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リビング・OFF・東京・タイム 3 [afterAtBL]

つづき リビング・OFF・東京・タイム 3

 だが一体アジアとは何だろうか。
 ここまでアジアを自明の前提のように使ってきたが、この語は一体、確固とした内実を伝達しうるのか。
 ここに一つのテキストがある。
 プロフェッサー・グリフとLAD『ポーンズ・イン・ザ・ゲーム』
 長崎暢子、山内昌之編『現代アジア論の名著』(中公新書刊)。
 前者は黒人ラップ・シーン最大のパワフルなグループだったパブリック・エナミーの情報相P・グリフがグループを脱退してつくったファースト・アルバム。グリフはユダヤ人排斥の発言を機にしてパブリック・エナミーから除名された。パブリック・エナミーはグリフの脱退によって理論的支柱を喪ったという評価もある。
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 さてここに――
 ≪Bang! 俺はエイジアティックなゲットーの兵士だ≫
 というフレーズがみつけられる。ゲットーの叛乱者、ブラックマン――アフロ・アメリカンの自己主張に「エイジアティック・アジアにルーツをもつ」という自己認識が冠される。これは奇矯な例外的な発言なのか。それとも黒人大衆の深いアイデンティティに発するものなのか。わたしには充分に判断する根拠がない。
 確かにロス暴動における黒人大衆と韓国系アメリカ人の反目と衝突は目新しいトピックだった。アメリカの統治システムへの絶対的否認の直接行動を少数民族間の内部ゲバルトとすりかえる視点がマスレベルで歓迎されたことは想像に難くない。
 韓国人の店を襲えとラップで歌ったアイス・キューブはそのフレーズのみにおいて名を売ってしまった。だが真実がそんな表層にみつけられないことは自明だろう。

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 ゲットーはどこにでもある。アジアとアフリカはゲットーにおいて通底するのか。俺はアジアのゲットーの兵士と叫ぶアフリカン。あるいは単にそれは言葉の混乱によるのか政治思想の未熟によるのか(グリフは二枚目のアルバムでLADと手を切っている)。

 『現代アジア論の名著』の緒言にあるのも、さしあたってこうした概念の混乱という問題だ。
 ≪およそ、中国、インド、東南アジア、アラブ、中東諸国、旧ソ連の中央アジア諸国などを含んだ、一つのアジアという概念はいったい成立するのであろうか。アジアは、その基本に地理上の概念をもつ地域概念であることには間違いはないわけだが、地域概念といっても「文化圏」または「宗教圏」あるいは「行動圏」としての地域なのか、「利益圏」としての地域なのか、あるいは「政治圏」さらには「軍事圏(戦域)」としての地域なのか、問題はさまざまにある。アジアというあまりに広大な地域を一括りにすること自体、歴史的限定のなかに生きるわれわれの思想状況を語るものとなる≫


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 アジアは一つではない。混沌未分である。しかしヨーロッパでもアメリカでもアフリカでもオセアニアでもない。たんに地球上のそれ以外の地域をすべてアジアと呼ぶことが通念であるにしても――。一つにして混沌未分……。
 ここに紹介された書物の一端は、『知の帝国主義』『中国農業経済論』『チベット旅行記』『帝国主義下の台湾』『チョゴリと鎧』『タイ国――ひとつの稲作社会』『イスラム 思想と歴史』『ロシアとアジア草原』などである。

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 だがこうした一筋縄ではいかない混沌に立ち往生することが目的ではなかった。われわれは自らの歴史的限界において、歴史的概念としてのアジアを自らの根拠を問う形で明らかにしておかねばならないだろう。少なくともわが近代においてアジアは一つであった。一つならざるアジアではなかった。植民地と本国とは一つであった。われわれは大東亜共栄圏の夢を生きたのであった。
 今日、アジア映画としてわれわれの散見する少なからぬ部分が、この夢と夢の残滓にかかわっている。われわれの歴史的健忘症はわが国民精神の美質であり、わが国家教育運営の健全性を証明するものかもしれない。
 帝国主義的侵略は近代化の不可避のコースであり、あるいはアジアナショナリズムの覚醒へ向けた必要悪だった、とする解釈は成り立つ。
 だが歴史の負性は未決済である。未決のままの忘却した国民はいかなる解釈も成立しない。ただ絶望的な無知に支配されるだけだ。

 アジア映画のテーマのいくつかはこの未決にかかわっている。だからこれをアジア人による「日本映画」として見ることは不当ではあるまい。正確にいえば、大日本帝国映画となるだろう。これが第三の方向である。
 たとえばここは帝国軍隊による惨殺や残虐行為は癒しえない傷である。映像化されることはごく自然の過程と思える。ところがこうした「外国映画」は必ず当該場面をカットした上でしか輸入されないという事実がある。ハードな検閲制度があって、一国内でそうした表現が許されていないのではない。ただ忘却の項目は表現が不可ということだけのことだ。
 だから未だ忘れていない外国人(しばしば旧植民地人であったりする)だけがそれを映像化する結果になる。忘れていないのではなく、正常な歴史知識が用意されているだけなのである。この国では歴史は外から教えられるものなのかもしれない。
 わたしがつねづね書いているように(あまり書きすぎるので地口になってしまったように)、結果的には日本国内にあっては帝国軍隊による残虐シーンと性器性毛の画面がいわば並列に、ハサミでカットされるという特殊形態が慣行となっているのである。
 こうした旧植民地人による日本映画としてのアジア映画を、『非情城市』『桑の葉』を例にみていくことにしよう。

つづく


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