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ぼくらが非情の大河をくだるとき5 [AtBL再録2]

つづき

5 映画への欲望という河
 日本映画の構造不況は、最後に、意外な局面での活況となって刻印されてくる。映画に関する言説の無限大的な肥大、これである。
 これは映画に対しての間接的快楽の増大と捉えることができる。映画に従属し、しかし、それ自体の存在価値として漸進する欲望が、無視できない勢力というにとどまらず、全面的に開花してきた。
 映画についての書物はあとをたたない。映画それ自体の衰弱にもかかわらず、映画言説の傍若無人の盛況ぶりは、資本制文化の倒錯的な爛熟を示している。

 およそ批評とは、映画への間接的快楽へと円環する。映画批評という領域もまたひどくいいかげんな成立を許されてある。独断と偏見を総動員して見当外れをうちつづけることで一家をかまえる手合いもいれば、たんなる有名人のパスポートだけを使って一年に一本くらいしか見ないものの感想文で成立してしまう大家もいる。
 批評とはもともとどうにでもできる形式であるし、映画批評はとくに蓄積の必要にせまられることのないジャンルであるから、結局のところ、その欲求を満足させてやらないことは欺瞞であるかもしれない、という堂々めぐりの一般論はどこまでも安逸な言葉を許容するだろう。
 たぶんこの安逸が、作家を規定していると同時に受け手(観客、批評家)を規定している日本映画の構造的な貧困の、およそ貧困な実体的あらわれなのだろう。こうした構造不況をまぬがれえる映画批評は本質的に成立することができない。

 わたしにしたところで例外ではない。

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 すでに名を挙げた人は別にしても、熱い待望のうちにようやく公開された『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』の森崎東や、あの異様に馬鹿気た勝手ままの『カポネ、大いに泣く』の鈴木漬順を筆頭において、年間百五十本以上の鑑賞と口ヒゲをはやすことを資格にした某映画ゼミの優等生として小津安二郎映画のシミュレーション・ポルノ『変態家族・兄貴の嫁さん』をつくった周防正行や、井上陽水的モノローグ的ピンク・ハードボイルド『凌辱・制服処女』の福岡芳穂までをも含めて、その中間に、ピンクの濫作のなかから出て『魔女卵』のような関西ロック映画の延長に、少なくとも最近二年間の評判の外国映画十本ほどを盗んでパッチワークにしたアイドル映画『バローギャングBC』をつくって堂々としている和泉聖治や、かつての『オキナワン・チルダイ』を持続しつつ奇妙な沖縄映画『パラダイス・ビュー』を一応メジャーで作って「辺境日本人」の自己主張を続ける高嶺剛や、それから、小栗康平や柳町光男や崔洋一……と名前をあげて、いくらかの発語をしてゆくことは、誘惑にみちた仕事でもある。

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 こうした欲求はたぶん果てしないに違いない。

 しかしながらもう一度――。その欲求に対して寛容であることに、それほどわたしは寛容であることもできない。この国の映画評論家たちの太平楽については、すでに「必殺筆誅の論理」に提出されてある。ただ、そこでは言説の現象面をなぞっての批判に限定していたから、それらをもう一度、構造的なスタグフレーションのうちに位置付けてみることは必要だろう。

 映画に対する間接的な欲望の増大は、「批評」という領域ばかりでなく、鑑賞という領域、学習という領域にまで及んできている。そしてそれらいっさいが商品化されるのである。
 映画批評を書くことから作家への途に入ったゴダールはいうまでもなく、パリに遊学して年間二千本をみたドイツ人ヴィム・ヴェンダースや、「ボルシェヴィキ国家」において映画大学教育を通過するというエリート・コースを辿ることによってのみ仕事を残しえたアンドレイ・タルコフスキイ、ワーシャ・シュクシーン、ニキータ・ミハルコフなどの作家たちを、世界的に、映画はもっている。
 自分らにとってシネマテークとは映画をつくることと同一だった、というゴダールの言葉はすでに哀切なものとなってきこえるのだが、現在、ゴダールもヴェンダースもタルコフスキイも、すでに学習の対象であるような映画状況を思うなら、その哀切にとどまっていることはできないはずなのである。

 映画はただ観るものである。学習するものでも鑑賞するものでもない。これは、ひたすら早起きして列をつくって並び『海底二万哩』や『地球防衛軍』をみ、また、立見であふれかえるばかりの小屋の中でたしか父親の肩の上から大日本帝国軍隊が二〇三高地にロシア軍を撃破した面面を、全観客が万才を狂喜するような雰囲気におびえるようにみた体験をもつ世代にとっての感傷にすぎないものとして排斥されるほどに、劣悪化した映画環境における反時代的ロマネスクかもしれないのだが、そうであるならあるほど、わたしは、わたしの映画批評をこれら総体への全面的な批評へと直立させたいのである。

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 ただ観るという映画への直接的な欲望が不可能であるような環境であるのなら、そのような収奪形態、そのような階級解除、そのような支配の貫徹に対して、批評は、世界が批評を必要としている場に言葉を運んでゆかねばならない。
 観ることの直接性がもし喪われたとすれば、それは奪われたのである。


つづく


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