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Gone is the Romance that was so Divine [AtBL再録2]

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 映画はどこへ行くのか。

 《どこの国の人間だということを問題にするなら、自分は、映画国の市民だ》と、ジャン・ルノワールは言ったという。問題にするまでもなく日本国の人間であるわたしは、映画国などという存在を信じられないし、ましてや市民でもない。
 しかし日本に(というより首都東京に、と限定した上で)生息して、外国映画(に限定しなくてもよいが)を観るといった体験が、ますます、ルノワール的な状況になってきていることは、市民でない者にも充分に理解できる。
 早い話が、六本本のさる劇場――あのゴダールを目玉商品にこけら落としにして出現したデパート資本によるあれではないほう――で、『危険な年』を観ていると、ジントニックに入れる氷の個数をゲンミツに指定するイギリス人が出てきたところで、まわりに四割はいた〈毛唐共〉が爆笑するから、一体、何のギャグかわからずに面妖な気分になったり、また、歌舞伎町の中のハンバーガーを席で喰おうとすると従業員がとんできて取り上げてゆく劇場で、『ダイナー』を観ていると、ミッキー・ロークが映画館――なつかしの『サマープレイス』を上映していたね――でデイトした女の子にポップコーンのカップに突き入れた自分のチンポを握らせようとするところで、数人の〈毛唐の女共〉が「ミッキー!」と喚声をあげるから、一体なに者かこの人種は、と考えこんでしまったり……と、そんな遭遇がかなり増えてきているのだ。

 わたしはこうした環境において精一杯、「排外主我者」であろうと思う。ジョージ・オーウェルの「ニュースピーク」の一九八四年、やたらカタカナばかりの外国映画タイトルがオールド・タイマーたちを嘆かわせたわけだが、一方では、『女高生日記・乙女の祈り』などのタイトルが『女○生日記――』に改変されているという、風俗営業法改悪の余波を、誰が本気で取り上げただろうか。
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 映画国のブールヴァールには、一大消費ネットワーク資本と大新聞資本が結託した「有楽町マリオン」などという多目的ビルの屹立する風景が良く似合う。そんな年だった。そして同じマルチ情報操作資本が、「映画界の良心を消すな的名作」を「採算を度外視」して上映し続ける(アリバイのための)拠点小劇場を点在させて、この大通りを守備する陣型をつくるであろう。もちろんこうした拠点小劇場には、近郊ベッドタウン・ターミナルの市場を主導するスーパーをも多目的文化システムエ場に組み込んでゆこうとする戦略の実験場たる性格が、第二に付与されている。
 ここに、変貌する都市空間の中の映画環境の問題だけをみ、日本資本主義の必死の延命――第三次産業の未開拓領域に猛烈なイマジネーションの触手を伸ばしてゆくエネルギー備蓄の総力――をみない者は、たんに映画を観すぎたエポケーのポケーッとした恍惚状態にはまってしまっただけである。つまり――。

 資本は交通路を引き、そのあとに家を建てる。「家」は、内装はともかく、骨格的には、電気製品並みの耐久年数が確定的に算定されるようでは、商品たりえない。新らしい「商品」が、多少とも消費者の需要に応じたかのような幻想を付加された上で、たえまなく与え続けられねばならない。どうしても国内に少しばかりでも市場が開拓される必要があるのだから。――それが資本の側から要請された「映画環境の変容」の内実でなければならない。
 当然の結果として、いわゆる名画座、自前のシネマテークの存命が困難になってくる。ごく最近も、韓国映画『風吹く良き日』、台湾映画『坊やの人形』などを最後に、鈴なり壱番館が閉館されたように――。
 名画座は、テレヴィやヴィデオによって、最終的には灯りを消されることだろう。これは時代の流れなんかではなくて、くどいようだが、文化戦略の転換によって引き起こされた当然すぎる末路なのである。これに強いられて、観ることが変容させられてゆく、と捉えるだけでは充分ではない。
 映画体験の諸側面――批評する回路から作り手による製作過程までも含めて――が、変容させられてきているのだ。
 要するに、西武資本による作品プロデュースがすでに実現(その作家なり作品なりに具体的な論難を向けているのではない)していることに、製作―配給-宣伝-上映、という一貫したシステムが環境を規定するだろう未来の形を、はっきりと見ることができるわけである。ここでは、シネマテークと映画を作ることは一致していたというヌーヴェル・ヴァーグ派の見事なかまえは、ネガティブに簒奪されるのだ。こうした環境に生きる作家の困難性はかつてない不可視なレヴェルにあるだろう。

 このような「映画国」がやはり企業国家ジャパン・アズ・ナンバー・ワンのしみったれたアニマル面をしていることは否定できない。風営法改悪に呼応した一人の在日トルコ人――そう言えば、『ハッカリの季節』というトルコ映画日本初公開だかの作品が本年はあった――が、決起して、「トルコ」の通称を撤廃させる。何というミエミエの手口だろうか。新名称は、浮世風呂になるのか、泡雪サロンになるのか、個室浴場になるのか、知らないがどうせなら、「女○生」や「女子○生」と同じに、看板に伏せ字――ト○コ――を使ったほうがよい。それが一九八四年ではないか。
 こんな場処では、わたしは、不退転の「排外主義者」である他ない。

 映画という、かつてあまりにも神々しかったロマンスは去ってしまったのか

 だから、わたしにとっては、トリュフォーの死も、タルコフスキイの亡命も、さして興味をひく事件ではなかった。今になって『ノスタルジア』のいいわけがましさが納得できもする次第だが、一体、タルコフスキイ映画は祖国との緊張を失ってどこへ行くのか、やはりヨーロッパ映画になりおおせてゆくか。
 なるほど、映画国・目抜き通りの国際市場には、今年も、韓国・アフリカ・イタリア・スペイン・フランス・ポーランドなどなどの、多少まとまった映画祭形式のものが盛況だったし、なかでも「ブニュエル全集」のような特異なものから、「ソビエト映画の全貌パート2」や「ドイツ映画大回顧展」のような長期の規模のものまで、映画を選択し観歩くことの市民的自由はこの上もなく満喫できたようなのだ。
 そこで、ブニュエルの遺作『欲望のあいまいな対象』には心底まいった、何回見てもすごい――なんてことをおちょぼ口で喋りまくる市民的自由も、もし望むなら、可能でないこともないだろう。

 むろん、映画国大通りのソフトな管理社会化におびえる一非市民のペシミズムなどは、このように簡単に、一個の具体的な作品に相対することによって吹き飛ばされてしまうものである。これほどに映画国の市民(非市民ではあっても)とは、善良なのである。これ以上の善良さは考えつかないほど善良なのである。
 いっておくが、ブニュエルの遺作は、かれという得体のしれない途方もない天才が半世紀の作品活動の末期に作りえた稀有の傑作である。すごいのが当り前だから、ふつうの作品を見続けている限りでは、ペシミズムの歯止めはどこにもない。

 右記の外国映画フェスティバル実行の点でも少なからぬ役割りを果した情報誌が、デパート資本と結託し、情報消費をコンピューター・システムに囲い込む戦略を打ち出してくる。読者が、情報誌の情報を選別し解体構築するのではなく、より露骨に、読者が情報誌の情報網によって選別され、ディコンストラクションされるという事態が、加速的に進行してくるだろう。
 これをニュー・メディアとただ名付けることで充分なのかどうかわからない。
 ME革命が消費の現場をもシステマティックな管理状態に糾合してゆこうとする。こうなれば映画批評は無用化する。「情報」であればよいのだ。
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 例えば四方田犬彦は書いている。
  《今日の韓国映画を支えているのは、ソウルという都市をいくえにも包みこんでいる昂揚とした雰囲気である。八○年代にいたって文教部による検閲統制が緩和されたことも、なるほど第三の黄金時代の一因であるかもしれない。ともかく韓国という国は活火山がプツプツと噴火を続けているような様子で、ヤたらめっぽう元気がいいのだ。
 一本の作品が評判になるや、ただちに劇場の周囲に行列が生じ、上映中にフィルムが途切れると声が飛ぶ。本篇上映に先立って、観客全員が起立して、スクリーンに流れる国歌に耳を傾ける。街角という街角は古いのや新しいのや、映画のポスターでいっぱいだ。韓国映画の興隆がこのまま続けば、それはメランコリックな選良意識に満ちたニュー・ジャーマン・シネマではなく、陽気で奇想天外な多様性を特徴とするイタリア映画に似たジャンルとして発展することだろう。
 韓国の大学生に告ぐ。早い者勝ちだ。君たちはただちにソウルにタウン誌を作りたまえ!》

(「韓国映画のヌーヴェル・ヴァーグ」、『シティロード』一九八四年六月号・二十一ページ)

 これは典型的な情報のニュー言語であり、そして、なおかつ、どぎつく政治的な言葉である、といえる。最終行のはしゃぎぶりは中上健次にじつに相似である。
 四方田も参加していたスタジオ200主催(協力――大韓民国大使館、韓国映画人協会、韓国文化院)の現代韓国映画特集の、第三回が、全斗煥来日、首都戒厳令化体制のあおりで二カ月延期になる前の発言であるから、かれが、韓国の学生たちが全-中曾根による「日韓新次元」への抗議行動を英雄的に闘っていた事実(この国には報道されなかったのだが)を知らなかったことを糾弾することはできないかもしれない。しかしなんというカマトトぶりだ。こ
うした人物に対しては、韓国映画上映に韓国大使館が協力している事態と、ドイツ映画上映にルフトハンザ航空やドイツ外務省が協力している事態は、全くレベルの道うことなのだという、ごく初歩的な説明からかからねばならないのだろうか。わたしは暗澹としてくる。

 ソウルに留学し、おそらく日本人として、最も多く最近の韓国映画を見ているこの蓮見教授門下の優等生に対して、それはあまりにも失礼ないいがかりではないだろうか。それに、国内的な消費市場開拓への狂奔に正確に呼応したところの、日韓新次元の高度な政治劇が果たすだろう文化侵略のヌーヴェル・ヴァーグについて、わたしごときがかれに向って指摘するまでもないことかと思う。
 従って、わたしは前記引用部分について、四方田の自主的な修正、もしくは自己批判を善意に待つことにしたい。
 三ヵ月くらいは待ってやってもよろしい。四方田クン、キミは『映画芸術』誌上で《オレはこう見えてもスカーフェイスだ。どっからでもかかってきやがれ》と酔っぱらって怒鳴っておったが、わたしも、寛容な人間である。三ヵ月待って、反省の色がない場合は、改めて、キミに、韓日文化ロビーイストの称号を贈ろう。キミの役割りは中上の映画版であるのみだ。わたしのテキは中上以外ではなく、四方田ていどの秀才面(スカーフェイス)を相手にする気などないから、あとはどうか心安らかでいたまえ。
 一九四〇年前後の朝鮮ブームが皇民化政策の前景であったことはよく識られている。また再びの「韓国」ブームに、歴史の過酷な茶番を見ない者は、その存在自体が茶番なのだ、というべきである。
 一九八四年外国映画総括は、帝国帝都戒厳令下の歴史的和解――忘却――の一事を捨象しては成立しないし、それが国内的には帝国都市改造の劇場再編成に如実に象徴されてきたということを見逃がすことはできない。
 かくて映画は去りぬ。
 かくて……。

