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大人たちをよろしく [AtBL再録2]

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 最近は、アル中探偵マット・スカダーのシリーズに凝っておるそうですが、『800万の死にざま』はいかがでした。
R だめですね。パチーノもどきのアンちゃん(アンディ・ガルシア)が、ファキン・ファック・ユーを連発してとまらなくなるところだけが良かったです。
     
 それなら『レポ・マン』のハリー・ディーン・スタントンが「てめえが共産主義野郎〈ファッキン・コミー〉なら車から降りろ」と毒付く場面のほうが上でしょう。

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 しかしどうしてアル中探偵の話が、ハル・アシュビー(脚本はオリバー・ストーン)の手にかかると「余はいかにしてアル中から自立更生の途をかちとったか」のキャンペーン映画になるのですかね。ジェフ・ブリッジスのスカダーは健康そのもののアホ面をして、アル中自主治療協会(AA)の集会に出ては、飲まなかった何十日について演説するではありませんか。原作のスカダーは集会で喋ることは全然なく、結末に初めてスピーチに立ったとき、俺はアル中だ、救済を求めている、といってさめざめと泣き出すのですよ。これは心を打つ結末です。映画は正反対の歪曲じゃありませんか。全くハル・アシュビーというオッサンは何をつくらせてもムカムカさせる野郎〈ファッキン・コミー〉ですな。

 ローレンス・ブロックの原作の間伸びした退屈さをかりこんだぶんだけ、スピード感のある小品に仕上った印象ですがね。
 「800万の飲みざま」が消えてしまった教訓映画ではありませんか。

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 教訓映画といえば『少年犯』。上海少年鑑別所にカメラをもちこみ、じっさいの少年犯を主役に使ったものです。どうということのない未成年犯罪者ものの紋切り型映画なのですが、ものがものだけに、こうした「素材の積極性」が選ばれ、許可された理由のほうに、より興味をひかれてしまいます。社会主義国にも少年非行はあるよ式の常識よりも深まっていない作品ですから通用しているわけですかね。
R そうですね。どんな社会体制でも矛盾はあるよ式の常識なら、とりわけ現路線の採用が拡大した矛盾という掘り下げを含まないでしょうから、無害といえるのかもしれません。

 しかし、少年刑務所に体験入所して、少年非行への警世のルポルタージュを書いている主人公の婦人の一人息子がですね、親に放任されているうちに、香港ルートのポルノ・ヴィデオ・パーティなどやっておるのが発覚して捕まってしまう、という皮肉な結末に、精一杯のメッセージをこめていたのかもしれませんよ。
 善意のにこにこ顔で、心を痛めてやるというじつに嫌味なオバサンだったから、あのラストには、ザマミロと爽快な気分にはなりましたね。母親が家に帰ったら、品行方正の孝行息子がいて、ああわが家こそ暖い模範家族の鏡なんていう結末では、さぞかし後味が悪かったろうと思います。

 アメリカ映画ならそういうラストのほうが何かブラック・ユーモアの効果が出て面白いでしょうがね。ところで『子供たちをよろしく』を観て、アプローチの違いはあっても選びとった素材の共通性に、米中社会の不可思議な過渡的な対応をみたように思いました。

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 『子供たちをよろしく』は面白かった。作り手はしかし、自分が「十代のミッドナイト・カウボーイ」を、それも遅れてきたニューシネマとして巻き戻して作っていることに、気付いていたのでしょうかね。どちらにしても、見終ったみんなが深刻ぶったポオズをとってかろうじて体面を保たせようとするような反応ばかりあっても、仕方ないでしょう。現状はこうなのです。大人たちは見知らぬ子供たち〈ファッキン・チルドレン〉を救えなくなっている。それで? それで、どうなのだ? 問題を問題提起にとどめることによって作品はニューシネマにリールバックしているのです。否定的にいうのではありませんが。
 子供たちを積み残した箱舟。資本主義も社会主義も、というところですか。
 どうでもいいですが、この種のテーマを、ファッキンPTAのハル・アシュビーなんかがとりあげて、「あふれるばかりの愛を家庭に」なんていうキャンペーン映画をつくらないことだけを祈ります。現状はもう、大人たちをよろしく、なんですから。今回は、中国映画の話で……。


220cc.jpg汽車は近代化路線か
 『未亡人』のような大時代がかったメロドラマでもいいですよ。出てくる人物たちがどれもこれも類型化した自己保身的なエゴイストであることといい、クローズ・アップを多用した顔面だけのクサい芝居といい、少しばかり意気阻喪させる代物ですが、問題を取り出すのには、適切な例だと思います。
 失脚した党幹部の未亡人とプロレタリアの男との悲恋です。幹部が名誉回復するまでの迫害の日々を、男は無私の献身で支えるが、やがて回復がなされ、未亡人も要職を与えられることになると、二人の距離は当然に離れる。逆にその離れることが、かれらの関係を決定的に意識させることに作用する。女は党の方針によって年の離れた幹部と愛のない結婚をし、息子をつくり、やがては迫害の日々を耐えねばならなかった。今を、人間として生きることこそ正当ではないか、と愛にめざめる。

