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OT〈オガワ・トオル〉裏目よみ批評〈オルガニズム〉の神秘 [AtBL再録2]

 幸福な政治的人間はみな似通った顔付きをしているが、不幸な政治的人間はみな際立って個性的な不平面をしているものだ。あまつさえその不平面を互いに詮索しあうことによっても独自の個性を示したがるものである。

 小川徹〈OT〉伝説の一つに、労働運動において不如意になって映画批評に転じた、というものがある。現実的にはかなりありふれた事例だと思えるし、おまけに、これは、裏目よみ批評の元祖が自身の方法によって読まれたようで面白くもある。政治とは運命であるという受感それ自体には幸福も不幸もない。これを受ける局面だけが個人をどちらかに分岐する。
 幸福な政治的人間は金輪際、幸福なままにその生を全うすることができる。三島由紀夫という複雑な症例がその軌跡を雄弁に語っているように――。
 完結しうる生とは充分に能弁であり、自らを語りきることができるだろうが、運命感に捉われることはほとんどあるま
い。いずれにせよOTは政治とは運命であると直接には数回、間接にはいたるところで表明している。
 そこを前提として始まる批評とはあらかじめ完成への途をたちきられているだろう。批評とはもともと悪迷路だが、幸福な完結という選択もあるのだということを否定しうるだけの豊饒な方法たりうることは困難なのである。

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 一九六四年三月、新日本文学会十一回大会、日共による党員文学者の除名に始まる党内闘争は、文学団体内の抗争にもちこされ、戦後文学史のエポックを画した。
 斎藤竜鳳は、ここにおいての本多秋五の高名な演説にふれ、その《声涙ともにくだるといった長口舌》(花田清輝)を裏目よみに批判したOTの方法に感服したあと、自分ははずかしながら《もらい泣きする佐多稲子さんばかり、いまでもきれいだ、若い時はもっときれいだったろうに、と見とれていた》と「告白」している。
 竜鳳あえてシャイに演じているが、先行世代文学者の内部ゲバルトを傍観することにおいて、OTも竜鳳も際立って不幸な政治人間である。
 戦後批評史の六〇年代は、このコンビの残した仕事のために重要な数頁をさくべきであるように思える。福田恒存は『日本共産党礼讃』を書いて、党の政治が文学主義によって禍いされていた以上、〈党は無謬である〉といったような野次をいれ、それをまた磯田光一ごときの不幸なふりをしただけの、悪意に自足した政策評論の書き手が、「戦後のもっとも優れた共産党論だ」と見当外れにもちあげた。
 ところで左翼文学の泣き所を〈礼讃〉
することに卓抜たるレトリックを磨く御本尊のアキレス腱についてはOTが痛烈な攻撃を草している。劇団文学座の分裂さわぎにおいて恒存が発表した声明文を批判しつくした一文「インテリが行動するとき」(『亡国の理想』所収)である。これを虚心に読むのなら、磯田などの幸福さは瞭然なのである。
 それはともかく、わたしはうかつにも、この一文が、福田の『党礼讃』の岡目八目の毒素に対する逐語的な反批判であると、ずっと思い込んでいた。じっさいは、恒存批判、新日文大会での本多発言、福田の『党礼讃』の順序であるのだが、逆に因果付けてしまうほどに、見事な足の払い方だったのである。
 本多が福田を《ともに天を戴かず》と論難したのは有名なことだったにしろ、両者を同一の位相で否定する政治批評の選択も後代のものであった。
 ――これがOTの流儀である。