「日本読書新聞」1984年12月24日号


【後記】
 この小文を第十二面に載せた『日本読書新聞』はこの号をもって歴史を閉じた。
 そのことを予測してつけたタイトルではない。内容にしてもそうであり、一九八
四年の映画状況の一局面に関するものでしかない。
 にもかかわらず歴史文書の形を呈してしまったことによって、ずいぶん以降の書き物の姿勢を規定されたように思う。

怨恨の明確な対象――ブニュエル試論3 [AtBL再録2]

つづき


 男が翻弄されるという局面が肝要であり、二人の女優が一人の女を演じるという実験の効果もここに関わっているだろう。観客としては、男に貞淑に訴えるコンチータ、男に無償の愛を捧げようとするコンチータ、男を淫乱にまどわすコンチータ、男を小気味よく拒絶するコンチータ、各々のゆらめくような変容に従って、キャロル・ブーケがふりむけばアンヘラ・モリーナになり、アンヘラ・モリーナが別室に入るとしばらくしてキャロル・ブーケがそこから出てくるという輪舞のような転換に酔わされるのである。

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 振り返る女の像が戦慄的だとは、この映画が、観客に対して力づくで納得させようとすることでもある。
 一人の女が同時に乱反射するように多数の女であるということが、映像的にこれほどまでに図々しく、あたかも不変の真理のように、定着された例をわたしは知らない。一人の女が一瞬たりとも一つの人格に統一された個体ではありえないという、多分、恋こがれる男に課せられる受容のマクシムが、まことにブニュエルの面目躍如たる堂々のあつかましさで定着されるとき、わたしもとりあえず、この初老のブルジョアジーの無様な得恋に一体化してしまう他ないのである。
 これこそオールド・シュールレアリストの遺作たるにふさわしい大胆不敵の完成ではないか。征服の対象となった女がどこまでも敵階級(もしくは敵対党派)に属する一種の不可触存在であるとは、ゴダールの好んだテーマでもあったが、ブニュエルの主人公は徹底して作者からは乾いた視点で処理されている。

 さて、ブルジョアジーは語り終った。どれくらい汽車は走ったのだろうか、客室のコンパートメントは好奇心を満たされた人々で華やいでいる。――と、そこへ現われるのは勿論コンチータである、バケツー杯の水をもって。
 ずぶ濡れの返礼に加えて、またしても、和解があったのだろう、パリに着いた列車から降りてくるのは、仲良く腕を組んだ二人である。

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 そして前述の、血だらけの白い下着を縫い合せるシーンになる。ショーウインドの
中で一人の女が、麻の頭陀袋から次々と白い下着を取り出してくると、やがて血に汚れた裂けた下着が出てくる。この袋は幾度、観客の目の前をよぎったことだろう。
 最初は全く行きずりの通行人にかつがれて、主人公たちの傍らを横切ってゆく。あげくは、主人公の男によって何の関連もなく肩にかつがれたりするのである
(かれがベンチに置いてあった袋をかついでコンチータと散策する後ろ姿のシーンは、全くの思いつきで付け加えられたのだ、と作者は明らかにしている。ブニュエルはかついでいるのとかついでいないのと二種類を撮影して、前者を採ったという。無関連の挿入という方法論は全くのシュールレアリスムの自由の獲得の成功シーンとしてのみ、分析家よクソ喰らえと毒付くブニュエルの欲求通りに、来讃されるべきではない)。

 その意味が疑いようもなく明らかになるのはこのラストに至ってである。爆弾と想像するにしては軽々しそうだったこの袋の中味からは、テロリストの未必の闘争と闘志の証しであるような血染めに裂けた白い衣類が出て来たのであるから。この頭陀袋もまたヨーロッパを横断したのだ。

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 革命と戦争の世紀を、蓮実重彦流に言えば《人並みの越境者として越境するのだが、閾を跨ぎ異質な環境へと移行することによって、いかなる意味での眩暈も、快楽も、痛みも体験したりはせず、スペインではスペイン映画を、フランスではフランス映画を、メキシコではメキシコ映画を、ごく当然のこととして撮り続け》、いわば軽々とブニュエルは越境してのけた。
 かれは、フランス、スペイン、メキシコ、スペイン、フランスと(もしそういいたいのならヨーロッパから第三世界をまたにかけて)数多の作家たちが才能を遮断されまたは生身の生命を奪われて、飛び越え得なかった境界〈ボーダー〉を、自在に作品へと従属させてしまった。
 かれにして、あの眼の中を刃物が両断するシーンを相補するように、あるいは一層豊富に修正するように、忘れ難い衝撃的なシーンを作ったのである。
 かれはただ作品を作ることによってのみ、自分を追放した祖国に帰還できたのであり、復権できたのであるだろうが、依然としてヨーロッパは変わりなく呪詛の対象であり、パリの五月もかれにとってはかつての青春の回顧に向かわせる程度のものでしかなかったからして、依然として、やはり、そうだ、多少ともエレンブルクの『トラストDE』のようにも、アンビヴァレンツなヨーロッパヘの愛惜を語る他なかったようである。
 断じてヨーロッパ人であり、そのように自己を最終的に閉じていったのである。かかる越境者に「眩暈も、快楽も、痛みも」余計なものかもしれないが、恐怖と怨恨は確実に身近かにある。それを頭陀袋をかつぐかれの主人公のように背負って、ブニュエルの亡命の二十世紀はあったのだ。

 ショーウインドから離れてゆく二人、コンチータは――あるいはキャロル・ブーケであるいはアンヘラ・モリーナでめまぐるしく――男の手を邪剣に振り払う。そこにまたしても爆弾。

 映画は夢幻に無限の追跡物語(女を追いかけるが所有できず、テロに追いかけられるが仕止められもせず)が、かれにとっては悪夢さながら終らないことを暗示して、いったんは幕を閉じる。

「同時代批評」12号、1984年11月


怨恨の明確な対象――ブニュエル試論2 [AtBL再録2]

つづき

 とにもかくにも『欲望のあいまいな対象』は、或るブルジョアジーの愛の物語であり、同時に、かれのテロリズムヘのおびえという形を借りたそれへの距離の測定だった。
 開巻、車に乗り込んで行先を命じた銀行家が、その自動車ごと爆破されるシーンである。これは実に理路整然とした必然的に用意されたオープニングである。単にラストにも爆発のシーンがあるからという構成的な問題ではなく、この銀行家に扮するのが、ブニュエル映画のヨーロッパ凱旋を決定付けたフランス人プロデューサー、セルジュ・シルベルマンであったという意味で、こうある他ない幕間けなのである。何故なら、これはテロリズムにおびえるブルジョアジーがいつも間一髪のところでその難から逃れる(と同時並行にいつも性欲の昇華からも逃げられているのであるが)逆ピカレスクの映画なのであるから。
 たえず主人公の身辺ではかれを追いたてるように爆弾テロがあり、かれでないかれの同類が犠牲に供されてゆく。具体的にはこれは、七〇年代の街頭闘争の一つの形が、作者の意識に投げかけた一つの影であり、表出としてはあくまで折り目正しくアンドレ・ブルトンにのっとったシュールレアリスティックなテロリズム行為なのである。
 無差別に標的とされるのはあくまで折り目正しくブルジョアジーであってブルジョアジーのみでなくてはならない。このテーゼこそが二〇年代という薄命の青春においてシュールレアリストのモラルを支えていたのであり、それは群衆に向って無差別に引き金を引く自由でも、群衆の真只中において自分の頭蓋に一発打ち込む自由でもない、やはり限定された目的化された錯乱でなければならなかった。

 ――爆発から逃がれた主人公は、一人の女からも逃がれるために、セビリアでの生活を清算して、パリ行きの列車に乗り込むのである。かれを追ってくる一人の女がいる。痣だらけの顔に絆創膏、このまま去ってしまうなんてひどいとかなんとかいう間もあらばこそ、男はバケツー杯の水を女の頭から浴びせかける。彼女が恋物語の相手コンチータ(ブニュエルの妹と一緒の名である)。
 すでに、一人の女を二人の女優(キャロル・ブーケアンヘラ・モリーナ)が演じ、それを別の一人の女優の声で統一して吹き替える、という話題性がこの映画に関しては常に語られる。彼女の性格は、月並みに言えば夜は処女のように昼は淫婦のようにといった類いで、十七歳の女によって初老のブルジョア男が魂と金を吸い上げられるのだ。単純化すれば二重人格の女を外的な印象もはなはだしく違う二人の女優が演じるわけで、この多面性が何より滑稽で、翻弄される面白さなのである。

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 さて、バケツー杯の水の別れ方は、列車の物見高い乗客たちの好奇心を著しくくすぐるところとなったので、かれは破恋の物語を、ヨーロッパを逃亡的なベクトルで横断する列車の中で、語らされる破目になる。破恋とは、男の一方の側だけのものであることを、映画の観客は、水だらけになったコンチータが列車に乗り込んだ場面を見たあとなので、知らされている。映画の語り口の進行はこうしてオーソドックスなのであるが、この一つの逃亡行でもあるような列車の進行という二重構造は看過されてはならない。

 コンチータはいつも偶然の作用のように男の前に現われ、突然何の予告もなく消えてゆく、本当に消えるのではなく、再び偶然の直撃のように出現するために――。最初はパリ。母親と同居するアパートにせっせと通い詰めて金を貢ぐ。金を出すと母親は遣り手婆のように席を外すので、意を果そうとするが、いつもいつも欲望を待機させられる。
 邸にむかえようとするが、大金を積んで先に母親と話をつけた手順に幻滅した、自分は金で買われる女ではない、とコンチータは消えてしまうのである。次に現われた時、男はやっと彼女を別荘――その近辺ではテロリストの銃撃戦が頻発している――に招くまでに進む。ようやく二人は寝台に横たわるのであるが、男の焦燥の指は、彼女の革の貞操帯の上を空しくすべるのみだった。
 別荘の、こうした夜が幾晩か続き、女は傍らに寝るという以上の欲望の充足を許さないのだが、一方では、自室にギター弾きの青年を連れ込みさえしている。怒りに燃えた男は二人を叩き出し、この恋路をもはやこれまでと絶望するのである。
 空ろな胸の男が旅路に傷心を癒そうとし、コンチータが国外退去(理由は明確にされないのだが『ブルジョアジーの秘かな愉しみ』の主人公をつけねらうテロリストの女が当然に連想されてくる)となっていて、再び外国で、出会うことは当然の展開である。
 フラメンコ・ダンサーとして生活している彼女が、一途な愛に「忘れ難い君の面影」的せりふと貞淑な一面を見せると、それだけでもう男はすべてを許してしまう。睦まじく語らう二人に、時間を告げる声がかけられ、コンチータはダンスの合い間に仮眠する時間をとっておかなければならないのだ、と説明して階上へのぼってゆく。
 幸福の余韻にひたって彼女を待っている旅行者の紳士に、どんな仮眠なのか一度確かめてきたらいい、という半ば嘲弄の耳うちがされ、男はそのキャバレーの怪しげな階上にのぼってゆく。――と、そこは別にしつらえたストリップの舞台で、今の今、貞操を誓ったばかりの女が真っ裸のフラメンコを観光客(ほとんど日本人だったね!)の前で踊っているところを、男は発見せねばならなかったのだ。
 再び失意と幻滅と裏切られた傷があり、再び、女の手練手管の弁舌が重ねられ、いつのまにか男は、コンチータのために家を買い与えているのである。それも権利書付きで。長い道のりを、ようやく自分のものになったと、女を征服しようとすると、彼女は明日の真夜中に訪ねてくれるなら全部あなたの女になると予告する。
 またしても予告。

