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都市・マイノリティ・犯罪 2 [afterAtBL]

都市・マイノリティ・犯罪 2

つづき
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 しかし『ジャッキー・ブラウン』は、まず原作の選択で安易な方向に逸れていったと思える。とはいっても原作『ラム・パンチ』はエルモア・レナード作品のなかで最悪のレベルに属するものではない。気になることは別にある。ここでは、クライム・ノヴェルの妙味――ようするに人がレナード作品に求める並みの期待だ――よりも、人物の心情の観察に重みが与えられている。犯罪によってピンポン玉が打たれる様を見せるよりも、玉を受け取った人物、打ちかえす人物の表情に、作者の興味が移っている。アクションよりも、コン・ゲームよりも、人情劇だ。前作の『ゲット・ショーティ』(これも映画化されている)などは、債権取立屋がいっぱいくわされた話をしていると、相手はそれを新作映画の筋書きと勘違いして大金をはたいて買い取ろうといいだす。そんなところから転がっていくコン・ゲームのドライヴ感が、なんともいえずおかしかった。人物たちは互いに相手を出し抜こうと必死だから、自分たちの人生の足元などは見つめない。見つめる余裕なんかない。
 ところが『ラム・パンチ』の人物たちが主要にやることといえば、己れの越し方を振り返ることばかりなのだ。話の眼目も、現金運搬人が荷物をすりかえて現金をくすねとる、というだけの単純なもの。ウラをかいたらオモテのウラのまたウラがあって、とかいう意外な展開は用意されていない。ウラは一回かけば終わり。さして頭も使わないような計略で大金をふところにし、引っかかる一方のやつが間抜けにみえて仕方のないプロットだ。プロットの熟成に欠け、代わりにあるのが、中年のアウトローの敗者復活戦というわかりやすい人情のドラマなのだ。どちらに力点があろうと、あとは好みの問題でもある。これもまたレナード・タッチといって差し支えないだろうが、これのみをレナード節と呼ぶのは、やはり勘違いではあるまいか。

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 『ジャッキー・ブラウン』は、敗者復活戦をともに闘う中年スチュワーデスの役を、黒人のヒロインに置き換えただけで、プロットは原作をほぼ忠実にたどり、この人情ドラマを前面に押し出した。パム・グリアと『110番街交差点』の曲がアクロスするシーン――勝ち残った彼女がカーステレオから流れるウーマックの歌声にシャウトするクローズ・ショット――はラストに置かれていて、さすがにここは感動ものである。はたしてここまでは単なるフロクにすぎなかったのかと粛然とするほどに感動する。言葉を変えれば、ここにいたるまでのヒロインの位置が、つまりヒロインに捧げる作者のオマージュの定点が、いっこうに決まっていなかったのだ。ラストに近いショットになって初めてやっと、おお、これはパム一人だけのために捧げられた、あとは何にもいらないという贅沢きわまりないプライヴェート・フィルムだったのかと納得するのだ。それまでは納得しかねていたのである。
 暴力を排した「大人の映画」とか好意的な受け入れられ方もしただろう。そうした鑑賞にとくに反対するいわれもない。肝心なことは、映画の多くのシーンでヒロインの存在が居心地悪く浮いてしまっていたということだ。しかしながら、レナード原作の映画で成功したものが少ないというのも定説であるし、レナードを崇拝するタランティーノが、この映画によってようやくレナード・タッチをフィルムに移し代えることに「初めて」成功したという説も、むやみには退けられない。レナードの会話のファジーさを映画に収めることにタランティーノはさほど苦労していない。それはもともと、タランティーノのシナリオ作法にレナードからの影響が強いのだから、さして驚くこともないだろう。レナードがペン一本で描いてみせる「外れ者の世界」によって、タランティーノのクライム映画の外枠ができあがってきたのだから、である。けれども、そうであるほどいっそうパム・グリアの存在が物語から浮いてしまうのだ。それはとりもなおさず、ブラックスプロイテーション・クイーンの肖像が、レナードが、またタランティーノが得意とするアウトロー世界には収まりきらないことを告げている。
 ではないのか。
 彼女は、もっと陰影がなく、下品で、直截的で、暴力的なエロスを発するだけの存在だったのだ。アフロ・ヘアに両刃のカミソリをしのばせて女同士の決闘にのぞむコフィ、妹を廃人にした麻薬組織に一人立ち向かってショットガンをぶっぱなすコフィ、銃を持った黒いオナペット……。

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 コフィほど、レナードのクライム・ストーリーに似合わない存在はいないのだ。
 パム・グリアは十年前に、スティーヴン・セガールの『刑事ニコ 法の死角』に準主演級で出ている。良心派アクションスター、セガール刑事の相棒役で、セリフは少ないがけっこう目立つ役柄だった。かつてのBSクイーンからの転身を印象づけるが、後続する作品がない。その後、癌で余命一年半を宣告されたとかいう話も書かれているが、『ジャッキー・ブラウン』公開にさいして発表された経歴(おもに雑誌の記事だが)はどうも不正確に思えるので困る。

