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怨恨の明確な対象――ブニュエル試論3 [AtBL再録2]

つづき


 男が翻弄されるという局面が肝要であり、二人の女優が一人の女を演じるという実験の効果もここに関わっているだろう。観客としては、男に貞淑に訴えるコンチータ、男に無償の愛を捧げようとするコンチータ、男を淫乱にまどわすコンチータ、男を小気味よく拒絶するコンチータ、各々のゆらめくような変容に従って、キャロル・ブーケがふりむけばアンヘラ・モリーナになり、アンヘラ・モリーナが別室に入るとしばらくしてキャロル・ブーケがそこから出てくるという輪舞のような転換に酔わされるのである。

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 振り返る女の像が戦慄的だとは、この映画が、観客に対して力づくで納得させようとすることでもある。
 一人の女が同時に乱反射するように多数の女であるということが、映像的にこれほどまでに図々しく、あたかも不変の真理のように、定着された例をわたしは知らない。一人の女が一瞬たりとも一つの人格に統一された個体ではありえないという、多分、恋こがれる男に課せられる受容のマクシムが、まことにブニュエルの面目躍如たる堂々のあつかましさで定着されるとき、わたしもとりあえず、この初老のブルジョアジーの無様な得恋に一体化してしまう他ないのである。
 これこそオールド・シュールレアリストの遺作たるにふさわしい大胆不敵の完成ではないか。征服の対象となった女がどこまでも敵階級(もしくは敵対党派)に属する一種の不可触存在であるとは、ゴダールの好んだテーマでもあったが、ブニュエルの主人公は徹底して作者からは乾いた視点で処理されている。

 さて、ブルジョアジーは語り終った。どれくらい汽車は走ったのだろうか、客室のコンパートメントは好奇心を満たされた人々で華やいでいる。――と、そこへ現われるのは勿論コンチータである、バケツー杯の水をもって。
 ずぶ濡れの返礼に加えて、またしても、和解があったのだろう、パリに着いた列車から降りてくるのは、仲良く腕を組んだ二人である。

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 そして前述の、血だらけの白い下着を縫い合せるシーンになる。ショーウインドの
中で一人の女が、麻の頭陀袋から次々と白い下着を取り出してくると、やがて血に汚れた裂けた下着が出てくる。この袋は幾度、観客の目の前をよぎったことだろう。
 最初は全く行きずりの通行人にかつがれて、主人公たちの傍らを横切ってゆく。あげくは、主人公の男によって何の関連もなく肩にかつがれたりするのである
(かれがベンチに置いてあった袋をかついでコンチータと散策する後ろ姿のシーンは、全くの思いつきで付け加えられたのだ、と作者は明らかにしている。ブニュエルはかついでいるのとかついでいないのと二種類を撮影して、前者を採ったという。無関連の挿入という方法論は全くのシュールレアリスムの自由の獲得の成功シーンとしてのみ、分析家よクソ喰らえと毒付くブニュエルの欲求通りに、来讃されるべきではない)。

 その意味が疑いようもなく明らかになるのはこのラストに至ってである。爆弾と想像するにしては軽々しそうだったこの袋の中味からは、テロリストの未必の闘争と闘志の証しであるような血染めに裂けた白い衣類が出て来たのであるから。この頭陀袋もまたヨーロッパを横断したのだ。

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 革命と戦争の世紀を、蓮実重彦流に言えば《人並みの越境者として越境するのだが、閾を跨ぎ異質な環境へと移行することによって、いかなる意味での眩暈も、快楽も、痛みも体験したりはせず、スペインではスペイン映画を、フランスではフランス映画を、メキシコではメキシコ映画を、ごく当然のこととして撮り続け》、いわば軽々とブニュエルは越境してのけた。
 かれは、フランス、スペイン、メキシコ、スペイン、フランスと(もしそういいたいのならヨーロッパから第三世界をまたにかけて)数多の作家たちが才能を遮断されまたは生身の生命を奪われて、飛び越え得なかった境界〈ボーダー〉を、自在に作品へと従属させてしまった。
 かれにして、あの眼の中を刃物が両断するシーンを相補するように、あるいは一層豊富に修正するように、忘れ難い衝撃的なシーンを作ったのである。
 かれはただ作品を作ることによってのみ、自分を追放した祖国に帰還できたのであり、復権できたのであるだろうが、依然としてヨーロッパは変わりなく呪詛の対象であり、パリの五月もかれにとってはかつての青春の回顧に向かわせる程度のものでしかなかったからして、依然として、やはり、そうだ、多少ともエレンブルクの『トラストDE』のようにも、アンビヴァレンツなヨーロッパヘの愛惜を語る他なかったようである。
 断じてヨーロッパ人であり、そのように自己を最終的に閉じていったのである。かかる越境者に「眩暈も、快楽も、痛みも」余計なものかもしれないが、恐怖と怨恨は確実に身近かにある。それを頭陀袋をかつぐかれの主人公のように背負って、ブニュエルの亡命の二十世紀はあったのだ。

 ショーウインドから離れてゆく二人、コンチータは――あるいはキャロル・ブーケであるいはアンヘラ・モリーナでめまぐるしく――男の手を邪剣に振り払う。そこにまたしても爆弾。

 映画は夢幻に無限の追跡物語(女を追いかけるが所有できず、テロに追いかけられるが仕止められもせず)が、かれにとっては悪夢さながら終らないことを暗示して、いったんは幕を閉じる。

「同時代批評」12号、1984年11月


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