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『サム・ペキンパー』ガーナー・シモンズ 書評 [afterAtBL]

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 サム・“ザ・マン"・ペキンパーとでも呼びたかった男が死んで十年以上が経つ。

  ジェイムズ・クラムリーの新作『明日なき二人』を読んでいたら、ペキンパーをモデルにしたとしか思えないアル中おやじの映画監督が出てきて、何とも泣かせるような活躍をする。ページを閉じて思った。
 ペキンパーの晩年の作品『キラー・エリート』や『コンボイ』や『バイオレント・サタデー』を観ては、ずいぶんと憤慨したものだが、もう二度とあの三本の悪口はいうまい。いってはいけないのだ、と。

  本書は十六年前に出版されたオリジナルに、翻訳版のための特別のエピローグを加えて成り立った日本語版である。「モンタージュによる肖像」と原タイトルにあるように、ペキンパー自身を含めた関係者の証言によって構成された、ペキンパー映画のレポートだ。

  映画についての本といちばん似ているものがあるとすれば、それは、完成していない作品のラッシュ・フィルムではないだろうか。どちらにも、拭い去りがたい哀しみの表情が、そのどこかに無防備に、ラフなタッチで映し出されているはずだ。ペキンパーの場合、哀しみには憤りも重なっているのだが。

  個人的な感想をいえば、ペキンパー本に浮き彫りにされた作家の実像は、どうしても好きになれない厭味な男のポートレートばかりだ。厭味なやつが素敵な映画を撮ったのだと思っても、にわかには納得できない。その理由について深く考えたことはなかった。
  『ワイルドバンチ』は十五回以上観たし、『ケーブル・ホーグのバラード』『ジュニア・ボナー』も好きだ。
  昨年、『ワイルドバンチ』のディレクターズ・カット公開のさいに、三十分のメイキング・フィルムを観ることができた。人よりも余分にこの監督の作品に付き合ってきたとは、自信をもっていえるだろう。愛憎半ばするファン心理みたいなもので、ペキンパーの実像に嫌悪感を抱くのだろうか。いやいや、そんなに上等なことではなくて、単純に厭味な男だと思えて仕方がなかったのだ。そう気づくと何か当惑めいた感情にとらわれて、立ち止まってしまう。

  この本を読んで、『ビリー・ザ・キッド』撮影時の面白いエピソードを見つけた。出演したボブ・ディランには、出番のシナリオがまったく用意されていなかったのだという。ディランのテーマ・ミュージックをさんざん罵倒している証言が入っているが、その狭量な不公正さも、また興味を引く記録になっている。あのレコードはずいぶんとよく聴いたものだが、なぜディランが出演したのか、さっぱりわからなかった。
 永遠の謎のように、また、ディランの歌詞の一部のように、わからないままだったが、この本によって少しは了解がついたところがある。
  エイリアス(仮面)という役名で出ていたディランは、まるきり自分の地のまま、あの映画に迷いこむように出演していたのだとわかった。
  ジェイムズ・コバーンの保安官が酒場に入っていくシーンがあった。テーブルの席にすわっているディラン。
 さもうさんくさげにコバーンは質問する。
 「お前は何者だ?」
 ディランは答える。
 「そいつはいい質問だ」
 答えて、居場所を失ったようにドギマギする。シーンもセリフも何か意味不明で、逆に印象に残っていた。あれは演出なしの、まるで生のセッティングを、フィルムに収めた場面だったのだ。
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  もう一つ、ビリーの葬列のシーンを撮るためにクルーが、朝の日の出の五分間だけのシャッター・チャンスを狙っていたときのエピソード。ディランとハリー・ディーン・スタントン(名バイプレーヤーというべきだが、『パリ‐テキサス』では主役を演じた)が、シーンをぶち壊してしまった。ペキンパーは二万五千ドルを損したと怒り狂ったが、事の重大さをぜんぜん理解できないディランは、それならコンサートをやって損害を返そう、と答えたらしい。

  ペキンパーのような男に、生き残り組がしてやれることは、ただ一つだ。証言を公平にそして広範に集めて、言葉を捧げてやることだけだ。この本の著者のように。
  けれどもロバート・エヴァンスの『くたばれ! ハリウッド』などを読むと、べつのスポットライトが当てられることになる。バイプレーヤーとしてのペキンパーの顔が出てきて面白い。
 辣腕プロデューサー、エヴァンスの妻だったアリ・マックグローが夫を捨て、共演者のスティーヴ・マックイーンといっしょになってしまったのは、ペキンパー映画『ゲッタウェイ』の撮影時のことだった。エヴァンスの躁病的な回顧録に登場すると、帝王のような監督も、主演俳優たちの映画の筋書き以上に危険な恋の道行きにすっかり当惑している間抜けおやじにしかみえないのだ。

  本書によれば、ペキンパーは『北国の帝王』を撮りたかったが、実現しなかった。『ゲッタウェイ』を撮ることを条件に、『北国の帝王』の製作権を保証したのは他ならぬエヴァンスだった。……とエピソードは無限のリングのように絡まり合ってくる。
 こうして映画は語られる。映画フィルムの別テイク、NG場面の記録のように、あるいは、見果てぬ夢に歯噛みする憤りのように、映画という神話に関わった者らの秘められた<歴史>が目の当りにされるのである。
 『ワイルドバンチ』のメイキング映画は、残念ながら、期待したほどの内容ではなかった。
 フィルムは不滅だ。そこにひれ伏すのは言葉だけで充分かもしれない。

 『論座』1998.12
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