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あるいは映画を観ることの彼方に 6 [afterAtBL]

映画とは別の仕方で、あるいは映画を観ることの彼方に ドゥシャン・マカヴェイエフ論6


 最後に付け加えることはあるだろうか。
 例えば『マニフェスト』について。一つの政治的寓話を解釈してみること。テロリズムとエロチシズムの哄笑にみちた寓話を。
 それは必要であるだろうか。
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 一九二〇年、中欧。新しい権力が打ち樹てられ、新しい政府が機能し始める。それでもアイスクリームは売れていた、と。映画はそうして始まる。
 これがバルカンの一王国の話でないと考えるほうがむずかしい。片田舎を走る列車は橋にさしかかる。名家の令嬢スヴェトラーナは故郷に戻ってくる。王を暗殺するテロリストの任務をもって。彼女は実行者である教師に銃を渡す役目である。同じ列車に乗って保安警察長アヴアンティもやってくる。
 警察署長は教師を逮捕し、馬に乗った旧権力者の銅像を破壊する。ところが上半身だけ壊されたその像にモデルをまたがらせて、いかがわしい写真を撮っている写真屋がいる。教師はサナトリウムに送られ、永久運動の牢獄にぶちこまれる。ローターの内部を走り続けていれば、その装置も永久に回り続けているのだ。 令嬢が家に戻った夜中、執事がかつての体の関係の修復を迫って忍び込んでくる。言葉では拒否しても体は拒めない女だった。その窓辺を、令嬢に恋慕する郵便局員が、熱いまなざしを送るのだった。令嬢はパンに隠して銃を教師に渡すのだが。

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 教師リリーは子供たちを俗悪なものから遠去けようとする堅物。ところが遠足に出かけた森では写真屋がモデルと熱くなっているし。王の警護任務も忘れた保安警察長がアイスクリーム売りの少女を金でものにしたところ。子供たちは覗き見に大喜びだが、リリーは激怒してアヴァンティを縛り上げてしまう。そこに王の一行が来合わすのだった。
 逆に捕ったのはリリーで、これもサナトリウムに送られる。続いて、テロリストの洗脳装置にいたく興味を示す王がここを訪れる。どの説明を受けても痴呆のように笑っている王。ここが暗殺の決行場所になるはずだった。だが銃を渡されていた教師はすでに転向していて、永久運動装置の中を「前進!前進!アバンティ・アバンティ」と叫んで走りつづけるのみだ。それを見て更に笑いころげる王である。

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 夜は令嬢邸での歓迎パーティ。スヴェトラーナは決行が不発に終わったことを知り、代わりの方法をとろうとするが。執事また現れて色を迫る。
 危急存亡、しかしかれは転んで頭を打ってあえない最期を遂げる。繊鍛にくるんで死体を隠したのと王の一行が部屋に入ってくるのと同時だった。決行の機会は去り、途方に暮れる令嬢。窓辺に現れたのは郵便局長、長年の想いのたけを打ち明けるときだった。

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 二人は激しく燃え……庭でもいたるところで性の饗宴が。もちろんアヴァンティも令嬢の母とねんごろにやっていた。それを映している写真屋。
 そのショットを横切って郵便局長が執事の死体をかついでいく。情事のあとに処理を押しつけられたのだ。しかし橋まで運んで死体を落すときに、自分も一緒に落下、純情男はあえなく絶命してしまう。

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 リリーはサナトリウムを脱出。教師も救おうとするが、かれは永遠の牢獄から出ることを拒否する。
 一夜明けて、何事もなかったように列車は町を離れ。その客室には再び令嬢と保安警察長の姿が。そして銃を手にし、今やテロリストの意志を体現したリリーが列車の屋根を走り、二人に迫る。

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 窓から逆さ向けに顔を出し、銃声一発。暗転して映画は終わる。

 片想いの純情男は令嬢に二十七通の手紙を書いたと告白するのだが、この数字は、マカヴェイエフが自分の長編第一作を語ったときそこには二十七種の灰色が描かれていると誇った数と一致するし、果してしからば、かれは祖国への渇望の想いを二十七回訴えたのかもしれず、あるいは単純にかれが企画をあたためて実現しなかった無念のフィルムがその数だけ、かれの胸に墓碑銘のように刻まれてあったのか。


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 この寓話において、猥雑に暴れまわるすべての人物が、自分の意図については挫折しているのである。ことごとくすべて、一人の例外もなく。

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 王は暗殺されず――じっさいの事件は一九三四年のことだ――河も橋も列車も、永遠の待機主義を映すようにも、悠々と画面を横切っている。
 解体前夜の祖国に、作家はどんなマニフェストをおくったのか?
 いや、もはやそうした裏目読みはすまい。
 性も政治も、自在に読み解くためには、われわれはあまりに弱い民族だ。性においても政治においてもあまりに弱い。性も政治もこの国にあっては不徹底なボカシの彼方にあるのではないか。


 これを書くにあたり『イメージ・フォーラム』1989年4月号「マカヴィエフあるいはヘンタイ映画の起源」――ダゲレオ出版、および『マカヴィエフ・フィルム・コレクション』リーフレット――コムストック、を参考にした。
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同時代批評16号   1994.1


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