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六月の華はまだ輝いているか  裏目よみ『アウトサイダー野球団』 [AtBL再録2]


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 十二月五日深夜、10ch、李長鎬〈イ・チャンホ〉監督『アウトサイダー野球団』(未公開  後に、この作品は『外人球団』として一般公開された。ヴィデオ化もされている)が放映された。
 感ずるところあって、以下は同映画への試論である。

 わたしはこれを十二月十六日深夜、韓国大統領選挙の開票速報を横目でみながら書き始めている。十六年ぶりの直接選挙による代表者選出は、盧泰愚候補の優位を伝えている。
 三金プラス合計してもノ・テウが多い。トリプル・スコアが最初に出てしまっている。隣国の政治情勢の隔絶に息をのむはかないが、予想されていた通り、チョン・ドアホウがノウ・テンキにすげ替わるだけの現実を前にして心は暗くなるばかりである。
 冷戦構造の最前線という戦略的要請に一貫して規制される政治とNICs資本主義の「奇跡」の高度経済成長とにきりもみされるように、この国は、現在、「民主か独裁か」の択一を自らに迫って、結果がこれなのか。
 『アウトサイダー野球団』は人気コミックスの映画化であるという。はみだし者ばかり集めた野球チームが奇跡の五十連勝を闘い抜くというよくあるパターンの筋書き。ここに一人の女をめぐる宿命のライバルの対決、とくるから常套パターンは更に上のせされるわけである。それにしてもこうした全くの定型通俗ドラマの基調からは想像しがたいほど暗い映画に仕上っている。まさに李長鎬映画独特のひきずりこまれるような暗鬱さなのである。


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 ヒロインはおなじみの李甫姫〈イ・ボヒ〉。彼女をめぐって強打者のサードと天才ピッチャーとの対決があるのだが、ピッチャーは敗れ、肩をこわし引退にまで追い込まれる。必敗者ヘソンがヒロインと結ばれるという図式が次に用意されている。
 しかしこれでは話が直ぐに終ってしまうので、ここに狂信的な監督という役柄が登場してこねばならない。これもおなじみの安聖基〈アン・ソンギ〉。全くキャラクターがずれていて気の毒な演技であるが。かれは勝利におごる人気打者ドンタクを殴打して強豪球団を追われる。そしてはみだしプレーヤーばかりを集め、山にこもって、すさまじい特訓を開始することになるのだ。
 ヒロインと新生活を始めようとしていた引退投手ヘソンも狂気のターゲットとなって、この列に加わる。かれを探し出した監督、「まだ目が死んでおらぬ」と宣告する。そしてかれらがささやかに始めようとしていた夜泣きソバ屋の屋台を杖でもって叩き壊してしまうのだ。
 どうもここでは、気狂いぶりが徹底しておらずはなはだ迫力に欠けているが、ともかくいったんはかれらの純愛は引き裂かれるというドラマ進行になる。強いチームをつくる目的のためにのみ執念を燃やす狂気の男に殉じねばならないのだ。
 「手紙を書いて」という女の願いも空しい。なぜなら深山にこもった特訓チームに、監督は、一年以上にわたって外界との接触を許さなかったのだから。別離の哀愁、訴えるまなざし、それらはひたすら暗く迫ってくる。きわめてご都合主義的なパターンの反復にはおさまりきらない情念がこぼれてくるのである。

 特訓の内容にいたってば、およそ野球とは結びつかないような原始的な肉体鍛練と精神克己の連続で、いかにもコミックスの世界。はみだし者とは、片腕、混血、短躯、肩をこわした投手、コンプレックスから抜けられない大男など、これも映画のキャラクターにはなりにくい。それはともかく……一年半の特訓の時期が流れる。
 ヒロインはドンタクの求愛を斥けることができず、ついにかれの妻となってしまう。これが一方の歳月。純愛が再び燃え上がるのはそれからである。今度は人妻に対して。

 アウトサイダー野球団は戻ってくる。勝つために。勝つためだけに。
 いったい山奥で石ころや草むらや川原を相手にマゾヒストのように修行していたかれらが野球の技術を向上させることができたのかどうか問うのは野暮だろう。超人パワーを身につけたのだ。
 かれらはひたすら勝ってゆく。ヘソンは立派な打者となり、一塁手である。宿命の対決は今度は、打者対打者として行なわれることになる。二人共に相手のポジションめがけてサードヘ、ファーストヘと打球を集中させるのだ。勝敗はつづめていえば、二人の対決ドラマに「変換」される。アウトサイダー球団の奇跡の進撃は最終的には優勝球団打倒にあった。その目標の焦点が二人の対決になってくる。

 奇跡の連続勝利は結局は球団を大衆から離反させてしまった。そうしたところで二球団は最終決戦にのぞむ。ここでヘソンの純愛は試練にさらされる。純愛がスポーツ根性を凌駕する。愛する人のために勝つ、という単純な立場はかれにはない。むしろ愛のためには勝負を捨ててもいいと考え始める。
 ぼくはきみの望むことなら何でもする、というのがかれの原理だった。かつて野球を捨てたように。鬼監督にひきずられ、またかけがえのない歳月を失ってしまったが、この勝負への執着をいつでも捨てられる。勝つか負けるかそれはもはやかれにとって全く関係がない。
 勝敗だけが問題である局面においてそれを捨てる。それがかれの選択である。
 当然のことながら場面はこうなる。

 一打逆転のピンチ。むかえるは宿命のライバル。なんとしても打ちとらねば勝ちはない。相手はむろんファーストヘ強烈な狙い打ち。ヘソンはその瞬間、グラヴを捨て、何か視えないものにむかって全身をダッシュさせる。その顔面を無慈悲に打球がとらえる。昏倒しながらかれは打球を拾い、つかんで放さない。放うれない球によってチームの敗けは確定する。

