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『罵讐雑言』渡邊文樹監督 [afterAtBL]

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 不愉快な映画だ。この不愉快さは何に因するものなのか、しばらく考えた。
 帰りの電車で一部、答えが出た。この作り手は「カメラを持った奥崎謙三」なのだな、と。『ゆきゆきて神軍』の主人公奥崎は、まがりなりにも一個の作品として客観性を持ちえていた。
 しかし『罵詈雑言』の脚本・監督者は自ら全能性を演じてしまっているので、客観的なフィルターを通さずにダイレクトなままの「自分自身=作品」を突出させるばかりなのだ。そしてその認知を観客に迫っている。

 この映画にあってはドキュメンタリもフィクションも垣根を取り払われている。ドキュメントの映像がどれだけ事実に沿っているのか判断できないし、ドラマの部分がどれだけ事実を包摂しているかも見てとれない。
 かといって一般的に、ジャンルの柵を超えた作品ということもできない。この作品だけの異様な条件においてのみ、ジャンルの境目がぶっ壊れているだけだから。

 作品の基調は、ある村の青年の変死がじつは集団による殺人であり、さらにもっとひどいことに、警察から役場ぐるみの共謀で事故死に偽装してしまった、という「真実」を暴くところにあるようだ。そしてその背景には、金権選挙と世界一の原発過密地帯にさらにさらに原発が開発されてくるほかない開発行政への告発があるようだ。
 「あるようだ」と2回書いたのは、本当はそうしたことはこの作り手にとってどうでもいいのではないかと思えるからだ。つまりかれは、事実を究明せよ、村社会の矛盾を直視せよ、とアピールしているような姿勢をみせているが、じつはそのことを通して「自らの作家性」を開拓し、豊富に実証したいだけなのかもしれない。

 例えばかれはカメラを持って現場に乗り込んでいく。「殺人の加担者」たちの「素顔」を裸に剥く。突撃レポーターそのままに。カメラの暴力だと訴える被写体者に、「いや、こういうショットを切開することこそ自分の任務だ」と主張する。この種の場面がどこまでドキュメンタリの水準に耐ええるのかは疑問だが、かれが突撃レポーターと違っている一点は、まぎれもなくカメラの暴力性を確信犯として駆使しているところだ。
 そしてそれを楽しんでいる。事実究明よりも、それを手段に使って自らを「報道の独裁者」として敵意の渦のなかに投げ込むのだ。
 そうした創作法が自覚的に選ばれているのだからして、不愉快な映像であるのは当然の結果だろうか。
 だとすれば、あらかじめ批評を拒絶している質の作品だとこちらも納得するほかないようだ。

『ミュージックマガジン』1996.6   

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