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一九八五年度ベストテン&ワーストテン [AtBL再録2]

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いろんな国の映画をみて
〈外国映画ベストテン〉
パリ、テキサス(ヴィム・ヴェンダース) 
エレジー(ユルマズ・ギュネイ) 
ターミネーター(ジェームス・キャメロン) 
アルシノとコンドル(ミゲール・リッティン)
深く青き夜(裵昶浩) 
馬鹿宣言(李長鎬) 
叫び(バルバラ・サス) 
太陽の男たち(タウフィーク・サーレフ)
アンダー・ファイア(ロジャー・スポッツウッド) 
グレイ・フォックス (フィリップ・ボルソス)

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 『パリ、テキサス』は最後のアメリカ映画作家の凱旋というところか。
 しかし、再上映で目にした『アントニオ・ダス・モルテス』『突然炎のごとく』の鮮烈さも忘れられない。これをベスト・スリーにしてしまっても一向にかまわないところだ。
 『アントニオ・ダス・モルテス』の殺し屋が荒廃のハイウェイを恐龍のように歩くラスト・シーンにはまいった。ペキンパーが『ワイルドバンチ』をつくった同じ年にローシャのこの傑作があったという事実に、あらためて、胸をつかれた。
 トリュフォーの高名な作品はやはり、映画を観ることはそれ自体のみにおいて、至上の幸福なのだ(だった、ではない)ということを想い出させてくれた。わたしは充ち足りた。


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 今年もそしていろんな国の映画を観ることができた。トルコ、インド、香港、カナダ、ニカラグア、ブラジル、韓国、台湾、ポーランド、パレスチナ、ケベック……あまり勤勉でないわたしですら、結果はこんなものとなる。ベストテンもほぼこれら
の作品にカバーされてしまう。

 ギュネイの『エレジー』は忘れがたいアクション映画だ。
 『アルシノとコンドル』は年が開けて(一九八六年)のホール上映が決っている。少年の抒情的な幻想が、人民解放戦争の正当性に合流してゆくことを淡々と描いた見事な作品である。
 ソモサとアメリカ映画帝国主義の敗北に関しては、アメリカ映画自身も『アンダー・ファイヤー』で描いている。こちらは要するに『キリング・フィールド』的な反省プロパガンダ映画(それが余計に反省のなさを露呈させる)であるのだが、戦争悪を
みつめるジャーナリストの自己正当化に少し距離を置いたところだけが評価できる。主人公のカメラマン(ニック・ノルティ)が行く先々で出会うアメリカ人傭兵(エド・ハリス)を配することで、写真屋も鉄砲屋も戦争の腐肉によって生き延びるハイエナに他ならない、ということを視野に収めえた。
 それとジャン・ルイ・トランティニアンの権力者にとりいるスパイ役がいい。『激しい季節』の不倫の恋に燃えるファシストの息子役をかれの青春、『Z』のファシスト政権に抗して葬られる正義派検事役をかれの壮年とすれば、この映画の、ファシストはより安価な必要悪だとしてかれに同調し、女たらしの極上の微笑みを残して刑を受けるフランスの伊達男役は、かれの老残の成熟を示して余りある。それに犬ころのように殺されるジーン・ハックマンの殺されぶりも良かった、といえば蛇足か。

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 『深く青き夜』はまぎれもなく、韓国の若い世代の台頭を示している。スタジオ200に姿をあらわした現物の裵昶浩は鈴木健二の一まわり大型のような風貌をもっていたがまだ三十代前半である。かれの『鯨捕り』における夜明けの退廃の顔をみせる都市風景にしても、首都ソウルの高度成長による変貌をいわば所与として感受することのできる世代の成長を示しているといえるだろう。
 較べて李長鎬は旧世代になってゆくのか。『馬鹿宣言』はかれの遺書である。映画による遺書である。ただわたしとしては多くの共感をみいだすことはできなかった。同監督による『寡婦の舞』も自主上映されたが、この感情は変わらない。性急に何もかもぶちこみ、救いようもなく暗い。

 『叫び』も同様の暗さにぬりつぶされている。だが本誌前号でも述べたとおり、女性による女性映画の困難さはここに突出する。これと山崎チヅカの『ガイジン』(ともに東京映画祭出品作である)の一般公開が望まれる。リリアーナ・カパーニがルー・サロメを扱った『善悪の彼岸』の、男におもねる三番煎じ、伝記にもたれかかる非主体性=権威主義などはもう沢山なのだ。