 一九八九年冬は、わたしにとって、ドゥシャン・マカヴェイエフの三作、『WR:オルガニズムの神秘』『スウィート・ムービー』『モンテネグロ』、を観た時期としてのみ記憶されるだろう。とりわけ『スウィート・ムービー』は、苦い、しかし豊かな、重苦しい衝撃を与えてきて、しばらく映画館の闇から立ち上がることができなかった。六八年の革命を。「性と政治」から圧倒的に総括するフィルム。
 あの時代の錯乱と解放と迷蒙を未来の希望に向かって投げ出した映画。舳先にマルクスの巨大な顔を彫り付けたサバイバル号の女船長。彼女は性の誘惑者であり残忍な処刑人だ。戦艦ポチョムキンから来た水兵と交わり、共に革命歌を唱い、最後には砂糖のべッドの上で刺殺する。訪れた子供たちをも、お菓子と自分の裸体で誘惑し、次々と殺し、ビニール袋につめてしまう。
 一方、もう一人のヒロイン、ミス・ワールドは成金の金粉を塗ったペニスに襲われることから始まる性の受難を漂流する。受難の完成は、銀河コミューンの食と性と排泄の一大パーティに巻きこまれることだった。
 オットー・ミュールとかれの一党によるマテリアル・ハプニングもまた「あの時代」の神話の一つだったが、かれらがここに復活してくるのだ。食物や大小便やペンキや動物の血を全身に浴びるパフォーマンスが予定されていたのかもしれない。幸いにして、ミス・ワールドは『スウィート・ムービー』のタイトルそのまま、チョコレートを全身にかぶってみせてくれた。そして挿入されるカチンの森の虐殺のフィルム(ソ連兵によって殺されたポ士フンド人をナチスドイツが発掘し記録に残した)。
 性と暴力、革命と同志討ちは、一つの映画の中でこの上なく高まった。軟弱な感性には耐ええない震撼だった。

 われわれは『戦艦ポチョムキン』を観たその日に、あの映画史上に残るオデッサの虐殺のシーンが、社会主義中国の天安門において数倍の規模をもって実行されることを「目撃」しなければならない時代に生きている。 虐殺を希望に、蒙昧を光明に置き換えることのできる映画作家をもつことはせめてもの僥倖ではなかろうか。


 OTは自分の映画批評は軍隊内で明確に第一声を放ったと回想している。経理部見習士官として十代の兵士たちを引率し映画見物をしたあと訓示を与えたというのがそれである。
 充分に逆説的で、鬱屈し、不幸な出立だった、といえる。ネガティヴな形でしか出立を語れない(そのような欲求が生ずる)ことは了解しうる。書き手の「告白」を信じるとしての話だが。
 戦後は望まない形でやってきた。「終戦」は内地勤務の下士官にとって失業で
しかなかった。『大きな肉体と小さな精神』いうまでもなくOTの第一作であるが、ローマ字で書いてみたまえ、これも、OTである。初出は大島渚を心底、閉口させたといわれるかれの作品評のタイトルだった。
 戦後への不同意の基本的な姿勢はすべてここに語られている。――日本人民は真の政治的苦悩を負ったか、戦争も敗戦も天皇の名のもとにおけるものであり、人民に責任を自覚させるようなものではなかった。その故に、戦時下は本当の抵抗者を生まなかったし、大衆は不定型な信じ難い存在として温存された。 転向を論難する者は一つの特権に依っているだけであり、その特権に盲目である限り、見事な反戦映画が同時に猛烈な国策映画でもあるという事実を看破する政治的成熟から遠いのである。

 当時の戦後民主主義の主流とは明らかに異質であり、むしろ排除された潮流である。ここにOTの第一の孤独があった。近い位相にあるものは吉本隆明の初期の仕事――文学者の戦争責任論、転向論、民主主義文学陣営批判――だけだったと思える。吉本の強味(というか通俗性)は、『近代文学』派を否定的媒介として『新日本文学』派を撃つというコンテキストを明確にしていたこと、そして敵を花田清輝という個性に特定したことにあった。
 吉本は戦中派のルサンチマンに陶酔的に自己同一化することができたし、そこから概念を抽象語に実体化する糞力も兼備していた。かかる「主要打撃論」が戦後史のなかでいかに酸鼻な転落過程をもったかはまた別の事柄である。
 OTにとってはルサンチマンの自己解
放などは恥ずかしくてとれない作法だったろう。敗戦によってつくりだされた不幸は自己に対するアモルフな困惑と孤独だった。 自己の正体を明かすことができない。何より正体そのものがつかめない。告白とはそもそも演戯ではなかろうか。「小さな精神」の小ささ(自分のものであれ他人のものであれ)への徹底的なこだわり、それを他人の映画を論じることにおいて並べ立ててゆくこと、そうした戦術をとらざるをえなかった。
 方法は迂遠であり、何より映画批評という狭い窓口しかもっていない。市川崑を論じ、原作の借物の思想を自分の中で熟成したと指摘し、それを理解することのない批評にかこまれたかれの困惑の表情に注意を向けるとき、OTは借物によって自分の思想の成熟を語らざるをえない自身の術策の孤独を訴えていたのではないか。
 ここにOTの第二の方法的孤立があった。怨念を概念操作に上昇化させる論文が「普遍化」し、映画時評に断片化された真実がその形式ゆえに後代への接続手段を喪う。これは一つの逆説であるだろう。