 負けるとは何か
 速報は相変わらず、ノ・テウの優勢を伝えてくる。

 この映画で最も精彩のないのは安聖基であるだろう。李甫姫も二人の男の間を揺れ動く人形のような役でありあまり良いとはいえないが、もともとクサイ芝居の形が似合うのでこれで充分というところか。
 鬼監督は最も勝敗の影響圈から遠い人間である。
 かれの役割りは勝つことだけによって意味のあるものだが、生きている世界は勝敗など超越したレベルに在る。勝ったからといって狂気がしずまるものではない。逆に敗ければかれの妄執の継続につながるから、それは望ましいものでむしろあるかもしれない。勝っても負けてもかれの得るものは同様に空しい。ただ外面的に執着せざるをえない役割りに縛られているだけなのだ。
 安聖基の演技の質もあるだろうが、この役柄のコミカルな気狂いぶりが全く伝わってこないのだ。『ディープ・ブルー・ナイト』でかれは、グレゴリー・ペックを名のる在米韓国人を演じたけれど、この映画では白〈ペク〉氏の出来そこないを、つまり『白鯨』のエイハブ役のペックの出来そこないのパロディを演じただけである。
 杖で打ちかかる片足不具の怪人。これは生ま身で演じるには困難で、計算が必要なコミックのキャラクターである。敗れて、スタジアムの階段を登り、その頂点でくずおれる監督をとらえる逆光の仰角のショットは、NICs資本主義の黄昏をシンボライズしていたのかどうか知らない。

 韓国はどこへいくのか。

 NICsは世界資本主義システムの危機の表現であるよりもむしろ、それ自体としての危機を成立させているように思う。わたしの受感は全く理論的なかけらも含んでいないから、『奇跡と幻影』というフランス人のNICs論に対して格別の異論があるわけではない。
 漢江の奇蹟と呼ばれたものが、国際競争力においてあるいは日本資本主義を抜くものなのか、それとも全く脆弱な基盤しかもたないものなのか、という技術的な議論にも大して興味をもてない。ただこの新興資本主義が最も鋭くアジアの近代化、それも遅れてきた近代化の表現であることは痛苦をもって認めざるをえないだろう。
 近代史の、近代化レースの勝ち残り史の、改編しようのない軌跡はそのことの認識を迫ることだろう。この国は早く、かの国は遅れたのである。そしてとりもなおさず韓国の高度成長は、軍政のもとにその独裁のもとに実現されてしまったという歴史によって、最も顕わに冷戦構造の一貫した突出的表現になっているのである。
 まさに前線あってのこの列島の後方兵姑基地が許されたのだし、そうした静的構図としての運命共同体だったのであり、今もあるわけだ。
 なかの・しげはるが唱ったように《日本プロレタリアートの後だて前だて》だ。弾よけだ。われわれはそして高度成長の果ての腐乱した荒廃を生きている。NICsもいずれこの荒廃を辿らざるをえないだろうし、それはそんなに未来のことではあるまい。先送りにされた破局について語ることは倒錯なのかもしれない。

 しかしながら政治局面での三派鼎立はおよそ不愉快な記憶を呼びさまさずにはおかなかった。李承晩の独裁は、呂運亨、金九を連続して暗殺することによって成立した。金大中の指導者としての政治的復権はもはや不可能なのかもしれない。投票前夜まで詰められていたという候補一本化のための調整の失敗は何を告げているのだろうか。速報はすでにいくらか、結果が判明したあとの分析の論調を帯びてきている。
 光州の殺人鬼の片割れ、民服を着て変装した軍国主義の権化を、直接選挙によって選択してしまった国はどこへいくのか。国民はこぞって安定を願ったのだろうか。政状不安、野党候補分裂の政治責任はどこに帰せられるのか。また再びの軍政による新らたな政治報復はあるのだろうか。
 また労働運動は何に向うのだろうか。日本の高度成長下労働運動が利権の分け前に群って未来を失った負債の教訓は、いくらかは生かされるのだろうか。

 「六月の革命」のこれは総括であるのか。と問うことは間違っているだろう。勝ち負けは問題でなかったということはできよう。
 ボクハキミノノゾムコトナラナンデモスル。
 市民革命よ。
 純愛はすべてを凌駕する。そしてそんなものはあったか。
 勝つことが目的であったのではない。そのようにいうことはできる。勝負を捨てること。
 民主か独裁か。またしても択一は鼎立を結果して終った。朝鮮近代史のこれは大いなるニヒリズムなのか。

 勝つことは問題ではない。

 六月の盧泰愚の「民主化宣言」は、軍政の側の屈服の証しともみられた。一説に、催涙弾を撃ち尽してしまったかれらは妥協の途をとらざるをえなかった、とされるように。
 だがそれは注意深く演出された政権委譲のデモンストレーションにほかならなかった。アメリカの共同シナリオによる巧妙な政治演出にほかならなかった。『アウトサイダー野球団』のヒーローは、打球を顔に受けた結果、盲目になって、ヒロインの最終的な愛を得る。かれを襲う打球は、六月の催涙弾の雨であるかのように――。
 「六月革命」以前に作られたこの作品に、大統領直接選挙への姿勢をよみとることは横暴であるだろう。しかし、勝ち負けは問題でないことを高らかに歌いあげるこの作品の中にすでにある種の啓示をよみとることは正当である。
 映画に底流するエネルギーはそれを可能にしている。然り。
 われわれは幾度でも敗ける。敗ける用意はしている。それが答えである。
 ……
 暁闇。
 明け方、すでに大勢は確定されていた。十七日早朝、ノウ・テンキが当確だという。

「映画芸術」356号、1988年3月

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