 ガッサン・カナファーニ原作による『太陽の男たち』は、暗さもつきぬけて、中東の太陽に焼かれた。その光のすさまじさが、何かモノクロの画面を白く焼きすぎたように思った。
 あと、『大福星』など香港映画は何となく波長が合わず、
ケベック映画は『夢の時代』で決定的にゲッソリしてしまった(すでに数年前、クロード・ガニオンが日本でつくった『Keiko』のいいかげんさで万歳していた)し、
『はみだした男』は、『ハメット』のガラス張りの図書館の一シーンのみのほうがよほどボルヘスの迷宮らしいとしか思えなかったし、
インド映画はかなり疲れ『ソーム旦那の話』だけが心に残るという結果で、
『アトランティック・シティ』のルイ・マルは次回作を期待、
『火山の下』のジョン・ヒューストンには一票入れたかったが、『女と男の名誉』のようなオモチャ・マフィア映画に失望したせいか選外にもれる、
と大体そのようなことであります。


困難は大いなる可能性
〈日本映画ベストテン〉
カポネ大いに泣く(鈴木清順) 
ラブホテル(相米慎二)
生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言(森崎東) 
金魂巻(井筒和幸) 
三里塚ノート・草とり草紙(福田克彦) 
友よ静かに瞑れ(崔洋一) 
凌辱・制服処女(福岡芳穂) 
パラダイス・ビュー(高嶺剛) 
台風クラブ(相米慎二)

 『カポネ大いに泣く』についてはいうまでもないのではないかと思う。これほど傍若無人の好き放題やりたい放題の映画もちょっと見当たらない。冒頭の加藤治子の色香の残りが素敵だった。しかしそんな余韻を許してくれるほどそのあと二時間数十分の展開は行儀がよくはできていない。観たあとじつに多くのことを書きたいと思った。思わされた。しかし今はもう何も言葉は残っていない。すこぶる暴力的な映画である。
 『ラブホテル』の話題になったヒロインが長電話するワンカットで、『突然炎のごとく』のジャンヌ・モローを想い出した。駅前の安ホテルで鏡に向って化粧を落している三十二歳の女の役をやった彼女を。
 ナレーションは確か、それが、彼女が男と半ば惰性でしかしこれで終りにしようという黙契によって冷く交わる直前であることを説明していたと思う。相米はこのカットで、若い女性が時折りみせるしたたかな人間的厭らしさを見事に現前化させている。抽出している。素材自体は大したことがないのだから、これは方法論の力ずくの勝利といえるようだ。

 後半期は、日活およびピンク系をほとんどさぼってしまったので、選出も少しばかり淋しいものとなった。しかし並べてみると、やはり作家の映画、作家が作品を力ずくで制圧したものが残っている。清順、相米、井筒、崔、福岡、高嶺、大むねそうである。去年見おとした『Wの悲劇』は、この表では、空位にした四位ぐらいに収まると思う。
 もはやそうした作家の優位性にしか評価軸を定めようがなくなっているのかもしれない。
 ブランド名としての「作家」ではない。事実として作品を制圧しきったところの作家、という原初的な意味である。

 『草とり草紙』の場合は、対象が決定的に優位を呈している。八十四歳の老婆の「聞き書き」である。どうみてもこれは、コケの生えた、煮ても焼いてもくえないような婆あなのだが、作者のまなざしは熱っぽく極私的エロスに傾いている。婆さんの聞き書きを集めなさいといったのは鶴見俊輔だが、ここにその極端な解答をみつけられる。対象への没入は必要な作業だが、この婆あのしたたかさをあるていど客観化することぬきには、説得力に乏しいのである。などと月並みな評言になってしまったか。217wg.jpg

 森崎東の『略称党宣言』は、『女生きてます』シリーズの人情喜劇路線に、原発ジプシーやじゃぱゆきさんを強引に挿入した。無難な作品ではない。饒舌さと人情ものの型、社会抗議の拡りと常民の水位とは、危く均衡を保っている。岡目評定では、更なる均衡の安定性を望むことも、更なる混沌未分の沸騰を期待することも、気楽に選べる。しかし、森崎の困難は一つの大いなる可能性だと支持する他ないようである。

 加藤泰、浦山桐郎の死に加えて、『カポネ大いに泣く』『金魂巻』で二度、死に役をやったたこ八郎も実際に死んでしまった。
 『未亡人下宿』シリーズの常連役者、自転車オマワリのたこ八に線香の一本でもあげましょう。


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「映画芸術」352号、1986年2月


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