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ピンクより愛をこめて [映画VIDEO日誌2004-06]

  藤井謙二郎監督・撮影・編集『ピンクリボン』
 インタビュー出演 若松孝二、渡辺護、足立正生、黒沢清、女池充 etc
 同映画プレスシートの一部を抜粋して、内容紹介に代える。pink.jpg


 この映画はピンク映画の歴史と現在を築いてきたプロデューサー、監督、俳優、配給・興行関係者へのインタビュー、そして新たにそこにチャレンジしてくる若い人たちの姿をとおして、彼らの「情熱と知恵」を探り、記録したものです。

■“ピンク映画"とは?
 数百万という低予算、平均3日程度の短製作日数という厳しい条件で製作される、東映、東宝、松竹、大映、日活というメジャー会社以外の独立系の会社が製作した成人向けの商業映画の総称。“カラミ"の回数など制約はあるものの、監督が比較的自由に撮れるため、数々の優れた映画作家を輩出している。

 1962年にピンク映画第一号といわれる小林悟監督『肉体の市場』が公開されてから、60年代半ばには若松孝二、小川欽也、渡辺護、足立正生らがデビュー。年間製作本数が200本を越え、急速にマーケットが拡大した。

 1971年、日活ロマンポルノ(註)がスタート。高橋伴明、井筒和幸がデビューしたのもこの頃。

 1980年には大阪で第一回ピンクリボン賞が開催(第一回監督賞は渡辺護監督が受賞)。滝田洋二郎、黒沢清、周防正行らがデビュー。80年代後半には家庭用のビデオデッキと共にアダルトビデオが普及し、1988年、日活ロマンポルノが終駕を迎えた。このピンク混迷期にデビューを飾ったのが、ピンク四天王と呼ばれる佐藤寿保、サトウトシキ、瀬々敬久、佐野和宏。

 1990年代以降、男優の池島ゆたかが監督デビュー。後にピンク七福神と呼ばれる今岡信治・上野俊哉・榎本敏郎・鎌田義孝・坂本礼・田尻裕司・女池充の七名、国沢実、女優の吉行由実など、ピンク映画界のニューカマーが続々と監督デビュー。

 今では情報誌にも掲載されなくなってしまったピンク映画ではあるが、こうしてたくましくも生き延び、現在でも年間約90本の新作が製作、公開されている。それは低予算、短製作日数、しかも35mmフィルムによる撮影という過酷な製作状況が生んだ膨大なノウハウの蓄積の賜物と言えるだろう。
 
 (註)日活ロマンポルノ・・メジャーの映画会社、日活が経営に行き詰まった打開策としてスタ一トさせたもので、いわば一つのブランド名のようなもの。

 まだピンクは健在なのか。いささか失礼な好奇心が初めにあった。

 はるか何年もむかしに観客席からリタイアしてしまった人間としては、「ピンク映画40年史」みたいな包括的なアプローチを、自然とこの映画に期待したのかもしれない。
 この種のドキュメントに必要なのは、対象への献身的な愛惜と周到・精密な知識だ。
 しかし68年生まれの作り手に、そうした思い入れを過度に要求するのは筋違いというものだろう。
 ここにあるのは、ピンクという異物に体当たりしていった映画青年の極私的な驚きと覚醒の記録だ。
 それがピンク映画史と微妙にすれ違っていくのは当然だった。

 むしろその隔絶こそがこの映画の価値だろう。
 しかしインタビュー発言者たちの対話をチャット感覚でつないで構成するいくつかの「強引な」箇所には違和感が残った。
 ピンクの現場の生き証人たちが一同に会するフィルム。それはおそらく夢想のなかでしか実現するまい。
 総合的なピンク映画史はいずれ書かれるはずだが、これはその貴重な二次的資料となると思われる。

 やはり若松孝二渡辺護。この対照的な作風を持つ二人のピンクの巨匠のパーツが圧倒的に濃い。
 若松という人は、カメラを前にするととたんに千両役者になる。根っからの映画人なのだろう。
 足立正生は若松の引き立て役に徹している。
 あるいは作り手には足立が何者かという認識が基本的に欠落していたのか。

 考えてみれば、映像ブランキスト若松が60年代末に発信した猛々しい挑発を、その時代に身をおかずして感得することなど土台、不可能なのではないか。
 高度成長社会から取り残された下層大衆のルサンチマン、性的失業者の混沌たる情欲――若松映画が体現したメッセージの数かずは、もはや今の時代には翻案不可能な身体言語ではないかと思える。

 犯せ。女どもをレイプしろ。

 単純明快な若松の雄たけびは、造反有理の社会的情念の深部へと破壊的なヴァイブレーションを起こしていった。
 低予算と劣悪な労働条件のもとの映画製作は、大衆の怨念を作り手たちに転位させたのかもしれない。
 他に行き所のなかった才能を結集させたという点では、若松は辣腕の製作プロデューサーという一面も併せ持つ。
 ピンクが時代の代弁者だったとしても、それを主要に支持した層はあまりにも流動的だったし、作り手たちの生活を安定させる経済的基盤すら不安定そのものだった。
 だが「彼ら」が何者だったかは語り伝えられねばならない。ぜひとも語り伝えられねばならない。

 ただ『ピンクリボン』の作者が作品の基調を託しているインタビュー出演者は、(当然に、というか)若松でも渡辺でも、ましてや足立でもなく、「ピンクの異端児」としてキャリアを開始したゴダーリスト黒沢清であるようだ。
 黒沢の屈折したポーズと語り口に作者は共感を寄せているふうにみえるが、そういったスタンスこそ、じつはピンク初期の瞑い暗いエネルギーの理解とはもっとも遠い知性的解釈ではないかと思える。

 古典的階級史観がとうに破産した現状でこうしたことを指摘するのは、もはや妄言にすぎないだろう。
 性映画ゲリラたちのデスペレートな闘争は、日活ロマンポルノ裁判で一つの分岐点をつくり、若松が映像スターリニスト大島渚と組んだセックス・フィルム『愛のコリーダ』裁判によって終結したといえよう。
 ――などという局地的な整理すらも映画史には刻まれていない。

 その意味で、さまざまな型破りの才能によってこの「特殊・畸形」の映画製作現場が支えられ、成り立ってきたという、可もなく不可もない結論に『ピンクリボン』が落ち着いたことはきわめて妥当なのかもしれない。

2005.03 記


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