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 しかし、彼女が男の献身をかつては友情、現在の恵まれた生活にあっては愛、――と、区分することのできる鈍感さは、少し奇怪に感じられますね。男のほうは秘められた思慕を表に出しただけの違いなのですから。かれらの愛は圧力を受けます。
 何より「身分」が違う。とくに女の成人した息子と、男の年老いた母親から発動される圧力が決定的で、かれらは屈服します。しかし、といって、その屈服をきっぱりと受け入れることもできないのです。
 かれらは彷徨い、やがては、いくどかの逢瀬と別れのあった想い出の場所に迷い込み、メロドラマの定石通り、そこでばったりと出くわすことになります。線路の上の陸橋のあちらとこちら、暮れかけてゆく定かでないシルエットの下方を、やはりこれがこういう瞬間が映画なのですね。汽車が煙を吐いて二人を割って走ってゆくのです。おお Tell me,How long the Train gone? この場合、汽車とは何のメタファーなのか、あまりにも明らかではありませんか。

 パチパチパチの解読ですな。汽車は走る、近代化路線を、ひたすら走る、生産力四倍増路線を、というわけですか。作家たちは、いずれにしたって、所与としての体制の矛盾の沸騰点を養分にせざるをえないものであり、そうであるなら、かれらの作品は、どんなネガティヴな押しつぶされた形(要するに『少年犯』のような、という意味ですが)であれ、体制批判をメッセージせざるをえないでしょう。
 ではこちらも、対抗して別の作品から、同じ答えを証明してみましょう。といってもこちらは、池袋文芸座の椅子の固さに下部構造を、旧式メロドラマの常套作法に上部構造をそれぞれ苦闘させられたアテハズレではなくて、今回の中国映画祭八本の目玉でもあったと思える『野山』をとりあげさせてもらいます。

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 過疎地帯、少数の人々が土地にしがみついて暮らしている。二人の男、漂泊タイプの禾禾〈ホーホー〉と定着タイプの灰灰〈ホイホイ〉、しだいに明らかになるのですが、かれらは互いにはりあい、男を競っているのです。まるで路線闘争のように、です、もちろん。
 始まりは、禾禾があまりの定見のなさ、生活設計のなさを理由に赤ん坊が生まれたばかりなのに、秋絨〈チュウロン〉に離縁され追い出されるところから。かれは同情され、灰灰夫婦のところに居候として転り込む。そのときの仕事は豆腐作り。深夜、中国映画空前の(らしい)ベッドシーンに、大豆を挽く禾禾のくそ真面目な表情がカットバックされる。
 桂蘭〈クイラン〉は灰灰に、禾禾夫婦に同情しろとけしかけ、夫には乳呑み子をかかえた秋絨の畑仕事を手伝わせ、自分は禾禾の夜なべ仕事を手伝うことにする。ここから話は妙にいりくんでくるのです。妻が深夜に居候の手伝いから戻ってくると、夫は昼間の農作業が増えた分だけ疲れているから高イビキ、かれらのほうの亀裂が拡大されてくる。
 桂蘭は外の世界に出てみたいのと、子供がない負目で苦しんでいる。禾禾は、次から次へと仕事を変え、町に出て土木作業員をやり、運送業をやり、ムササビを飼ったりする。灰灰は、ひたすら自分の土地を確保し、守る。
 桂蘭は灰灰の鈍重なねばりに嫌悪をおぼえるようになり、秋絨は禾禾と一度よりが戻りかけるがやはり決裂してしまう。灰灰は秋絨に同情するうちにその手管で情が移ってくるが、それはもとはといえば、桂蘭の禾禾への同情が度が過ぎているという感情から発していた。
 かれらは派手な夫婦ゲンカまでしたり、桂蘭は町にとびだし、そこでたまたま禾禾と出会う。村では二人の駆け落ちの噂がしきり、すっかり面目をつぶした灰灰は、どこかの国の写真週刊誌のような衆人環視の中に帰ってきた桂蘭を許すことができない。ここから遂に、夫婦が入れ替ってしまうのですね。
 灰灰は周到に秋絨と赤ん坊を自分のものにし、隣人たちの祝福をうけ、畑も拡げる。そして自分は何をするにしても禾禾よりも上だし、この土地を豊かにしてみせる、と得意気にいわずにはおれない。
 一方、禾禾は、遂に、何をしてもダメな男が、先ず人の嫁に手を出した、と子供たちまでが戯れ歌でからかってくる始末。
 しばらく辛い想いをしますが、やがて町で成功して戻ってくる。禾禾はもうけた金で新居をたて、それは灰灰の畑から丁度具合よく見降ろせる台地にあった。隣人たちは今度は祝福し、仄仄は呆然としてその光景を見降ろしている。競争に敗けた男の表情です。俯観された台地の新居に次々と爆竹がなって、映画は終ります。
 さてこのラストシーンは近代化路線への皮肉な讃歌ではないでしょうか。競合する二つの路線の一方が勝利し、金持ちになり、寒村に発電機をもたらす。電化はもちろん善です。勝ったほうが善なのです。