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 その時刻に男を待っていたのは、鍵のかかった戸口で、また現われたギター男と痴態を見せつけて、さんざんにかれを罵倒するコンチータなのだった。それでいて次の朝、わざわざ釈明をきかせ、真の愛があることを訴えるのもコンチータだった。男の反応がもうゲバルトにしかなかったことは致し方なく、女の顔を傷だらけにしたあげく神の呪いをぶちまけて、セビリア発パリ行の列車にとびのってゆくのであった。
 ――以上が、かれが列車の中で同乗の客に向って語る話の大要である。

つづく


怨恨の明確な対象――ブニュエル試論 1 [AtBL再録2]

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 ランボオの《眼の中を太陽が彷徨う》とはヨーロッパ共同体の世紀末につきつけられた呪詛であったかもしれない。
 『アンダルシアの犬』(1928年)の映画史上あまりにも有名な、満月を鋭利な薄雲が横切るように「眼の中をかみそりが両断する」シーンは、今世紀の年若い希望にみちたシュールレアリストであったルイス・ブニュエルを捉えた同様の呪詛であったように思える。
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 それほどまでにブニュエルの遺作『欲望のあいまいな対象』(1977年)の例の、きわめつきの血だらけのレースの白い下着が縫いつくろわれるシーンの、この映画自体に対してもつばかりでなく、「処女作に向って出発する」的なブニュエル全作品に対してもつ強烈な完結的説得性の衝撃と感動は、あまりに震撼的なものだった。
 ほとんど身ぶるいするようにわたしはこのシーンにうたれねばならなかった。作者自身が次のように強調するほどである。
 《最後のシーン――血にまみれたレースの白い下着の破れ目を、女の手がそうっと取りつくろう(それがわたしの撮影した最後のショットとなった)――には、なぜだか自分ではいえないが、感動した。結末の爆発に先立って、そのシーンは永遠に謎めいたままなのだろうから。

 しかし本当に謎めいたままなのだろうか。ブニュエルには必要以上に自作を謎めかせて神秘化する悪癖があるので、ここでも同じ語り口があるにすぎない。このシーンに対して明確な説明を回避することは許されない。

 『欲望のあいまいな対象』は一人の初老のブルジョアジーを捉えた過酷な愛の物語(対象との性行為を成就できない)という滑稽なピカレスクを基調にしながら、かのブルジョアジーがテロルの影におびえてヨーロッパを転々する一種の〈亡命〉物語という隠されたテーマを持っている。
 なるほど前作『ブルジョアジーの秘かな愉しみ』(1972年)は、有閑階級の一グループが共に食事することを成就できないという一層滑稽な話だったが、二作に共通した主役を演じたブニュエル映画の看板役者フェルナンド・レイの某国大使が、常にテロにおびえて食欲のかたまりだったことも思い出されるだろう。
 今度は性欲のかたまりであって、『欲望のあいまいな対象』は、この背中にはりついたかのような恐怖感が更に頻繁に強調されてきたのである。ある一つの行為を禁じられることと、それに付随する恐怖や混乱とは、多くの場合、ブニュエル映画の共通テーマであると、一般的には通有しているようだ。
 例えば、もう少し先立った作品『皆殺しの天使』(1962年)の有閑集団が、夜会の広間から外へ出ることができなくなってしまうように。
 ここから、ブルジョアジーはその欲望から疎外されてあるべきだ、という無遠慮な批判的テーゼを取り出してくることは至極簡単である。しかしそれでは一体なにも批判することになりはしない。

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 たしかに『欲望のあいまいな対象』の欲望にうちふるえて、挑むたびに拒まれ、そしていやが上にも燃えて更に挑むが、もっと手ひどく拒まれ、遂にはなりふりまわず啜り泣いてしまう男の姿に、快哉を叫ぶことも自由である。これほどまでに性欲の昇華作用について困窮するブルジョアジーを見ることは胸のすくことかもしれないからである。
 しかしそうした単純構造のブルジョア批判ならば、例えば向井寛の『東京ディープスロート夫人』(1975年)あたりで、充分に代行できるのである。そうであるかぎり、ブニュエルのいくつかのシーンは謎めいているし、謎めいたままに放置して「素晴らしい」とかの評価に輝かせる他はないのである。

 この批判され嘲笑されるべき対象が、常に同時に何者かの影におびえているという二重性の規定のうちに現われてくるとしたら、自ずと評価は変わる筈ではないか。追われおびえるというイメージは何なのか。
 ここで、スペイン・ファシスト政権から壮絶なスキャンダルと共に追われ、十数年を無為に浪費したあと、とりあえずメキシコ映画市場に亡命の拠点を降ろさざるをえなかった作家自身の軌跡について連関付けてくるべきなのか。それもまた単純にすぎる解釈であるだろう。第一、作者の視点が全く主人公のそれに一致しているわけでもない。主人公の視点に関していえば、ただおびえ怖れる他の反応の幅を持たないのである。

 ここに読み取るべきものは、七〇年代の革命的暴力主義に対するオールド・シュールレアリスト(今だオールド・マルキストとの牧歌的結合を可能にしていたような二〇年代の遺物)からの、幾分、弱々しいそして的外れの反対論であるだろう。1968年『銀河』の撮影途上、ブニュエルは、パリで、あの五月革命に遭遇する。
 薄命に終った「五月」に、ブニュエルが、かつての運動を重ね合わせて、今現在起りつつある運動への評価軸をもつことは、致し方あるまい。じっさいに五月は街頭に突如シュールレアリスムの実験が現出した側面ももっていたからである。だがその側面のみで「五月革命」が片付けられるわけもないだろう。
 学生たちの敗北に向って、スキャンダルも行動も不能な時代になってきたと嘆くブニュエルは、ただのノスタル輩に過ぎない。
 ――《真摯な精神と饒舌があり、同時に、大混乱の到来だった。だれもがてんでに小さなカンテラをさげて、自分の革命をさがしていた。わたしは胸にこう言い続けていた。「これがメキシコでの出来事なら、二時間で万事終りだぞ。死者が二、三百人は出るはずだ!」》。
 可能性はテロリズムしかないだろうとかれは続ける。それも、《かれらの青春の言葉》と注釈をつけた上で、ブルトンの『シュールレアリズム第一宣言』の復権を求める、といった発想である。例の、最高のシュールレアリスト的行為の単純さとは、拳銃を手に街頭に出て無差別に群衆に向ってぶっぱなすことだというテーゼを、である。

 わたしがいいたいのは、つまり、ブニュエルは、若い世代の革命的行動に柔軟な理解を示すよりも、かつての自分の青春の絶対性を尺度にして気むずかしい裁定をした、ということなのである。同情はあったかもしれないが、しかしそれ以上に、異物として対したのである。そして七〇年代の街頭闘争は、またしても、ブニュエルが望ましいと思ったふうには決して展開されなかった。政治闘争としてのテロリズムを、かれは理解しなかったか、あるいは理解することを拒んだ。
 何よりもテロリズムは政治闘争の一手段であることから遠く離れているべきだとかれは要求したのである。かれの映画の主人公が、あまり大した根拠もなく、テロルの影におびえるのは、以上のような過程から理由付けられるだろう。
 そうしたテーマは多分、『銀河』の撮影中に、それの進行を妨げられるふうに、五月革命に出会ったことから直接には出てきたと思われるのである。『ブルジョアジーの秘かな愉しみ』の、何度か挿入される、どこまでも食べることを邪魔されるグループが何の連関もなく道路を歩いているシーンは、多分に『銀河』からの借用である。

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 『銀河』は信仰にも無神論にも辿り着けない現代の巡礼物語(ブニュエル的宇宙の猥雑と哄笑であることはいうまでもない)だったはずだが、そこに異物としての(少しは思い入れる余地もあった)「五月」が介入してきたのである。
 『銀河』自体は、作者自身のスペインにおける中世修道院的少年時代への限りない愛惜によって際立つ作品にとどまっているのだが、五月の痕跡は、『ブルジョアジーの秘かな愉しみ』を経て『欲望のあいまいな対象』に痛烈な達成を残すことになったようだ。

つづく


復員兵士の詩 [AtBL再録2]

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 『スカーフェイス』『キング・オブ・コメディ』『ストリート・オブ・ファイヤー』ブライアン・デ・パーママーチン・スコセッシウォルター・ヒル、登場して十年ほどになる四十代のアメリカ人作家たちの新作は、何れも、かれらが育った映画環境への狂的なノスタルジアに支えられつつ、暴力的なほどに現代の問題に関わってきている。

 『スカーフェイス』は隠れもなく『暗黒街の顔役』の半世紀ぶりのリメイクとして、ペン・ヘクトハワード・ホークスに捧げられている。しかし、キューバ・カストロ政権に放逐されてアメリカに流人してくるアウトロウをスナップ・ショットするタイトル・バック(ジョルジオ・モロダーの音楽も素晴しい)からして、これはまぎれもなく現在進行中のギャング映画であることを強烈に伝達してくる。これはデ・パーマの最高傑作だろう。

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 犯罪分子を流入させることによって隣接する帝国主義アメリカを擾乱するという、戦略的には正しいのだろうが、戦術的には若干どうかと思われるカストロ政策によって、棄民にされる新型移民の群れが主人公である。
 かれらの頭目であるアル・パチーノは会話のキイワードをおおかたファックで代用するタフガイなのだが、「俺は政治亡命者なんだ」と自己規定は正確なのである。

 パチーノのいつもながらのくさいオーバー・アクトにはこれくらいの役柄がよく似合ったものだ。かれは強制移住された社会にあって、そこでの成功というアメリカン・ドリームに支配されるアメリカ人なのである。
 かれはかれを放逐した政権が望んだようには帝国主義者を憎まず、その替りに、正当にもかれを放逐したコミュニスト政権を全身をもって憎んだ。他に見るべき傍役もおらず、三時間近いこの映画は、ひたすらパチーノの映画だった。かれの憎悪と成功への夢とファック・ユーの連発。そしてデ・パーマ主義の悪趣味〈ファック〉な色彩とモロダーの暗鬱きわまりない音楽(挿入されるディスコ・ミュージックではなく『エルビラとジーナのテーマ』)。

 ボスを倒し同時にボスの女を奪い、第一歩の夢の実現を果したパチーノが、World is your own.の気球(パン・アメリカン航空の広告である)を見上げるシーンは、この映画のすべてを凝縮したようでもあった。ガラス窓越しに見える邸内の一階には、自らも傷ついたパチーノが満足した表情で立っている、二階には身仕度している女の後ろ姿、空の上には気球、という遠景の構図である。

 わたしはこれまで、デ・パーマ主義のイマデルゾイマデルゾ式のサスペンス趣味にはかなり白らけていた口だったが、そして観る前にも、このヒッチコック・フリークが一体何ができるのだと期待半ばであったが、――とにかくこれは最高のデ・パーマ映画だ。これこそアメリカ映画(何ならアメリカ帝国――ファック――主義映画といおうか)だ。

