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ぼくらが非情の大河をくだるとき1 [AtBL再録2]

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 ひとつの癒しがたい記憶の中の映像がある。
 ――画面を切り裂くように走っている少年。最初は、病気で倒れた母親のために妹を連れて医院の扉を叩く。次は、先輩に連れられ、少年院を脱走してゆく。どちらも深夜、少年はひたすら走っている。記憶の中の映像はセピア色の退色したトーンに一貫されてある。
 これが主人公の過去を提示する導入部であり、テーマ曲が流れ、映画が始まってくる。藤田五郎原作による『無頼』シリーズの第一作『大幹部』である。すでに十七年前(1968年)の作品、ちなみに監督は舛田利雄、主演は渡哲也。重苦しく残ってくるテーマ曲「人斬り五郎の唄」はのちに発禁となる。

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 この作品は、五年後、実録やくざ映画路線の興隆に便乗して再公開される。タイトルも変わって『実録・大幹部』。一九七三年冬、わたしは、これらの映画の背景でそのままあってもいい雑然としたゴミのような路地裏を徘徊しつつ、何か信じられないものを聴いたかのように『無頼』のテーマ曲を耳にし、もう一度この映画と出会うことになったのだった。
 もしかすると別の新作ではないかという興奮で、その曲の流れてきた小屋にためらうことなく入っていったわたしだったが、そこで再び、癒しがたい記憶の中の退色したいくつかのシーンに出会ったのである。

 時代は、高度成長期の進撃を「石油ショック」が区切る、もうひとつの十五年戦争の末期にさしかかっていたことだった。


1 映画における八五年体制
 一九七三年冬。後期やくざ映画、初期日活ロマンポルノに代表される量産体制下プログラム・ピクチュア群は、退行の結節点にあった。
 簡単にいえば、暴力(性的なものを含めて)や階級対立(貧富の差といったレベルのものも含めて)の問題を、日本映画が主題として排除してゆくようになった境界線が、この時期にあるということだ。こうした認定に反論はあるだろう。
 『仁義なき戦い』五部作を始めとした「ドキュメンタリー・タッチ」の量産路線がどれだけの暴力を充満させていたか、まさに記憶に新しいなど、と。
 しかしこの路線の主流だった三人の作家が各々それ以前にかれらの最高作――深作欣二は『血染の代紋』『博徒外人部隊』、中島貞夫は『血桜三兄弟』、佐藤純弥は『暴カ団再武装』――を作り終っていたことは、何を意味するのか。
 当り前のことだが、暴力的なシーンに満ちあふれたものが暴力的な映画なのではない。見えない暴力性が爆発してくる局面を捉えることこそが暴力映画のダイナミズムでなければならない。そこに階級対立の無残さや支配構造への怒りが通底してくるのなら、それこそが暴力表現の正当性でなければならない。

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 例えば、深作を例にとって、『仁義なき戦い』のちょうど前作にあたる『人斬り与太・狂犬三兄弟』は、現象的にそのものの激しさが加速されるばかりで質的には腐蝕してゆくという印象が残った。田中邦衛のチンピラやくざがいる、渡世は楽ではない。母親と弟は廃品回収業で細々と生活を立てている、やくざの兄は生活が持ち出しばかりなので、結果的に家族を収奪することでのみ自分の渡世を保持させている。
 といった構図があらかじめ与えられていた。結局はこのやくざの兄は収奪の過多から自分の家族に恨みをもって殺されるという仕方で渡世を終るのである。じつにやりきれないシチュエイションの提示なのだが、これは深作映画における、「やくざは被抑圧人民に対するダブル・バインドな抑圧を強いられる存在である」という屈折した提示の、いわば最終的な成立であったようなのだ。
 以降、この屈折は明確に形骸化してゆかざるをえなかった。

 こうしたことを個別作家論の範躊で語るかぎり、個々の作り手たちの一定の後退と転身とは隠しようもないのだが、それを辿ることはすでに空しい。後退と転身という数々の個別例を残して、日本映画はひとつの幸福な時代を終ったのだ、と確認せねばならない。そうである。
 大手五社とそこから排外されたピンク系をも加えた製作配給体制が供給する作品量産システムがゆっくりと崩壊していったのである。たぶん、この崩壊のツケがすべて個別の作り手に回されたという視点を保留しない限り、作家論の成立基盤も喪失されたと考えられる。