 自画像の描き方。赤狩り時代のアメリカ映画を解析するOTの文体はまさに独壇場である。これほどまでにも、裏切りと転向と洗脳の個的な局面にこだわり、その積極面をえぐり出すことのできる才能への讃辞(もしくは当惑)が、一つにはOT伝説の形成だったと思える。
 言葉のゆるい意味でOTがモラリストであるとすれば、その真意は、伝達の受け手を正当にもたなかったのである。――《フロイドをしのぐといわれる鬼才小川徹の現実的イマジネーション批評》。これではまるでE.T.ではないか?

 もともと映画批評の欲求とは映画を前にしたとめどない饒舌が基本にあるものだろう。といって欲求の自然性を解放しうる者が素朴に優れた映画批評の書き手になりうるわけではない。
 たしかに裏目よみ批評とはこうした自然性をいったんは自己抑圧してみる術策なのである。この方法の文学的出自はほぼ特定できる。清輝の「群論」と三島の『仮面の告白』である。《魂は関係それ自身になり、肉体は物それ自身になり、心臓は犬にくれてやった私》――この花田の有名な表白は、やがて、「大きな肉体と小さな精神」といいかえられるに致ったのだ。
 モノ化した「自我」が映画によってゆっくり反応してくること、正体不明の自己と不完全芸術である映画が交感し言葉となって外化すること、それがOTの批評のメカニズムである。清輝の「映画的思考」の具体的な実践者はOTに他ならない。
 そして明らかにこれは「自我」にとっては「仮面の告白」いがいではなく、孤独に向かいあう不幸な余白は埋めきれないのである。いくら自然に語ってもそうであるしかない。


⑦-13映画芸術74.12.jpgIMG_0030.jpg
 私の知る限り、OTの仕事は戦後批評史の中に正当に位置付けられてはいない。脈絡が示されたことがないので余分にわかりにくいという事態は生ずる。
 八つ当たりめくがこれは、鶴見俊輔あたりが戦後思想史の見取り図をつくるさいにネグレクトした責任があるように思える。少なくとも政治的未成熟の反省から出発する点でOTは、『近代文学』派の延長上にあったし、かれらに戦後思想のベースセッターをみた鶴見にはその系統を丹念に跡付けてみせる責務があったのではないか。鶴見の吉本への世代的共感に較べるとこの欠落は、後代の眼からは、奇妙に映る。

 ここでもOTの不幸さは際立っていたというべきか。やがて七〇年が来た。
 三島と竜鳳が死んだ。極めて図式的にいう倨傲を許してもらえば、それによって、OTは政治批評の両翼を失ったのである。
 『三島由紀夫氏へのぼくらの仁義』(一九七一年二月)、『竜鳳さんの赤裸な生涯』(一九七一年六月)は、その意味で『映画芸術』の記念碑だった。
 わたしの覚束ない記憶ではそれ以降、佐藤重臣の『映画評論』松田政男らの『映画批評』との三派鼎立の時代が続いたのであり、中でも『映芸』は松田修のような得体の知れない国文学者からさえウサンクサゲにいわれていたほどに好みに合致し、とりわけOTを性映画の裏目よみの達人としての側面においてわたしは恩恵を引き出してきたようなのである。

『映画芸術』358号 1989年9月

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HilMips

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by HilMips (2018-04-14 01:33) 

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