 同じことをもっと興奮していいたいのが『ストリート・オブ・ファイヤー』だ。これははっきり、――『スカーフェイス』がディスコ時代のギャング映画であるのと同じく――ロックンロール時代の西部劇なのだ。
 冒頭、ロックンロール・クィーンのステージに乱入したストリート・ギャングが彼女をさらってゆく。現代のアウトロウはバイクにまたがって悪役ぶりを競演する。そして、一人のソルジャー・ボーイが街にふらりと戻ってきて、彼女の救出のために命を張るのは当然のことだ。男はいつも惚れた女のための気狂いピエロだ。
 ほとんど定石通りのプロットが用意されているから次の展開にとまどうことはない。むろん、かれは、アウトロウの拠点を襲撃し、神々しいまでのヒロインを救け出すのだ。……いつもどこかで見たことかあり、夢見たことがあるような情感であり、なつかしいようなシーンである。これは映画が観客に与えることのできる悦楽の一形態への一つの贅沢な見本であるのだろう。

 そして続いて、雨の中のラヴシーンや、夜明けの決闘や、身を引き裂かれるような訣れが、用意されていることも当然であるだろう。
 同じダイアン・レインが出ていたことで『アウトサイダー』、同じスタジオ撮影ということで『ワン・フロム・ザ・ハート』を、想起せずにはおれなかった。二つともコッポラ映画であるが、前者は要するにディヴィド・O・セルズニック映画『風と共に去りぬ』『白昼の決闘』もそうだったかな)で繰り返される夕陽けの彩りにふちどられて立ち尽す人物のシルエットで何かこうものすごく興奮してしまうパターン――ヘの、それだけへの、ノスタルジアなのだ。いやはや。
 まあ、互い、そういう映画環境に育ったのだから、とやかくいえないか。けれども、だから、ミリアスの『デリンジャー』やボグダノヴィチの『ラスト・ショー』でのホークス礼讃のナイーヴさを想い出して、『スカーフェイス』には感心してしまった次第なのだとでも、再度いっておこう。それにしても何というコッポラのノスタルジア垂れ流しだ。『ワン・フロム・ザ・ハート』というスタジオ撮影の人工的な、ロボット同志のとしかいえないような(主演がデブとブスだったので唯一救いの人間らしさがあったが)恋物語には、ほとほとあきれかえってしまった。

 フランシス・フォード・コッポラとはとてつもなく映画に関して無垢な人物なのだろう。『アポカリプス・ナウ』によって性格破産してしまった作家としては、幼児退行してゆく他ないのだろうか。巨匠の名による退行映画とは興味ある素材であるにしても、すすんで見たくないものである。『ワン・フロム・ザ・ハート』は、 ヴィデオ・テクノロジーとスタジオ・アートに無限の信頼を置いた(要するにヨダレクリになっちまったのだ)作家の実験意欲作であったことだった。
 コッポラおやじの「心の贈り物」などにはヘキエキしていたところが、あの『アウトサイダー』というセルズニック・シルエット映画なのだから。いやはや。
 どうやら私としては、コッポラの映画については、自伝的大作『ゴッドファーザー』を別にすれば、あの衝撃的デビュー作『グラマー西部を荒らす』“Tonight for sure !"だけを記憶に残しておけばよさそうだ。
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 『ストリート・オブ・ファイヤー』のスタジオ撮影が優れているのは、その夜の素晴しさである。いや、あの表現主義映画『ウォリアーズ』からのコンビ、アンドルー・ラズロのカメラが捉える夜の素晴しさである。かれらの映像は、青春を、決して明けることがない真夜中の物語として謳い上げる。夜は決して明けることがない特権的な時間であるからこそ夜なのだ。
 ウォルター・ヒルは、どこかでいつか見かけた場面からのみ構成して、どこでもないいつでもない場処での、ロック・オペラをつくってみせた。夜がこんなふうな夜であるとはこの映画(あるいは『ウォリアーズ』)を見るまで知らなかったことを告白せざるをえない。

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 映画の主人公が(マイケル・バレ――眼がいい)決闘にさいして云った言葉“Sorry,too Late.”は、こうした「アメリカ映画」をやっと作りえた監督のあいさつの言葉としても受け取れるわけだ。

 デ・パーマ、一九四〇年。ヒル、スコセッシ、一九四二年の生れである。
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 さて、それで、マーチン・スコセッシ、ロバート・デニーロの世にいう「パラノイア・コンビ」による『キング・オブ・コメディ』である。
 これは疑いもなくあの夢幻的なテロリストの物語『タクシー・ドライバー』のちょうど八年後の後日譚である。そしてそれ故、再び疑いもなくヴェトナム復員兵士の八年後の後日譚なのである。トラヴィス=デニーロ、二十六歳。あの不眠症のエロ映画マニア、大統領狙撃未遂犯人のモヒカン刈り、十五歳の娼婦を救助するために命を賭けた夢幻的ヒーロー。かれは八年後によみがえったのである。このように――。
 ルーパート・パプキン=デニーロ、三十四歳。一夜のコメディ王を、せめてそれだけを、夢見る男。

 かれ(トラヴィス=ルーパート)の夢は、すでに、コメディ王になりたいという夢だけに、一元化もしくは矮小化している。かれの夢は八年間の間にどんなにか擦り切れてしまったろうか。八年間の間にどんなにか磨滅してしまったろうか。復員兵士の詩はどんなにかその間に疲弊してしまったろうか。けんかの相手に対して本能的にマーシャル・アーツの型を身構えてしまうトラヴィスだったが。訓練された肉体も弛緩してしまった。
 名前も変わっ――ルーパート・パプキン(パチーノのファックと同じ位の回数、デニーロはその名を自己紹介として名乗った)――カボチャ男か? これがこのシンデレラ・ボーイの名前だ。こうしたヒーローを提出したスコセッシの屈折をこそ先ず受け止めねばなるまい。

 人はあるいは、デニーロのコメディヘの狂疾をもろに観て取ろうとするだろうか。そういえば、かれの最初期のロジャー・コーマン作品『血まみれ〈ブラディ〉ママ』の四人兄弟末弟のジャンキー役で、デニーロは、チャップリン・ウォークを数歩、歩いてそのまま倒れるという死に様を演じていたことではあった。
 だが今は、スコセッシの作品軌跡を辿ることにするほうがよかろう。
 例えば、デニーロにライザ・ミネリを配した『ニューヨーク・ニューヨーク』のような作品があるのだ。これには了解を絶するといういい方で対しておくほうがよいだろうか。かれのノスタルジアを許すまい、とはいうまい。――何だかややこしいか。
 スコセッシはそのようなナイーヴな作り手であることをも示したのである。その延長には『ラスト・ワルツ』がある。これは単なるコンサート映画であり、「ザ・バンド」とかれらの解散コンサートに集った人々を主人公とする映画であるともいえる。それは『ウッドストック』の助監督・編集を経験したかれにとって待望の音楽映画であるかもしれない。必ずしも作家の映画ではない、ともいえる。だが、これは明確に、スコセッシによる退役兵士の詩なのだ。それは明確なことである。

 ザ・バンド――ボブ・ディランのバック・バンドとして出発し、いつしかその通名よりも「ザ・バンド」と呼び慣わされる名誉を待ったグループ。かれらのリーダー、ロビー・ロバートソンは五十歳になってもロックを続けられるか? という疑問を解散理由に語っていた。そして、ツァーは人々を消耗させると強調して、オーティス・レディング、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックスなどの名を例示した。その言葉をもってかれらは解散の自己弁護とする。これは明確に、退役兵士の詩であり、それ以外の何物でもないのだ。かれらはロックという戦場から退役してゆくだけなのである。

 『タクシー・ドライバー』から『キング・オブ・コメディ』まで、この二本――『ニューヨーク・ニューヨーク』『ラスト・ワルツ』――に加えて、あの『レイジング・ブル』がはさまっている。
 『タクシー・ドライバー』のラストの謎めいたニヤニヤ笑いと、『レイジング・ブル』のシャドウ・ボクシング(画面には室内のみが映り、フンフンという息と空気を切る音だけが残ってくる)とは、同様の終り方だった。
 たとえていえば、ロジャー・コーマン作品『ビッグ・ボス』で、ペン・キャザラのアル・カポネがシルベスター・スタローンの子分にのしあがられながらも、まだまだ自分は退役はしないぞと、目だけを光らせていたラスト・シーンにも酷似していたこともある。

 そして復員兵士は帰ってくるのである。『キング・オブ・コメディ』に。
 ルーパート・パプキンという名前で。
 この男の存り様はすこぶる滑稽であるが、コメディアンとしての才能に関しては全くのところ心もとないようである。映画会社の営業を生業とする(多分)が、自分はコメディアンの天分があると思い込み、憧れの大スター(これがジェリー・ルイスである)に熱狂的な売り込み作戦を展開する。妄想狂のかれの部屋には、等身大のライザ・ミネリ、ジェリー・ルイス及び沢山の観客たちのパネルが置いてある。かれの日課は、そこにくつろいで、パネルのかれらと対等の会話を楽しむことである。
 そこではかれは王様なのだ。芸人としての尊敬に恵まれた王様なのだ。しかしこれが客観的にはかれの一人言に過ぎないから、そこに母親の叱り声――ルーパート、いいかげんになさい! と。これが大変なマザー・コンプレックスの男。そのたびに、かれは哀願の表情になって、一声「マーム!」と叫び返す。俺の芸術をどうして理解しないのか、と。――これがかれのコメディ修行であり、日常の様態である。

 八年前のタクシー・ドライバーにはまがりなりにも孤独な肉体の修練があった。今、このカボチャ男には何かあるのか。夢、夢、である。かれの妄想は、喜劇王ジェリー・ルイスを誘拐して、その持ち番組を乗っ取る計画にまで拡ってゆく。
 そしてまんまと成功までしてしまうのである。「一夜だけのキングでもいい!」はこの映画の謳い文句でもあった。しかしこれにとどまらず、一夜だけのキングというアメリカ的成功は、かれが誘拐犯として何年かの服役を経ても、変わらぬ恒久的な成功に結果する。刑務所では自伝を執筆し、それがベストセラーを続けている間に出獄してきて、そのまま人気芸人の晴れ舞台にすべりこんでゆく。かれは妄想の中の人物と一体化することができたのである。

 これは果してハッピイ・エンドといえるものだろうか。
 あまりにもいじましい夢にとらわれた復員兵士が、あまりにもいじましい成功を得たにすぎないのではないか。かれに成功を与えるほうが、そのほうが、より苛酷な解答といえるのではないか。いやかれがその夢を獲ち得るか、それとも転落してしまうのかは、どうでもよいことではないか、すでに。
 ただ八年後の復員兵士の「夢と現実」がことほどさように救いようのないものであることを確認すれば充分である。そのようにスコセッシは、五〇年代の往年のスラップスティック・コメディアン、ジェリー・ルイスを起用することによって、ノスタルジアに傾きつつも、現在の課題の先鋭な水位に突き出てきた。

 それを見届け得たところで、アメリカ映画の最前線が大まか一望のもとに了解されることであろう。わたしに関していえば――。
 ルイスが一人ホテルの部屋に帰ってテレビを付けると、いきなりギャング役のリチャード・ウイドマークが現われる。ほんの一瞬だったので、あれが、『ノックは無用』の場面だったか、『拾った女』の場面だったか、いまだわたしは想い出せないでいる。それが心残りである。

 

