一九八六年度ベストテン&ワーストテン [AtBL再録2]
『カラーパープル』の差別に怒る〈外国映画ベストテン〉
①時を数えて砂漠に立つ(ジョナス・メカス)
②その年の冬は暖かかった(裵昶浩)
③青春祭(張暖忻)
④群れ(ユルマズ・ギュネイ)
⑤未来世紀ブラジル(テリー・ギリアム)
⑥村からの手紙(サフィ・ファーユ)
⑦野山(顔学恕)
⑧ベルリン・ブルース(ローザ・フォン・プラウンハイム)
⑨白い町で(アラン・タネール)
⑩蜘蛛女のキス(ヘクトール・バベンコ)
〈ワースト〉
カラー・パープル (スティーヴン・スピルバーグ) (マイナス百点)
選別は大体うまくいったように思っていたら『シテール島への船出』を落としてしまったことに気付いた。『チャオ・パンタン』まで落としている。何か去年観たと感違いしたのかもしれない。六本木にバリアーができてしまったので、オーソン・ウェルズの傑作(たぶんそうだろう)は、未見である。できればバリアーなしのほうが楽だが、どうにも『今宵限りは……』の気分が増大して困る。
インディーズの流行に関しては全くどうでもいいと感じる。かれらは新しくもないし、といって、古くもない。要するにただそれだけのことである。これならもう少しスプラッタに熱心に付き合っておけば良かったとか益体もないことを思う。ジム・ジャームッシュは、ヴィム・ヴェンダースよりも優れてはいない、それで充分だろう。
選考注釈はあまり書きたくもない。裵昶浩〈ペイ・チャンホ〉は、もう一つ『赤道の花』もきているが、これは、ゴダールがアンナ・カリーナに対してつくったようなフィルム・ラヴを、張美姫〈チャン・ミヒ〉に対して試みて、失敗しただけの作品。「六・二五動乱」が引き裂いた姉と妹の、どこまでも永却に続くかのような分断を、全く型通りの通俗メロドラマに託して描く『その年の冬は暖かかった』は裵昶浩の今のところの最高作だと思う。
『青春祭』も『村からの手紙』も、女性による作り手の成果を無視しえない。後者は、『マルチニックの少年』のような文部省選定映画よりは、各段に優れている。
やはり、『カラー・パープル』は、もし原作者のアリス・ウォーカーに誠意があったなら、女性の作り手によるブラック・フェミニズム映画になっただろうし、そうなるべきだった。
しかしミズ・ウォーカーは世界のスピルバーグ印に自分の作品を売り渡してしまったのだ。断言するが、スピルバーグ・ブランドの『カラー・パープル』は、最近数十年、否、今世紀最大級の黒人差別映画である。女であろうが男であろうが関係なしすべて差別しているその怖るべき一貫性。
ここには、ハリウッドが、かつて半世紀前に、『風と共に去りぬ』のマミー役のハッティ・マクダニエルに要求し、かつその成果に対してオスカーを与えたところの、黒人種への偏見とステロタイプ願望からくる様式化したハリウッド演技システムが、数倍にも増幅されているのである。
半世紀前のディープ・サウスを舞台にとったら、宇宙人相手の愛と涙のヒューマニズム讃歌と同等の異化効果をもつことができる、という商魂は最初から見えすいている。主人公の醜さの強調、父親に妊ませられ、その赤ん坊をどこかにとりあげられてしまうといったような導入の要素には、歪曲された差別感が大手を振ってまかり通りながら、異星人の未開社会を描くかの臆面もなさで現実とファンタジーの皮膜に処理され、まるで善意に包まれた差別反対キャンペーンにすら誤解されてくるカラクリがある。
要するに、これはハリウド製ニグロを使ったET映画なのである。黒人とETとは交換可能という作り手の意識は、どんな「生命体」であれ共に手をつなごうという一般的人道主義であると同時に(やっかいなことに同時に、なのだ)異種の排除という自己防衛的差別主義でもあるのだ。
ここ数年、ワーストを選んでないから、貯金分もはたいて、マイナス百点を献上したいゆえんである。
「山谷」だけよ〈日本映画ベストテン〉
①山谷〈やま〉――やられたらやりかえせ(佐藤満夫・山岡強一)
⑤おニャン子ザ・ムービー危機イッパツ!(原田真人)
以下略
映画を観歩いた目録は白紙であることができず、それがその頃あつかいかねていた魂の窮状をそのまま映しているのだと識ることは辛い。疲労から本数を減らす。
すると明らかな結果は日本映画を見なくなることだ。そしてそれでもあまり困らないと気付くことだ。
疲労は、特に二月、三月は最悪で、三本だけは必ず落すまいと決めていたうちからすらゴダールの『マリア』だけしか観ていない。こうした気分はネオハードボイルドの文体で語れば似合うようだ。もしくは全然語らないか、どちらかだ。
今後は、韓国映画を二本見たら日本映画も二本、ブラジル映画を二本見たら日本映画も二本、中国映画を八本見たら日本映画も八本、とそんな具合に、意味もなく機械的な方針をつくってしまおうかとも思っている。
選外佳作・第十一位といった印象のものばかり並んでくるのであまり面白くない上に、白紙であることができない日録からめらめらと立ちのぼってくる青白く重たい炎がどうにも寝かしつけたばかりのパラノイアをゆり起こしてくるようで、すっかりうんざりしてしまうのだ。
これでは、本年度日本映画が悪いのだ式の責任転嫁的一年の回顧になるだけか。どちらにしたって迫力に欠ける。
『山谷――やられたらやりかえせ』については説明する必要もないだろう。すでに諸家の言に論点は出そろっているから、わたしも何かを書き加えようとして時機を逸したにしても、更に書き連ねるには及ばないように思える。佐藤満夫はウカマウの衝撃からこの映画を構想したはずだが、映画が革命的プロパガンダの手段になどなりえないこの大国の現状にリアルに斬り結ぶ前に、ドスで突き殺されて政治死の葬列に並んだ。
かれの遺したフィルムを引き継ぐとは、この国の映画の現状に向ってネガティブな未完のメッセージ的なプロパガンダを発することでしか果されなかっただろう。作品性そのものの未熟さ拙劣さをそのまま呈示することによって、それを規定する現実の過酷さへの想像力をかきたてる(そしてできうべくば、それを組織する)こと、『山谷――』はそこに向うしかなかったし、またそれをよく実現しえたと思うのだ。
映画の完成後、敵の銃弾を喰らって壮烈な戦死を遂げた山岡強一が、撮り足した部分に、とりわけそれは発信されていた。その一つの部分のバックに流れる『哀愁列車』を聴いていると、同じエンド・マークのないドキュメンタリー・フィルム『時を数えて砂漠に立つ』にドリス・デイの「センチメンタル・ジャーニイ」が(二度も)使われていたことを、想い出さざるをえない。
佐藤ー山岡は、インドネシアの教科書のロームシャの一語に注意を向けることによって、メカスは時の証人としてのプライヴェイト・フィルムの強調によって各々、エンドマークを拒否した。終らない映画は、観る者の胸に突き刺さってくることによってしか、本当に始まることはできない。そうした終わることのできない条件を、ある一つの未知から別の未知へ、何事かの始まりへとかきたてることのできる映画こそ、真正の、深層からの、押さええないプロパガンダの発信であるのだろう。
そう考えれば、次に並べることのできる物件などないのだ。
わずかに『おニャン子ザ・ムービー危機イッパツ!』だけが、少し離れて、少ない点数で並びうるだろう。
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