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N 『青春祭』Sacrificed Youth は、すばらしい映像美と文革時下放政策の犠牲になった青春こそ輝いていたという逆説的提起で際立っています。雲南省タイ族との暮らしに自己発見を重ねてゆく都会の女子学生の物語は単純で力強い主張にみちています。冒頭の霧にしっとりと包まれた田園風景にはまいりました。中国にもタルコフスキイ好き!の人かおるということでありましょうか。タイ族の若者たちの大らかな性の交歓や水浴びする娘たちの集団シーンは、変わりつつある中国映画というばかりではなく、辺境の少数民族への曇りない偏見のないまなざしの健全な力を信頼させてくれます。
 中国映画、初のヌード・シーンですか。そういえば韓国映画『アガサ』だって李甫姫〈イ・ボヒ〉のヘアーを堂々と見せていたし、陰毛低国ニッポンには及びもつかない大胆でダイナミックな集団シーンでしたね。

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N アメリカ中国で終結してはナンですから中間点をいきましょう。『群れ』。構造的な貧困の中で徒らにエネルギーを浪費し、見当外れに傷つけ合い、閉塞されたまま破滅してゆく群れを描くギュネイ映画の特質を、力ずくで納得させていきます。羊飼いの一家は首都をめざして羊の群れを追ってゆきますが、ここには牛追いのカウボーイ映画みたいな冒険的ロマンは、これっぽっちもありません。家長は家族たちを養う金のために、長男は妻の病気を直し一家から独立するために、末弟はただ自由への憧れのために、エゴイズムと相互憎悪が、かれらを支配しています。
 妻は子に恵まれず、家長から迫害され、喋ることのできない存在になっている。優柔不断の長男は妻を守ることができず、やっと家を出ることを条件に、最後の羊追い行に加わる。旅は過酷で、列車は公然とワイロを要求し、疫病や盗みから羊を守るのは容易ではない。
 やっと辿り着いた首都にも、かれらは希望をみつけるのではない。そこにはただ混乱と失業があるだけなのです。そして一家は文字通り離散してしまいます。
 妻を背負い、メトロポリスを、医者と仕事を捜し、ただひたすら歩き続ける男の姿は、ギュネイ映画の人物の基底的なイメージを代表しています。妻は死に、家長は死者をすら罵り、長男は怒りのむけどころがわからないまま、狂い出す。家長は雑踏の中で末弟を見喪い、悲劇のすべて一切を感受したかのように叫び出すのです。
 ギュネイの人物は、大抵、自分らを囲饒している抑圧を漠然としか感受できず、親は子を傷つけ、男は女をおとしめるという具合に、非常に狭い領域で相互の憎悪を循環的に処理しています。ほとんど耐えがたいまでに抑圧が高まったとき、かれらは爆発しますが、それもたかだか、かれらが人間であることの消極的な証明であるにとどまり、かれらを囲繞する抑圧システムヘの高次の理解によるものではありません。
 だからかれらの行動の問題の解決を示唆するものはないのです。ただ貧困の中の人間が喪うことのない本源的な勇気や怒りや憎しみを、極度に損傷された形で発動させることを通して、盲目の蜂起にも似たある種の恩寵的な希望をかきたててやまないのです。ギュネイのどの作品もがそうであったようです。

 最後の、末子を見喪った家長が、首都の街路で叫び出す姿に象徴された、悲劇全体の受け入れ方ですね。あのシーンは『獄中のギュネイ』のハイライト・シーンにも使われていた非常に雄弁な構図なのですね。

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 さて、もう一つ同じ色調で。バングラディシュ映画『ジョルジュ・ディゴル・バリ――呪われた家』などは……。
 枚数がもうありません。しかし日本語ナレーションの同時進行なるものがこんなにすさまじいものとは思ってもみませんでした。
 どうすさまじかったのです。
 もう二度とごめんですね。

 ところで『八百万の死にざま』はどうして舞台をニューヨークからロスに移したのですか。
 またその話ですか。知りませんね。フリードキンの『L・A・大捜査線・狼たちの街』のむこうを張りたかったのではありませんか。それにしてももう少し役者をそろえられないのですか。悪役の男と女の大根ぶりは限度を超えていますよ。それにあの刑事役のブルース・スプリングスティーンがハゲになったみたいのは何ですか。フリードキン自体は変わらんですね。変わりようがないけれど、中味は薄まっているのですよ。

 ところで『ダウン・パイ・ロー』『レポ・マン』とロビー・ミューラーのカメラのものが続きましたが。
 『レポ・マン』は上等の部類だと思います。フリードキンやアシュビーよりは、ね。それと、エッジ・シティ行きのバスが出てきたのには、すっかり嬉しくなってしまいました。ロード・ムーヴィとビートのオン・ザ・ロード小説が、アレックス・コックス映画にダブル・イメージになって重なってきたのです。

「映画芸術」354号、1987年2月


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