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略奪された映画のために アフターヌーンテイク1 [AtBL再録2]

ブルガリア映画『略奪の大地』 略奪された映画のために アフターヌーンテイク1 


 映画について語ることは、いつもいくらかの痛みと自己憐愍を含んでいる。

 例えば『略奪の大地』、1988年、ブルガリア映画。リュドミル・スタイコフ監督、アントン・ドンチェフ原作、ラドスラフ・スパッソフ撮影。
 これほどまでに映画のもつ力能をみせつける歴史叙事詩が未知の国からおくられてくることはなかった。〈東欧民主化〉にいたる底の力をここに見い出す想いがする。

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 物語は十七世紀後半。オスマン・トルコ帝国の支配下にあったブルガリアの一村落に始まる。征服者は、ヨーロッパのイスラム化を強要し、より過酷な支配の環をせばめてくる。キリスト教の背教、イスラム教への改宗である。派遣されてきたのは、トルコ軍の精鋭ジャニサリー騎兵隊。将軍カライブラヒムは、長老を集め、十日間の期限をきって、改宗の命令を下す。
 将軍はしかしその土地の出身者に他ならなかったのである。帝国はキリスト教徒支配のための独特の人頭税システムを採用していた。支配下の村々から五歳から十歳までの少年を徴発し、その中の優れた者を選び、兵士にとりたてる。激しい訓練によってエリートのテロリスト部隊をつくりあげるのだ。そのシステムによって仕立てあげられた男の一人が将軍だった。
 生まれ育った故郷を、トルコ軍指揮官として蹂躙するために、かれは帰ってこねばならなかった。かれの記憶の中に絶えず、生まれ育った水車小屋の想い出がフラッシュ・バックされる。共に遊んだ兄弟同様のマノール、軍に徴発されていくかれに追いすがってくる母親……。
 何もかも奪われて、根こそぎにされ、今では帝国への忠誠のみが存在の証しである。侵略軍の殺人者。かれの名はカライブラヒム将軍(ヨシフ・サルチェジェフ)。

 幼いときの記憶と現在の任務との相克はかれを引き裂く。刺客として現われ、かれの顔に斬りつけた男はかれの弟ゴランだった。かれの顔面はその魂と同様、真っ二つに切り裂かれるのだが、そのナイフをふるったのも、数十年ぶりに再会したかれの弟なのだった。
 マノール(イヴァン・クリステフ)は、力自慢の羊飼いたちの頭目格になっていた。改宗に反抗する最も不退転の抵抗者である。かれは下の息子ミルチョに告げる。「もしトルコ軍がお前を徴発していくようなことがあったら、村の境の橋の上でふりかえれ。父がお前を一発で射ち殺してやろう。もし弾丸が当らなかったなら、当るまで立ち止って待つのだ。できるか、お前に?」。
 黙ってうなずく少年だった。

 五時間の大作を、外国向けに三時間足らずに縮少したものである。
 人物関係はいりくんでいてわかりにくいところがある。整理してみると。水車小屋のガルシコ爺さんの息子がゴラン、娘がエリッツァ。長男はカライブラヒム、幼くしてトルコ軍に連れ去られる。かれと一緒に育てられたマノールは預り子だった。マノールの息子、成人したほうがモムチル、幼いほうがミルチョ。
 ゴランが恋する未亡人セヴダはマノールに心を奪われている。モムチルが恋しているエリッツァをマノールは妻に選ぶ。弟も同然の男と息子と、どちらも恋仇であるという、マノールの苦悩もまた錯綜したものだ。
 かれは婚礼の儀式によって村人を一致団結させたいと考えたが、結果は裏目に出た。村人たちが祝福にくるまでに長い時間待たねばならなかった。そして村人たちが集ったときには後ろにトルコ軍騎兵が迫ってきていた。
 改宗前の祝い事など許さぬといって、兵士たちは婚礼の席を泥靴で踏みにじってしまう。男たちはすべて連行され、領主の館の地下室に監禁されてしまう。そして女たちは兵士たちの凌辱の餌食となるのである。