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 心残りといえば、サム・ペキンパー『コンボイ』以来、八年ぶりに作った『バイオレント・サタデイ』を(原作も読んでいないし)見そこねている。『コンボイ』のあまりのくだらなさに、わたしはペキンパーとエンを切ったが、他ならぬ作者自身が実作とエンを切っていたとは、うかつにも知らなかったのだ。心残りがたまって、またの機会としよう。

「映画芸術」349号、1984年8月


一九八四年の情事OL [AtBL再録2]

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 ジョージ・オーウェルのアンチ・ユートピアにおける新語法ではないが、一九八四年、エロ映画の看板から「女高生」「女子大生」「OL」「団地妻」とうの女性職業名が消えた。だから、社会主義者オーウェルを論じることは人様にまかせて、わたしは、是非とも、情事OLの下半身地獄〈アンチ・ユートピア〉についてだけ、少なくとも一九八四年は、語って通過したいと考えるのだ。

 この国のエロ映画が自主規制の権力上位の一貫性において観客を抑圧し続けてきたことは自明なのだが、こうした環境(これはハスミ的用語法であろうか)においてすら、映画内自己表現を追い求める人たちの試行錯誤はあるし、それによってかろうじて今日のエロ映画の水準が支えられていることも、また自明なのだ。これは全く逆説的な、インテリゲンチャ好みに言えばジョージ・オーウェル的な、わたし好みに言えば情事OL的な事態なのである。
 今日、どんなに阿呆な観客でもエロ映画館に行けば女性の局部が見られるなどとは思わないわけだし、実際(その倍の金を出せば「実物」をおがめるばかりでなくジャンケンに勝ては「本番〈ソノモノ〉」まで出来るのだが)そこでは、当局が局部と指定する局部は見ることが出来ず、故にしたがって当局が指定しないところの「局部」ばかり目について、例えば朝吹ケイトがパンティを脱いだ(脱がされた)時のゴムのくいこんだ跡とか虫刺されの点々とか肌のぶつぶつとか、そーゆーものばかり見えて、哀しくも虚しく怒りに燃えてしまうようなエロ映画体験も、それすらも、風俗営業法改悪によるオールナイト興行廃止という方向で危機に瀕していたことは周知の事実だ。それが自主規制によって切り抜けられたこともまた周知の事実だ。
 そして、女高生だの女子大生だの情事OLだの、その語感だけにおいても発情勃起するエクリチュール(筆者が興奮しているわけではないが)が、差別用語ふうのやかましさで生賛の祭壇にのせられたことも、また周知の事実だ。

 じつに一九八四年だ。

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 たまたま、本年度、最も面白い映画を見せるだろうエロの作り手は二十台の人たちである。わたしがじつに乏しく見た限りでは、『虐待奴隷少女』の米田彰『神田川淫乱戦争』の黒沢清『女子大生・教師の前で』の水谷俊之などに代表される人々だ。
 わたしはほとんど舌をまきながらかれらの映像に向い合い、そしてほとんど複雑な感情にとらわれざるをえなかった。何故ならかれらの「イデオロギー」を確定することはできるだろうし、それはアカデミシャンのA某や作家のS某と何の違いもないのだ。自明に否定されるべき後続世代の世界がわたしの前に突き付けられてあり、しかし、……いや、つまりは、わたしは納得してしまったのである。
 かれらを、ポスト・モラトリアムの世代、と呼ぶこともできるだろう。
 水谷の『スキャンティドール・脱ぎたての香り』は、森田芳光の『ピンクカット・深く愛して太く愛して』程度の作品(つまり埋もれた秀作とも言うべきもの)であり、故にだから、かれが次に『家族ゲーム』の・よーな作品を作り、そして『ときめきに死す』タイプの一種信じ難い駄作(因みに水谷はこの映画の助監督でもあるのだ)で流行監督宣言などをぶちあげて、更に角川映画にでも進出するだろう位のことは瞬時に予想できるほどに納得してしまったのである。
 全くの映像主義者であるかれの迷宮は、『スキャンティドール・脱ぎたての香り』におびただしく登場する下着同様に極めて不安定にかれの映像と関わっている。それがもっと明快な方向を見い出すためには、あの映画の中の巨大なスキャンティ・アドバルーンさながら、ふわふわと浮薄に、ひたすら上昇志向にとらわれるしかないのかもしれない。

 かれらがどこにいるのか、どういう存在なのか。これ以上、わたしは、つまびらかにはすまい。ただ今日の青春の不条理な宙吊りのうめき声を、もっといえば、一九八四年の情事OLという不条理なセックスのアンチ・ユートピアの現認報告を、かれらには少しばかり期待できるだろうとは思っている。

 だめを押すようだが、水谷にことさらひかれるのは、これらの人々の中で、かれが最も駄目だからである。覗き部屋アルバイトの女子大生が、その仕事熱心がこうじて、遂にはその覗き部屋に住み込むようになるという強烈にシンボリックな逆説的物語(磯村一路脚本)が、『女子大生・教師の前で』の内容だった。
 裸を見られるという日常的性労働の一様態が、日常生活をまるごとそこに投企してしまう形で絶対化されるとき、それを追うエロ映画としての主要な表出は、映画表現の原点に勃起してくるような迷宮を観客に向って現前化させてくるのかもしれない。覗き部屋の覗かれる女の裸像に重ね合わされて、覗き部屋全体の透視がモンタージュされてくるシーンにおいてその表出は過激である。
 覗かれ女のセックスの虚しさ(性労働に限っての部分的なものではなくセックスそのものの存在感の稀薄さ)が、その透視画において、決定的に暴露されるのである。その過激さは観客の覗き見志向をも射呈するだろう。映画のもつまなざしの根底的な二律背反に水谷は行き当った。
 『女子大生・教師の前で』は、このように一種陶酔的な映像を突き付けてくる映画であり、それを語るにはあの痴呆的に嫉妬深い「ハス見的ロマネスク」の語法以外にふさわしいものはあるまいと思えるのだが、さしあたってそれを支持することは今日のA・A〈アサダ〉現象の一変奏に他ならないし、それ自体、エロ映画から上昇し、不条理な虚白から外れて流行に便乗することに結果するだろう。
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 ポスト・モラトリアムとは何か。この世代は何を用意してくるのか。
 わたしはかつて、ヒロヒト在位五十年に『批評の蹉跌――エロ映画にとって天皇制とは何か』を書いて、個別の闘い方とした。そして、エックス・デイ近付く一九八四年、やはり情事OLについて(また、エロ映画にとってユートピアとは何か、という形で再び天皇制とは何かについて)、語ることが、また個別の選択であるように思える。

「同時代批評」11号、1984年8月


情事OL1984 [AtBL再録2]

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 ジョージ・オーウェルの一九八四年でありますが、ジャーナリズムのオーウェル祭りよりも、権力が先手を取って、風俗営業法改悪に乗り出してきたような気がします。アンソニー・バージェスの『一九八五年』やG・K・チェスタトンの『新ナポレオン奇譚』などの、ユートピア小説の便乗については、べつだんどういうこともありませんが、管理統制の便乗はいかがなものでしょうか。オーウェルのアンチ・ユートピアの言語統制が他ならぬ本年度に実現されて、ポルノ映画界の自主規制から「女子大生」や「OL」などの言葉が消えてゆくとは想像だにしなかったです。おかげでニッカツなどはずいぷんと不入りになっておるそうじゃありませんか。
 『ブルータス』89号で岡留安則君が、フーエー法改悪反対のゲキをとばして、《断固として悦楽的都市生活の自由を守るゾ!》と呼びかけておりますが。

 ポルノ映画界に関しては自主規制してしまったのだから何とも致し方ございませんね。守るべき何物があるのか。大体がポルノポルノといいながら、オメコもオメコの毛も、見ない・見せない・見せられないの三段変態活用の世界なのですから、そういう局部同様にいくつかの用語が「発禁」になったからといって騒ぐほうが間違っているのかもしれませんな。
 どうも小生も、それかあらぬか、ずいぶん映画を見なくなりました。裏ビデオの世界に通じているはうが何かと人付き合いにも便利な様子なので……。
 エンツェンスベルガーの『意識産業』ではありませんが、そこらのいかがわしいニュージャーナリストなんかじゃなくて、本気に「射精産業」の多角的考察が必要とされているのではないですか。それどころか、オーウェルについてのおしゃべりで、すでに今がそのアンチ・ユートピアの一九八四年だと現認するものがありましたか。
 問題はフーエー法改悪という問題だけではないようです。局部および局部の毛ならびに局部的用語、というものがタブーになりました。ポルノ映画とは、現代において、全くそれらしからぬ題名ならびにそれらしからぬポスター・宣伝を使って、客を誘い込み、それらしからぬ隠し方を見せる、というそういう領域になったようです。つまり、情事OLなどという語を使わずして、情事OLの濡れたビラビラやふるえて口を開ける局部〈あそこ〉を妄想させねばならないのです。

 まさにジョージ・オーウェル的状況ですな。
 情事OL的状況です。

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 『週刊宝石』が「ピンク色のゲリラたち」として取り上げたように、しかし日本映画の新しい才能たちは、この領域からしか出てこないような気がしますが。
 『話の特集』(エーツ・何号か忘れてしまったな)では、蓮実重彦先生が、周防正行脚本監督『変態家族・兄貴の姉さん』を、例によって例の調子で激賞していましたな。この映画を見ずして人は本年度の映画に関して語る資格はいっさいない、ということでした。いや、映画全般について、だったかな。
 先生は何をいいたいのですか。エロ映画とローアングルの連関とか、日本的家屋の構図とはだかの肉体の共存とか、そういう瑣末なことなのですかね。

 これこれ不謹慎ですね。先生は、ロバート・ロッセンの『オール・ザ・キングス・メン』を何十年ぶりかで見るために、わざわざ下高井戸京王まで足を運ぶお方ですぞ。大体が、松田政男先生も加えて、この方たちの年間鑑賞本数におそれいりなさい。とても及びもつかないくせに偉そうなことを申すのは考えものです。
 そういえば、紅顔無知・厚顔無恥の者は、すべからく周防の映画を観る前に、先生御自身による小津安二郎論の御著書を読みかつ詳細に研究するべきだとも書いておられました。仲々謙虚な御提言であると拝受致しました。ところで低予算のピンク映画にこれだけの宣伝資金があったとは意外や意外です。
 これこれ……。この場合は、先生御自身が製作資金をお出しになったのではないかと考えるほうが適当なのではありませんか。
 いえ、クレジットを見落しましたが、まるきりあの方がお作りになったのでは……。
 余計に不謹慎ですよ。それにしても、あれは、あの脚本は、『オヅの記憶装置』でしたっけ、それとも『オヅの魔法使い』でしたっけ……。失礼、いや、忘れました。
 そういうことではあなたも先生から《地獄に堕ちろ》と罵しられるのがオチですな。しかし、別にあのような労作を読まぬでも、周防の作品が、小津映画のシミュレーション・ポルノだということは瞭然ではありませんか。麻生うさぎがパンツの上からフェラチオするところとか、大杉漣の笠智衆ものまねは面白かったですが、それ以外に何かありますか。
 大杉=笠が息子の嫁(風かほる=原節子、いや大分落ちますな)に向って、あんた今幸せかい?とたずねる川岸の場面とか……後景を電車がゆっくりと通り過ぎていきますな……、息子が家出してしまったあと、あんた遠慮することは何もないんだよ、と同じく父親が息子の嫁に語りかける屋内のシーンとか、まだまだいっぱいありますな。
R 何ですか。要するに小津名場面集のリメイクであるだけでしょう。少し猫背ぎみに放心の表情をつくれば、日本の父親の原像=笠が、ハイ、一丁上りになるだけじゃありませんか。映画的教養の問題なのですかね。もっとましなものはありませんか。