 ――ここから次のことがいえる。
 これはこの小文のさしあたっての前提であり、同時に結論となるものである。

 暴力と階級対立にかんする表現欲求の本源的蓄積を使い果し、「発展途上国」のエネルギッシュな映像に熱い視線が移動してゆくという形で、それらをもっぱら輸入に頼らざるをえなくなった。
 これが、日本映画の現況への基本的な認定であるだろう。
 どうやらこれは、映画産業の延命がそれ自体の力においては不可能になってゆくという、「先進国」文化状況の共通現象でもあるようだ。コングロマリット化を策した既成の企業は極端に少ない本数の作品のみを供給するにとどまり、別系統の資本がその間隙を埋める、といった誰の目にも親しいものとなった日本映画の現状が定着してくる。
 まがりなりにも量産体制があることが、大衆的通路へと映画というジャンルが開けてゆく一つの条件だといえるだろう。どうにかそのものを保持させているのは、大蔵・新東宝・ミリオンなどのピンク系だけであるのだが、新人の登場という局面を考えても、この領域でなら、滝田洋二郎、水谷俊之、米田彰、磯村一路、黒沢清などの才能を即座にあげることができる。
 かろうじて準量産体制といえる「にっかつ」にしても幾人かの名を思い浮べることは困難ではない。これが内的な力なのである。しかし東映や松竹においては、同様の才能が同等の機会を与えられているかといえば、答えは否定に傾かざるをえない。角川映画に関しては、これは周知のように、何らかの実績をもつ新人をすばやくすくいあげるマッチ・ポンプ・システムに一貫した「新人の墓場」的な登竜門である。

 これはつくり手にとっての劣悪な環境という局面に限定する限り、そんなものは昔からあったさという現場主義の話題に解消しかねないから、問題は日本映画の構造不況についてであると確認しておこう。
 一方、観る環境としてはかなりの進歩がみられるというのが、なるほど、大方の意見のようだ。第一回東京映画祭の開催に収斂されるような外国映画受容環境の変容はめざましいものがあり、それ自体としては喜ぶべきことかもしれない。
 韓国映画、台湾映画、インド映画への熱い期待ばかりでなく、ユルマズ・ギュネイを中心とするトルコ映画、『レイザーバック』や『マッドマックス3・サンダードーム』の公開を前にしたオーストラリア映画などの刺激は強烈なものである。ただこれらのものは、単にそれのみの現象ではなく、日本映画の構造的な停滞の代償に機能している、と考えることが正解のようである。

 自国の作品生産が、質的にも量的にも衰弱してゆくのに比例するかのように、外国映画の受容が活性化してくることもまた、「先進国」文化状況の必然の所産であるだろうか。映画史もまたその属する国家の近代化過程と無縁に存在できるものではない。ある国では、若く稚拙であり、しかし「あるがままの大衆」に密着した披抑圧人民の武器たりうるような根底的娯楽である映画が、ある国では、問題なく単一の娯楽産業としては成り立たないほどに凋落の文化領域と化しながらも熟しきり断片的な技術のみの洗練に奇型化してゆく。日本映画のスタグフレーションは少なくともここ十年来のものであるとはいえ、深刻な危機感をもたらせるものである。

 例えば村川透の『聖女伝説』、この作品には構造的な不況の倒錯した反映が形作る日本映画の贅肉ともいうべき要素がそろっていて面白い。一、意味も必要もない外国ロケ。二、同じくただ贅沢に「世界的タレント」に発注し追求されたテーマ曲。三、二時間という必要枠ただそれだけのために結末を間伸びさせてしまうこと。

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 これらはすべて製作費の間違った浪費からくる三段提燈腹・二重顎・脇腹のたるみ・たれ尻などのムダな贅肉である。
 典型的な文化スタグフレーションの発顕をこれにみることができる。少なくともその三つの要素から自由であれば、村川はあの『最も危険な遊戯』ていどの優れた作品をつくりえただろうと思う。『聖女伝説』があのような『聖女伝説』、つまりヨーロッパ・ロケやフランシス・レイの主題曲や終りがみえてしまったのに蛇足蛇足蛇足と続く後半三十分で成り立っている限りの「貧困という贅肉」は、決定的に後戻りすることのできないものである。
 映画のフィルムは後戻りすることも逆回転することも可能であるが、しかし映画史は固有の一回限りの軌跡をしか描くことができない。そしてこの国の映画史は産業的にいっても芸術的にいってもある種のデッドエンドにのりあげているということがあまりにも明瞭になってきているのではないか。

 こうした「先進国」特有の構造不況-文化衰弱はおよそ次のような局面に分節化できる。
 すなわち、暴力表現の空転、性表現の「後進性」、テーマとしての貧困の召喚、映画に関する間接的快楽の増大、これらである。
 ここから新らかな情報資本による文化支配の構図が透視されねばならない。これが映画状況における八五年体制ともよぶべきものである。

つづく


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Stepliecy

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