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 こちらも正確に調べはつかないのだが、次の出演作は『ホットシティ』(九六年製作、劇場未公開、九七年一月ビデオ発売、原タイトル『オリジナル・ギャングスター』――なんとアイス‐Tの第四アルバムと同じ題だ)になる。これはまさに真の敗者復活戦を愚直なほどに描いた作品だ。ブラック・ムーヴィの短い歴史が、黒い暴力と黒いセックスをそれ自体としてのみ「黒い仮面」として商品化させられるという屈辱を含みながらも、九十年代の黒人自身による表現として全面開花してきた過程に必然的に(?)生まれた不可思議な作品である。早い話が人物を黒人に置き換えただけの典型的な「現代やくざ映画」なのだが、不可思議というのは、ストーリーそのものが黒人映画の総体にたいして非常に自己言及的な構造を持っているからである。自己言及的というのは、かつてのブラック・アクション時代のスターたちがおよそ四半世紀ぶりに一同に会して出演しているからである。しかもかれらの役柄は、二十年ぶりに戻ってきた故郷で悪辣な稼業を営むギャングたちを実力でたたきだす元ギャングスターなのだ。年のせいでなまってしまった体力を嘆きながらも、あこぎなまねをする新興のギャングたちに対決するセリフもおなじみのものだ。――おれたちの時代にはこんな汚いマネはしなかった。カタギに迷惑かけちゃいけねえ……。
 主演は、パムの他に、フレッド・ウイリアムソン、ジム・ブラウン、ポール・ウインフィールド、そして黒いジャガーことリチャード・ラウンドツリー。すべてブラック・マッチョ時代の往年のアクション・スターである。東映映画でいえば、鶴田浩二、若山富三郎、菅原文太、高倉健、藤純子のオールスター・キャストの復活のようなもんだ。かれらが二十年ぶりに荒廃した故郷の街に帰ってくる、これが『ホットシティ』の物語なのだ。かれらマッチョマンたちは少し老けてしまったことを除けば、まったくかつてと変わりのないヒーローだ。ありえなかった時代の残像によって現代の混迷を撃つという空想性が、この物語の基底にはある。帰ってきたヒーローの居場所は真実そこにしかないだろう。老いたヒーローによるアクション場面が辛いのと同様に、この映画の自己言及的な構造は辛い。
 パム・グリアの役がここでは唯一光っている。元のギャングスターのオリジナル・メンバーだが、遠いむかし恋人はどこかに去っていき、残された一人息子を新興ギャングに殺されてしまう。復讐戦の強い動機は彼女ひとりのものだ。強い母としてあると同時に、再結成された同志たちのなかでは「弱い女」(あの時代の風潮そのままに)として扱われる。事実、再会した恋人の冷たさをなじるときの彼女はもろに「弱さ」をまとわされている。強さと弱さを両面に備えたパムの役柄は、帰ってきたマッチョ・オジサンというどこか牧歌的なお話の身勝手さを一点で救っている。『ホットシティ』こそ、商売人がいい気なオダをあげているだけのクイーンの復活などまやかしだと告げている、真の復活をメッセージした作品なのである。

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 さいごに、別面から、「帰ってきたヒーローたち」が現代の荒廃を成敗するという『ホットシティ』の脳天気なドラマ構造を考えておきたい。かつてのアクション・スターたちが物語で体現する「オリジナル・ギャングスター」とは、いったい何者なのかという問題だ。原型としてのやくざ映画を考えれば、かれらの存在は抽象的な正義にすぎない。大衆的なヒーロー像とでもしておけば間違いない。しかしアメリカの都市黒人において、二十数年前に在ったマッチョ・ヒーローの像は絶対に抽象に帰すことのできない存在だろう。かれらは過去からの亡者ではない。現実の歴史につながるということだ。現実の歴史につながって、かれらが「自衛のためのブラック・パンサー党」と呼ばれていた集団を呼び戻しているのだと理解することは、それほど困難ではない。ブラック・コミュニティを自衛し、子供たちを麻薬から守り、女たちを暴力から守り、男たちにブラックマンの尊厳を与える集団――アメリカ社会がもはや永遠に失ってしまった理想だと思える。こうした理不尽な夢をブラック・シネマの多くが内包していることを否定する者はだれもいないと思える。マリオ・ヴァン・ピーブルズの『パンサー』は生真面目だが、息の詰まる映画だ。たぶんそうした理不尽な夢のありかについて想像力を持たずには、アフリカン・アメリカンの創造について、映画であれ、音楽であれ、人は何も語るべきではないだろう。

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 いうまでもなくこの数十年にわたるアフリカ系アメリカ人の歴史の総体を一望に見渡すことはにわかには可能ではないし、刻みつけられてきた墓碑銘と希望とをきれいに図示することも難しい。タランティーノふうの離れ業、つまりポストモダニストの常套手段である「つまみぐい」(ディコンストラクション )は、商業的にはびこるばかりでなく創造的にも正当の護符をも与えられるようだ。

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 都市・マイノリティ・犯罪の三本のみちすじは、これらの実体的な商業性とまやかしの創造性によって、ますます不分明なものになるだろうか。いや、あえて注目するまでもなく、これ以上には考えられないほど歴史は不分明にぼやかされ騙られている、というべきだ。しかし塵芥のなかにも必ず、逆に歴史の電撃的な射照を明らかにする或る暴力的な証しのかけらが、どんなところにあっても必ず、必ずや埋められているはずなのである。

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 それに言葉を捧げねばならない。

『聚珍版』1999夏
 


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