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 米田彰脚本監督『虐待奴隷少女』はいかがですか。
 まことに結構、蓮実先生ほどの筆力には恵まれませんが、恥かしながら推薦の辞に駄文を費してもよろしい。
 有楽町駅前の雑踏で主人公が、勤め人生活からポカンとドロップ・アウトしてしまう冒頭から、同じ場処に恋人を捨て去って逃亡してしまう終末まで、見事な青春映画であります。珍らしくも男優がそろっています。山路和弘、下元史郎、中根徹。三人ともよろしいのは、この種の映画としてはまさに出色です。要するに、シャブボケでセックス人形になってしまった少女(美野真琴)への「愛」をどういうふうに始末をつけるかという三人の男の選択の話だったと思うので、余計にそうです。女優に関しては、『セックスハンター・濡れた標的』で米兵に輪姦されて気の狂った後の伊佐山ひろ子を引き合いに出すのも酷かもしれませんが、もう一つという感想です。一等真剣だった男は、親友に彼女を押し付けて蒸発する。託された男は、何か責任を引き受けるように女と暮すけれど、最後は引き受けきれずに、雑踏の中に女を捨てて逃げる。彼女は一体だれに拾われるのかというところで幕引きになります。鮮烈です。

 倒立した春琴抄物語とでも申しましょうか。設定は彼女を弱い存在と捉えることによって状況の典型化をめざしているようでもあります。しかし女は捨てられても存外したたかに生きてゆくかもしれないという視点を捨象しているので、やはり、浦山桐郎の『私が・棄てた・女』的な男の側の映画にまとまってしまったようです。しかしそうであるなりに今日のピーターパン的青春の苦い閉塞に深く突き剌さっていると思えました。こうした状況映画としては、中村幻児が朝吹ケイトを使った二作『下半身症候群』『トルコの48時間』で、ソツない出来映えを示しています。これらをまとめてピーターパン青春ポルノ映画と呼べるでしょう。

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 『下半身症候群』は中根徹がよかったです。中根とかれの同棲相手朝吹、そしてかれのホモの愛人大杉漣の各々のからみがよかったです。かれは女相手には反応しない身体、しかし一人寝が淋しい女が裸で肌を合わせて側に寄り添ってくれないと安心して眠れないというので、仕方なく添い寝してやる。覗き部屋のアルバイトでいつもさらされている彼女の無色透明のような肉体が、かれの不能にふさわしいとでもいうように――。かれの夢は、居もしないニューヨークの愛人のもとに行って、一緒に暮すことです。折りにふれてかれが語る夢は、ぶらぶらと下半身産業で日々を過している日常の耐え難さに関わっているだけなのに、そこにこだわったかれは、現在の愛人に叩き殺されるのです。

 久方振りの幻児調青春映画であるようです。『トルコの48時間』も中根・朝吹のコンビで見せますね。ところで、今さら幻児でもあるまいというムキには……。

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 磯村一路脚本監督の『愛欲の日々・エクスタシー』など。見ず知らずの男女の行きずりの愛欲と別離、というかなり廃品回収的な設定を臆面もなく使って、美学だけを突き出そうとしていますな。たいへんに古風で、しかも、愛の不毛という紋切り型がどうも鼻につきますが、場面のつくりにだけは見るべきいくつかを記憶します。それと、磯村脚本、水谷俊之監督の『女子大生・教師の前で』は――。

 全くこれほど典型的なピーターパン映画はありますまい。覗き部屋で裸を見せるアルバイトの女子大生が、その労働の延長からついには、その覗き部屋に住み込むようになるという話です。裸を見られるという賃労働が自分の肉体を性欲対象から疎外してしまうところまで行くだろうという余断が、この前提にはあります。その意味でシンボリックに逆説的な話であるようですな。
 これも一種の倒立した春琴物語です。現代の佐助たちは、目をつぶすかわりに〈見る〉こと――視姦、見ることだけで欲望の昇華であるような――を選びますが、すでに物語の枠からは排除されて、ただ観客の中に像を結ぶしかないようです。もともと、「覗く-覗かれる」というセックス産業の一つの形が、そのまま、春琴抄の倒立なのではありませんか。ここにはセックスはあっても、オメコはありませぬ。
 ……いえ、水谷の映画の話でした。彼女の裸体は実体をなくしてしまうのです。アルバイトの時間の切り売りで虚ろに裸体をさらしている時だけ実体をなくすのではなく、もっと積極的に生活まるごと実体をなくしてしまうことが志向されるのです。
 下半身産業への従事がそのように疎外であるという現認以上に、その疎外こそが楽しいという逆説すら映画は語っているようなのです。彼女の裸体がレンズとなって、覗き部屋の全景が透視されるようなモンタージュを観るとき、そうした主張をききとらざるをえません。「虚ろに裸体をさらす」などという視点自体が、これはもうクラシックであるようですな。虚ろが楽しいのですよGS……ピース、ピース。
 ここまでくると何かこう、わたしのごとき虐待奴隷中年の了解範囲を越えます。……ところで浅田彰先生の御著書などには、こうしたスキゾ・ギャル生態論が、さぞかし鋭く分析されておるのでしょうな。

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 悲観することはありません。周防脚本水谷監督『スキャンティドール・脱ぎたての香り』の下着フェティシストおじさん上田耕一(間違っても「郎」をつけてはいけません、『赤旗』コワイゾ)の頑張り方をごらんなさい。一昨年の『キャバレー日記』から今年の『スチュワーデス・スキャンダル・獣のように抱きしめて』まで、あの彼のぐわんぶわり方を――。
 スキゾ・ギャル生態論はさておき、あの、それはそうと『神田川淫乱戦争』に、何やらおぞましい秀才マザコン受験生の役で出演したのは、あれはかのA・A〈アサダ〉先生ではなかったですか。
 どうもあなたは眼力まで鈍りましたか。浅田先生とは、だれあろう、あの永遠の映画少年、あのサヨナラオジサン淀川長治先生の生まれ変わりなのではありませんか。

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 『スキャンティドール・脱ぎたての香り』は頑固一徹の下着職人をやった大杉漣がよかったです。どうも今回は、作家の映画という切り込み方で、男優の話に終始してしまうのですかね。ことほどさように、只今、女優が枯渇している事態のようで……。これはスキゾ・ギャルの肉体の透明感(肉体をおおう布切れの透明感ではないですよ)に関係してくるのでしょうか。ビ二本ギャルのあの無機的にすきとおったオメコを一体どう考えるべきでしょうか。これは今日の『逃走論』の権威に是非とも御示唆願いたいことですな。

 止めておきなさい。サイナラ、サイナラといわれるのがオチです。
 どうも困りましたな。これでは映画批評にもなりません。蓮実先生ではありませんが、わたしも自分の著書の宣伝でもしたくなりました。
 ずばり、見せましょうよ、オメコを。いや……、でなかった、つまり、このテーマですな。ピーターパン・シンドローム下にあるポルノ映画の新しい才能だちと、情事OLの一九八四年の問題を、です。まとめましょう。

 ずばり、アンチ・ユートピアですよ。逃げるところなんかありません。逃げようとする意識の自由が確保されていること、これほどの統制はありますか。かつてありましたか。下半身地獄です。サオひとつ、アナひとつの……。えっ? 何の話かって? 勿論、情事OLの話です。一九八四年ですからね。不条理なのです。だから不条理から逃れようとする安心立命のイデオロギーの瀰漫が現状を制圧し、それが不愉快なのです。出口はありません。
 そうしたところに収まってしまうような映画がすでに不愉快なのです。水谷の作品は嫌いですが、『女子大生・教師の前で』がすでにその題名(それだけの)故に、再度の一般公開が無理だろうことには怒りを感じます。
 八つ当りをするわけではありませんが「『パルチザン伝説』出版弾圧事件」パンフレットを作製したグループ、わたしはあなたがたの誠意を疑いはしないが、目に見えた弾圧だけに反応するあなたがたの「誠意」に対しては一種の倨傲を感じざるをえない。ポルノ映画における局部および局部の毛ならびに局部用語と同様の目に見えない弾圧が進行しているのですから。

 じつに一九八四年ですね。
 そうです。
 ところで『スキャンティドール・脱ぎたての香り』はずいぷんと森田芳光の『ピンクカット・太く愛して深く愛して』に相似でしたね。細部がどういうことではなく、全体的なトーンが……。
 そういうことです。水谷にとって流行監督宣言まであと一歩なのです。さて来年あたりは、水谷、周防、米川、磯村たち「ユニット・ファイヴ」による角川映画をサカナに愚痴を垂れることになるでしょうかね。

「映画芸術」349号、1984年8月


じやぱゆきさんはどこに? [AtBL再録2]

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 現在、日帝本国に流入してくる東南アジアからの性産業従事者(女性)は、二万とも六万とも数えられる。その不確定な数量の幅において大きな層を形作っている。ことが告発主義のみで片付かないことは、新宿歌舞伎町あたりを弛緩した表情でうろついていた男が、少なからず「お前は日本人か」の問いに更なるとまどいを経験する事例からも明らかだろう。
 「売春女性」の流入と同時に、「観光売春」団ツアーの流入もすでに経済大国ニッポン副都心の夜の見慣れた光景なのである。誰が流入するファック・フリークスを嘲笑えようか。露骨に、ソウル、マカオ、バンコクに目をぎらつかせて円をきる自分たちの似姿が、この新宿裏通り〈メインストリート〉を徘徊しているのだから、まだしも自国の女たちを流出させていない「幸福」を今一度かみしめてみるほうが良いというものだろう。

 ボードレールの詩句は一世紀の後、このゆがんだ列島の中枢で、更にどぎつくよみがえる必要がある。神秘な未知の女との出会いがもたらす衝撃は、とベンヤミンはいっている、存在全体にわたってエロスに恵まれた人間の至福であるよりも、絶望的に救い難い人間を襲う性的な錯乱である、と。

 メトロプロムナードの雑踏を折れ、サブナードの消費街でナンパした女が、ブランド商品に目を輝かせ、それはあのほうもじつに好きだったにもかかわらず、じつは最もセックスから疎外されてついさっきまでノゾキ喫茶の小部屋でオメコをおっびろげて覗かれていたのであり、カタコトの日本語と英語でしか会話をできないとしたら、これはきみ、一体どういう経験なのだと思いますか。わたしがこのような日常体験をする(可能性をもつ)男であることは、一応この文章の前提事項である。

 山谷哲夫の『じゃぱゆきさん――東南アジアからの出稼ぎ娼婦たち』(一九八三年)はこうした流入女性に焦点をあてた。この短いドキュメント・フィルムは、最初に歌舞伎町、そして沖縄コザヘと飛んで彼女らの実態を捉えようと試みている。ただ捉えきれない、潜入しきれない、そういうところにとどまっているのだが。

