ただおびえ怖れる他の反応の幅を持たないのである。

 ここに読み取るべきものは、七〇年代の革命的暴力主義に対するオールド・シュールレアリスト(今だオールド・マルキストとの牧歌的結合を可能にしていたような二〇年代の遺物)からの、幾分、弱々しいそして的外れの反対論であるだろう。1968年『銀河』の撮影途上、ブニュエルは、パリで、あの五月革命に遭遇する。
 薄命に終った「五月」に、ブニュエルが、かつての運動を重ね合わせて、今現在起りつつある運動への評価軸をもつことは、致し方あるまい。じっさいに五月は街頭に突如シュールレアリスムの実験が現出した側面ももっていたからである。だがその側面のみで「五月革命」が片付けられるわけもないだろう。
 学生たちの敗北に向って、スキャンダルも行動も不能な時代になってきたと嘆くブニュエルは、ただのノスタル輩に過ぎない。
 ――《真摯な精神と饒舌があり、同時に、大混乱の到来だった。だれもがてんでに小さなカンテラをさげて、自分の革命をさがしていた。わたしは胸にこう言い続けていた。「これがメキシコでの出来事なら、二時間で万事終りだぞ。死者が二、三百人は出るはずだ!」》。
 可能性はテロリズムしかないだろうとかれは続ける。それも、《かれらの青春の言葉》と注釈をつけた上で、ブルトンの『シュールレアリズム第一宣言』の復権を求める、といった発想である。例の、最高のシュールレアリスト的行為の単純さとは、拳銃を手に街頭に出て無差別に群衆に向ってぶっぱなすことだというテーゼを、である。

 わたしがいいたいのは、つまり、ブニュエルは、若い世代の革命的行動に柔軟な理解を示すよりも、かつての自分の青春の絶対性を尺度にして気むずかしい裁定をした、ということなのである。同情はあったかもしれないが、しかしそれ以上に、異物として対したのである。そして七〇年代の街頭闘争は、またしても、ブニュエルが望ましいと思ったふうには決して展開されなかった。政治闘争としてのテロリズムを、かれは理解しなかったか、あるいは理解することを拒んだ。
 何よりもテロリズムは政治闘争の一手段であることから遠く離れているべきだとかれは要求したのである。かれの映画の主人公が、あまり大した根拠もなく、テロルの影におびえるのは、以上のような過程から理由付けられるだろう。
 そうしたテーマは多分、『銀河』の撮影中に、それの進行を妨げられるふうに、五月革命に出会ったことから直接には出てきたと思われるのである。『ブルジョアジーの秘かな愉しみ』の、何度か挿入される、どこまでも食べることを邪魔されるグループが何の連関もなく道路を歩いているシーンは、多分に『銀河』からの借用である。

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 『銀河』は信仰にも無神論にも辿り着けない現代の巡礼物語(ブニュエル的宇宙の猥雑と哄笑であることはいうまでもない)だったはずだが、そこに異物としての(少しは思い入れる余地もあった)「五月」が介入してきたのである。
 『銀河』自体は、作者自身のスペインにおける中世修道院的少年時代への限りない愛惜によって際立つ作品にとどまっているのだが、五月の痕跡は、『ブルジョアジーの秘かな愉しみ』を経て『欲望のあいまいな対象』に痛烈な達成を残すことになったようだ。

つづく


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