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 カライブラヒムは略奪した花嫁、自分の妹エリッツァに、またしても母の面影をみなければならなかった。
 マノールを改宗させるための道具として、エリッツァは釈放されるが、マノールはエリッツァに、モムチルと結婚し子を産みマノールと名付け、モムチルには将軍を殺せと伝えろ、と告げるのみだった。セヴダは、村人を助けるためと欺かれ、改宗してイスラムの女になるが、これも兵士たちの獣欲の餌食となり、殺される。
 セヴダの死によって、ゴランは単身決起し、将軍を襲うのである。さらし者にされたゴランの父親としてガルシコは名乗り出る。

 それは同時に、将軍との親子の対面でもあった。顔を二つに切られたカライブラヒムの前に出て、父親は「ストラヒン(それが息子の名前だったのだ)か、久しく会わなかったな」とあいさつする。
 「俺が直ぐわかったか」と問う息子に、「もちろんだ」
 何もかも奪われて、根こそぎにされ。しかし出自を消すことはできない。かれの名はカライブラヒム将軍。父親にいう恨み事はない。すでにそんなことは忘れた。帝国への忠誠だけがかれの存在の証しである。ただ、一つだけきいておきたい事は、あった。
 「あのとき、なぜマノールを選ばなかった。なぜ俺を選んだ?」
 「お前が実の息子だったからだ、ストラヒン」
 「では今度は俺がお前にそうしよう、ガルシコ」
 かれの言葉に激昂はない。ただ将軍としての任務があるだけだ。
 かれは非改宗のみせしめの死者に父親を選ぶ。実の親に手をかけることは戒律に反するとの忠告に、「かれは自殺するのだ」と冷然といい放つ。


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 カライブラヒムはミルチョの首をかけて遂にマノールを屈服させることに成功する。ターバンを被れという命令にいったんは服そうとしたマノールだったが、最後の一瞬に暴れ出し、兵士数人を道連れに殺されてしまう。一方、トルコ軍との戦闘で傷を負ったモムチルの身には賞金がかけられている。もはや逃げることもできず、かれは、弟ミルチョに、自分の首をもってカライブラヒムを殺しにいけと命ずるのだった。
 幼ななじみの男の息子の手によって、遂に侵略軍の将軍は刺し殺されたのである。かれの目には、もう自分のような兵士があとに生まれずに済む、といった安堵の色すらがあった。生まれ故郷を異教徒の手で蹂躙しにやってくる。自分のような獣が他にいるだろうか。

 略奪された大地とは、略奪された魂である。
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 かれはその心の中のように真っ二つに裂かれた顔の傷跡を残して死んでいくのだった。
 かれの顔を去来する、面影の母、故郷の水車小屋、あとは殺戮と侵略ばかりのような虚白と哀しみ。かれの悲劇は一個の性格悲劇であるのではない。

 「ミルチョを俺のような子供にするか、それとも殺すか」
 かれが血を吐くような言葉を口にするのはその一回だけである。あとは侵略者の虚脱した仮面がかれを支配している。

 ブルガリア、西からも東からも侵略者は来て、通過していった。
 歴史は改変できない。
 映画の豊かさだけがこれを一瞬、奪還してくる。
 ところでこうした映画についていったい、何が語られるべきなのだろうか。
 物語を追認すること。
 主人公の顔。ヨシフ・サルチェジェフの顔。なんという万感の刻み込まれた顔だろうか。ファースト・シーンからこれだ。ターバンを巻いた坊主頭。トルコ人の姿にブルガリア人の魂。
 ふりむいた哀しみのまなざし、胸につきささる、非改宗者には死を、の叫び。それを分析して語るために物語を追認すること。これに大半の言葉は費されてしまうのだったが……。

 映画について語ることは、いつもいくらかの痛みと自己憐潤を含んでいる。
 映画を愛することは映画を語ることではなかった。完璧に差違のある体験ではないけれど幸福な一致をみることのできる体験ではなかった。暗闇に身を投げ出しているそのものを本当に自分に所有できることがないように、愛するものを語ればたちまちその言葉は別のものになってしまった。所有するための言葉は対象を傷つけ、自分への憐みとして環流してくるのだった。
 気恥しい恋の堂々めぐりはいつも映画とのものだった。かつて幾度も暗闇で身体を交したはずだったが、いつも慣れることのできない未知の苦い自失を、映画は強要してくるのだった。

つづく
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StevSwitte

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by StevSwitte (2019-06-18 09:37) 

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