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 結論を先にいおう。
 いつかれは自身の脳天気なデバガメ性に気付くのだろう、と苛立ちながらわたしは、山谷の作品の大半を追い続けてきた。『きょむ・ぬっく・あいん――タイ・カンボジア国境から』(一九八〇年)、『バンコク観光売春――買われる側の生活とその意見』(一九八二年)から直接つながり、沢山の女性たちが日本帝国に流出しているようだと知る認識のみちすじは大まかに了解する。
 わたしの評価はここで止まる。止まらざるをえないのだ。作品を通していやほど感得できる山谷という作家のおそろしく鈍感な楽天性に出会って――。

 「じゃぱゆきさん」の実態は、現在、現場的に潜入してフィルムを回すことが可能なほど開放的な情況ではあるまい。そうしたことは極く日常的な常識の範囲で知れることだろう。体験的にはたまさか遭遇することではあっても、それを映画という形態で定着しえるものだろうか。ここにドキュメントという行為の根抵的な設問がある。
 不可能ではあっても、おのれの領域と問題関心とに引き寄せてくることは至上である他ない。この二律背反を完全に生きてみせることなしに優れたドキュメンタリー・フィルムは出て来ることがないだろう。
 わたしが山谷をデバガメと断定するのはこうした観点においてである。
 かれが今追っている「出稼ぎ売春」労働-戦後篇という素材に対して一定の敬意があることは否定しないにしても、である。
 戦後篇に対応する前作『沖縄のハルモニ・証言従軍慰安婦』(一九七九年)も確かにかれの一貫性として捉えられるものである。しかしながら、山谷に決定的に欠けているのは、そうした一貫性を充填しきるだけの自分の視点である。

 ドキュメンタリー過程において、作家は対象とではなく本当は自己自身と向き合わねばならない、という月並みな論点をここでも導入せざるをえないようだ。「捉えようとして求める←→拒絶される」という回路が全く埋まってゆかないままだとすれば、作家の側には次の三つの方法しかない。
 一、求め続けることにおいて作品を断念する。
 二、問題意識を稀薄化するという不徹底な求め方において不徹底な拒絶を受け、それがソフトな受け入れられ方だと誤解しかつ満足する。
 三、求めることを断念して対象との了解可能事項だけで当初のアプローチを代用する。

 これらの方法を通過して作家ははたして変わるのだろうか。
 変わらない、変わりえないのだ、とわたしは思う。一方に、小川伸介、もう一方に、土本典昭という七〇年代を疾走したドキュメンタリー・フィルム作家の達成と変貌を視野に入れ、変わらないとは一体どういうことなのか。
 ここで皮肉にいえば、山谷の稀少価値があるに違いない。山谷という「作家」は本当に変わらないのだ。『バンコク観光売春』における――「日本人はいくらくれる」「日本人何人を相手にした」「家族たちは貴女の仕事を知っているのか」「結婚したいか」「今何になりたい、何をやりたい」――などの愚問が、耐えがたい恥しさと共に想い出される。
 この映画にも「娼婦たち」が美しく距離を喪うといった得がたいシーンがいくつかないわけではない。それは率直に作家と彼女らの関係の具象化なのだ。しかし帝国
主義そのものですらある愚問の位置するところは変わらない。変わりようがない。
 結果的に沈黙を選んでいないから、山谷の作品のほとんどは、先述の項目二に分類できるわけなのだ。
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 しかし更に、わたしは、山谷の最初の作品『生きる――沖縄渡嘉敷島集団自決から25年』(一九七〇年)を問題にして、この男の徹底的な限界を指摘しておきたい。
 テーマをもって沖縄にとんだ作り手は、生き残りの人たちのことごとくの拒絶に出会う。これは全く当然で正当なことなのだが、ここから何を引き出してくるかがドキュメンタリストのしぶとさというべきだろう。
 しかし山谷がこの作品でやったことは次の二点である。
 一点、自己のテーマをいとも簡単に断念した――集団自決という歴史的事件はすでに闇の領域であって踏み込めないとあきらめる、そしてその替わりに、過酷な歴史を生き延びてなおしぶとい大衆の原像を持ち出して、ああなんと〈生きる〉ことは素晴らしいのかという俗呆けの生命讃歌に横すべりした。
 二点、それらのドキュメンタリー作家としての本質的な屈折転向をその重大さの自覚なしに無邪気に一作品の中に定着させた。
 つまり、対象の血ぬられた過去については踏み込むことができない、しかし何はともあれここにこんなに素晴らしく〈生きている〉人々がいるこれはすごいではないか、というテーマ放棄の過程が作品の別側面を作ったのだ、これでは全く私ドキュメンタリーでしかない。

 何故わざわざ戦時中に起した集団自決事件で知られる島まで出かけてまで、生キルッテスバラシイを報告せねばならないのか、この問いは最後まで宙に浮いたままだ。
 いったん人々の過去に土足で踏み込んでしまった人間、踏み込もうとした人間が、こうした安逸な帰着に自足して恥じないことは不思議だった。しかし山谷という作家の方法論は第一作でこのように基本的に決定してしまったのである。
 テーマの追求を稀薄化したりまた断念しつつもフィルムをとる行為は止めずに、表層の反応をかすめ取って対象を捉えることの代用と換える、そうした回路が山谷の作品にはすっかり定着してしまった。
 素材的な局面から言えば、山谷哲夫は稀有であるし、お座なりに更なる持続を要求してゆきたいわけだ。しかしかれの方法論が転換されない限り、かれの「テキスト」が犯罪的にしか結果しないこともまたあまりにも明らかなのだ。

「同時代批評」10号、1984年4月


日本映画の一九八三年をふリ返える [AtBL再録2]

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 一九八三年夏、観客が映画館に戻ってきた。戻ってきた観客たちと映画との距離はわたしには視えない。視えないところでわたしはわたしの映画について語ってきた。

 映画館の暗闇を埋め尽した若い世代の観客たちが観たものをわたしは観ていないだろう。層としてのかれらの片言のメッセージは、闇の中に、あるいはスクリーンの中に(どちらでも同じか?)吸い込まれてゆく他ないのだろうか。確かに、『南極物語』『時をかける少女』『探偵物語』『プリメリアの伝説』などの満員夏休み映画の館内からは、こうした奇妙にスリリングな断絶が感得できた。これは、断るまでもあるまいが、映画作品自体にあるダイナミズムとは別のものだ。
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 同様の興奮は『戦場のメリークリスマス』の会場にもあった。ここで象徴的なことなのだが、大島渚は自作の擁護を、映画をまるごと受け入れて感応した観客である十七歳の少女による作品評で代行しようとした。
 自作への酷評に対置して少女さまは神様ですを展開する実作者の倨傲を、ここは論評する場ではないだろう。意図はどうであれ、大島は、端的にいって、映画批評不毛の現在を撃つことだけはした、のだとわたしは受け止める。
 そうである。不毛の不毛なる不毛のゴミ山なす映画評論は、本年も、観客たちとは無縁の一方通行路に発信し続けている。これらの言説とは一体何であるのか。

 例えば、一九八三年、この首都は、伝統から根こそぎにされた特異な西ドイツ映画作家たち、奇怪に権力意志を密通させた作品の作り手であるヴェルナー・ヘルツォークや折り目正しい映画青年ヴィム・ヴェンダースを迎え、そして帰ってきたゴダールをその新作と共に(本人の来日は中止に終ったが)迎えた。このドイツ映画祭の盛況さもまた記憶に新しい。観客たちはここで、小津安二郎を師とあおぐ永遠の映画青年風ヴェンダースや血に飢えたゲルマン・ファシストの「気狂いヘルツォーク」や「映画中毒」の夭逝者ライナー・ファスビンダーに、唐突に出会うことになる。
 いきなりに、である。

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 このことは輸出振興会作家と成り抜けてしまった大島や今村昌平の映画の通用の仕方とどう関わるのだろうか。ニュー・ジャーマン・シネマの自己規定を要約すれば、外国でより多くの観客をもってしまうことの当惑、ということであった。これが一部の日本映画状況と相関わっていないはずがないのであるが。

 それらを横断的に切り裂く言葉はないのか。依然として映画評論とは低迷と意志薄弱と自己満足との永久時計に閉じ込められた一つの通過儀礼で慎ましくも在り続けるようだ。
 わたしの関心は、映画を見続けると同時に、《すぐれた対立者はいないか……敵になにかをあたえうるすぐれた対立者》はいないかの呪文のように、少しは読むに耐えうる映画批評を捜すことにもあった。例えばヴェンダース論を書いて、《映画であることの甘美な残酷さ》と、かれ自身の仰々しいトートロジーの十枚舌を飾る題目をつくってみせて、作品論へとたてこもる某教授の方法がある。わたしはむしろ賞めているのであって、毎年の行事に映画言説ベスト・テンがもしあったら一票投じようと思っていただけなのだ。

 そして一方に、メジャー映画の一角に、作品活動を開始してから比較的早く上昇する機会に恵まれる、三十代の新人(そう呼ぶにふさわしくないかもしれない)たちがいる。かれらはマイナーからメジャーヘの弁証法に素早く立ち合わされて、何を、かれら自身の世界として選ぶのか。
 映画批評はそこで立ち止まり、やがてはがーかれらを相手にすることでさしあたっての問題を一段落させようとする。『魚影の群れ』『家族ゲーム』『探偵物語』などが対象に浮んでくる。
 更に批評は、目配りの良さを誇って、マイナーから新人として登場したり、マイナーそのものでやり続けたりする作り手にまで及び、『神田川淫乱戦争』『アイコ・十六歳』などが、話題に載せられる筈である。

 それにしても、映画から映画への路地裏から大通りに突き抜ける途はあるのだろうか。今日の映画状況は、巨匠たちの外国志向、中堅たちの低落もしくは沈黙、ここ数年の新人たちの急速な中堅化、というような脱速現象としていっそうすさまじい様相を呈している。
 すさまじさの原初的な力は今日の観客である。今日の観客は明日の作り手であるだろう。明日の作り手であるだろうかれらはどんな大通りに出てゆくのだろうか。そしてかれらは困難な批評の時代をどう血肉化してゆくのか、それがさしあたっての結論めいた感想である。

「ミュージック・マガジン」1984年2月号


一九八三年度ベストテン&ワーストテン [AtBL再録2]

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悲恋映画のミーハー
〈外国映画ベストテン〉
鉛の時代(マルガレーテ・フォン・トロッタ) 
ことの次第(ヴィム・ヴェンダース) 
アギーレ・神の怒り(ヴェルナー・ヘルツォーク) 
パッション(ジャン・リュック・ゴダール) 
ジプシーは空に消える(エミーリ・ロチャヌー)
戦いの後の風景(アンジェイ・ワイダ) 
猟人日記「狼」(ロマン・バラヤン) 
天国の日々(テレンス・マリック)
スタフ王の野蛮な狩り(ワレーリー・ルビンチク) 
族譜(林権沢〈イム・グォンテク〉)

 〈ワースト〉
フィッツカラルド(ヘルツォーク)

 選んでみて気付くのは、大方がドイツ=ソビエト圏の映画となったことである。
 相いも変わらず悲恋映画に胸を開いてしまうミーハーぶりだ。
 『ジプシーは空に消える』などそのピュアな形態にまいってしまった次第だ。この点『戦いの後の風景』のような状況性の暗鬱な悲劇よりも、純粋培養されたふうの悲劇にからきし弱かった。それともこれはわたし自身の将来を予見的に投影させるような見方に引きずられてのことなのか。すでに選考理由の述べ方としては過剰にパーソナルであるが、何事かをコメントしたかった映画――『鉛の時代』『ことの次第』『アギーレ・神の怒り』『パッション』――については他の場所に書いてしまった。
 で更に映画ハジカキ評論スタイルで続けるが、わたしとしては、ジプシーの男女による変型的な心中物語に涙したことは、わたしの中にいまだこうしたエロスのくすぶりが残っていたという意味で意外な事態ですらあったのだ。
 逆かもしれない。
 《なぜ一気にものものしく年を取ってしまうことができないのか》という花田清輝の焦燥はいつもわたしのものでもある。じつにその通りなのだ。ただガキのように映画を見漁って、名前にふさわしくいつもガツガツしているだけなのだ。
 『族譜』だけは家庭内のテレビ受信機で見た。

 ワーストの『フィッツカラルド』については『アギーレ』ともども『日本読書新聞』一九八三年六月十三日号「気狂いヘルツォーク」(本書所収)に書いた。要するに侵略者の居直りスペクタクル映画なのだ。


今村昌平と大島渚
〈日本映画ベストテン〉
ションベン・ライダー(相米慎二) 
十階のモスキート(崔洋一) 
丑三つの村(田中登) 
暗室(浦山桐郎) 
キャリアガール・乱熟(和泉聖二) 
薔薇の館・男たちのパッション(東郷健) 
神田川淫乱戦争(黒沢清) 
少女暴行事件・赤い靴(上垣保則) 
オキナワの少年(新城卓)
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 〈ワースト〉
戦場のメリークリスマス(大島渚)

 巨匠たちは映画大陸の公認をかっぱらうために昇天してゆくがよいのだ。世界性の後光に輝いて帰還する作家たちの到達をわたしはむしろ歓迎する。しかしかれらにはこの在日に再び現役として戻る場所がないというだけのことだ。
 つまり今村昌平が『楢山節考』で描いたのは、自分自身の引退宣言であるに他ならない。かれが、巨匠たちの楢山であるところのカンヌ映画祭で賞を取ってしまったことで、この隠画は見事に完成した。かれと賞を争った『戦場のメリークリスマス』の作家にしても事は全く同等だ。わたしはかれらに対して、映画のセリフを借りて《お山参りはつろうござんすが、ご苦労さんでござんす》という以外の言葉をもたない。

 「戦・メリ』はメリメリだ。従来の大島作品に根気よく付き合ってきた者は当然にこれを支持するだろうが、一方、これを境に大島から離れる者もいるかもしれない。そして今まで異和感をもちながらも作品を辿ってきた者はやはり異和感で耐えがたくなる。この作で大島に始めて接した者は柔軟に貪欲にこの映画に屈服するかもしれないし、逆に全くはじきとばされるかもしれない。要するにフツーの反応を引き起す映画なのであり、わたしに関していえば、徹頭徹尾何も書く気が起らない。
 注意すべき点は次である。すべての映画作家は自作を絶対的に擁護する攻撃性において大島を見ならうべきだ。これだけは確かだ。
 なお、空位があるのは評判に登る新人――磯村一路、水谷俊之など――の作品を見る機会がなかったからだ。


特別演技賞 スヴェトラーナ・トマ
 『鉛の時代』のユタ・ランペも『丑三つの村』の原泉も『竜二』の永島暎子も各々素晴らしかったが、やはり『ジプシーは空に消える』スヴェトラーナ・トマである。添いとげられることのない悲恋に誇り高く殉ずる娘。それだけでもよろしい。
 乱舞する彼女の高慢なまなざし、泉のほとりで次々と着衣を脱ぎ捨ててゆくあどけなさ、服従を誓わせた男のその手で刺されて散ってゆく純愛が、いまだにわたしの中に残り火となっている。

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「映画芸術」347号、1984年2月


月に吠える [AtBL再録2]

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  《でも、一時間半の崇高な映画さえ、一時間半の馬鹿げた退屈な映画と同じくらい退屈で面白昧のないものなんだ》――ジャン・リュック・ゴダール
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 例えば『暗室』
 徹頭徹尾、これは一九八三年のメタファーとしての暗室なのだ。そのようにわたしは、浦山桐郎のこの映画を見たし、そのようにひきずりこまれてしまったのだ。
 暗い。そしてどうしようもなくからみつき、そしてどうしようもなく去ってゆく女たち。

 意図としては、これは、中村幻児が勝田清隆をモデルにして作った『23人連続姦殺魔』と裏表なのかもしれない。こちらは陽画であり、攻撃性なのである。女が好きでいとおしくて可愛くてならないから絞殺して犯してしまう――これはこの映画の『暗室』とは対照的な(そして作品的水位では余程下に落ちるのだが)メッセージなのである。
 『暗室』は徹底的に受動的な世界に落ち着いているのだ。ここでは、女はすべて向うのほうからやってきて、関係し、妻となったり、受胎したり、奴隷になることを望んだり、暴力的に対峙したり、そして去ってゆく。どちらにしてもある種の関係の断念があることは確かで、攻撃的に表明されようと受動的に表明されようと、女は人形として感知されている――そういう共通性なのである。
 作品的水位は別にして、『暗室』のほうがすぐれてメタファーとなりえたのは、どうしようもなく遁れてゆく対象の感受という一点だと思われる。受動性はこの際、全く視点から外してよい。
 喪われてゆく。常に暗い部屋の中で、何かが、喪われてゆく。

 『暗室』でゆいつ突き抜けている場面は、最後に遁れてゆく女が涙を流すところだけではあるまいか。いやそういっては不充分か。映画は人形たち一人一人を女優の生ま身で現前化させていた以上、浦山のそして石堂脚本の意図が、もっと積極的に関係の成立と崩壊とにしぼられていただろうことは当然である。
 しかし画面はそれを理詰めに追ってゆくわけではない。遁れてゆく女たちの内面は、基本的には、画面から排除されていたようだ。常に遁れられてゆく、喪ってゆく男の茫然自失にこそこの映画の暗部は隠されていた筈だから。
 それが最後のシーンで泣く女の側にと突き抜ける。
 しつこいな、もたれるな、と思った。感情移入のきつい場面だ。作り手の側の。
 『私が・棄てた・女』の例の幻想シーンを想い出してうんざりもした。
 うんざりしながら気付いたことは、じつは、これに対応する場面が中程にあって、そこでも映画は女の側へと突き抜けていたのだった。ただあんまりに、滑稽な場面だったので直ぐさま、そう受け取りにくかったのだ。やはり、遁れてゆく女がいて、国際空港に見送りにまで、男は行く。するとレスビアンの愛人を寝取られた恨みに逆上した女がいて、ゲバルトを仕掛けてくるのである。ただもうめったやたらに男はどつきまわされ、ふんずけられ、けりとばされてしまうのだ。
 原作者はこの場面の暴力女麻生うさぎは最高におかしかったと悦にいる。麻生うさぎ――『神田川淫乱戦争』によって長く記憶されるが、この映画では過剰にもてあまされた部分に活躍してしまった。
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 暗室。暗いマリオネットの部屋である。見続けることがうっとおしかったこの映画の核心はもう少し明確に語り直されるべきだろう。

 だが、少し迂回しよう。
 吉本隆明が『映画芸術』三四六号に「ふたつのポルノ映画まで」を書いて『暗室』を批判している。かれは何をいっておるのか。他に、『檜山節考』『戦場のメリークリスマス』をとりあげて、これらがベスト級の作品であろうと見当をつけた上で裁断している。わたしは、前者がフジヤマ・ゲイシャ・ポルノ映画、後者がフジヤマ・ゲイシャ・ハラキリ映画だ、とする吉本説に基本的には賛成する。しかし同時に、この巨匠の相いも変わらぬ傲岸な正当性主義にヘドの出そうな嫌悪感を持ったことも確かなのだ。かれは書いている。

 《こういった作品が現在の日本映画を代表するもので、しかも偶然のめぐりあわせでないとすれば、日本映画がもう要素的に解体している気がしてならなかった。これらの作品は崩れてふた色の基底に分解されている。ひとつはポルノ映画であり、ひとつは死に接地した暴力映画である。つまり、現在の日本映画は、裸にすればポルノ映画か死に接した暴力映画に分解してしまうものなのか。これが真っ先にいだいた感想である。》

 別に何を選んで見ちらかそうが、このオヤジから「日本映画がもう要素的に解体している気がしてならなかった」以外の感想がとりたてて出てくるとも思えない。これはあらかじめの予断にすぎないのだから。
 「〈解体〉」という抽象から下降的に、吉本は実作品の限界的な質を規定するだけなのだ。例の『マス・イメージ論』の手口であり、これはもう神託とでも呼ぶ他ないシロモノなのだ。現今のサブ・カルチュアの有力な部分を形成するエロ漫画やエロ映画に関する項目が、あの書物にはなかった、ということはまだしもの救いと云える。
 映画批評という領域にまで、折りにふれての喰いちらかし感想記述を別にしては、吉本神託銀行が、その硬直した体系囲い込み化の侵略意志を発動してこないことは、まだしもその醜悪な〈神のお告げ〉からまぬがれるというのみの意味で、ハッピイなことなのだ。しかし、ようやく風邪も直りかけてきた折りなので、ここでは吉本の醜悪さとしつこく向い合いたくはない。

 『暗室』に対する巨匠の明らかな読み違えに限定しておこう。
 読み違えの質はかなり惨憺たるものだから、テキストをそのように誤って喰いちらかし、体系囲い込み化の自己増殖過程にオンライン化してゆく『マス・イメージ論』などの転倒の具体相が見透かせて面白いだろう。
 『暗室』を解体したポルノ映画と規定した上で、吉本はどう扱うのか。先ずかれは次のようにいうのだ。
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 《ポルノ映画の核心は性交の場面にあるにちがいない。では性交の場面の核心はとこにあるのか。性交における映像的な愉悦と、リズム感の流れにあるに相違ない》
 一体なんなのだろうこれは。『エマニエル夫人』とかを見て興奮した欲求不満の処女が思わずもらした屁のような感想だろうか。へんに真面目くさった裏ヴィデオ評論家が頂末きわまりない技術批評の能書きをたれる時の前置きのようなものだろうか。こんなに根抵的にズッコケてしまってはまともな「読み」に立ち直ることは当底期待できないが、もう少し我慢して付き合おう。
 続けて(改行なしのつながりで)、吉本は書いている。
 《この映画のポルノグラムは、とうていそんな水準にはない。性行為はただ〈努めている〉とか〈仕事している〉とかいうより仕方がないものになっている。何も愉悦を感じていないのに、性行為の動作だけはおおげさに演出され、演技される。観客の方はもどかしさや苛立たしさや空虚しか感じない。たいへん努力して男女が裸で仕事をしあっているという感じしか伝わってこないからだ》

 これはこれ自体、全くそのとおりなのだ。このとおりの惨状が、日本のポルノ映画館の日常的な状況なのだ。だからどうしたのだ、とわたしは問いたい。だからどうだというのだ。
 神託銀行のシンクタンクからは〈ポルノ〉についてこうした凡庸な認識しか出てこないということがお笑いである。同じ神託の『E.T.』論を読んで、荒筋の紹介しか書いていなかったので、果てしなくETな気分になってしまったことがある。今回も似たような荒涼としたムカツキに襲われる。
 かかるシンタックスから派生するものは二つしかない。作り手の側の本番突入主義、そして受け手の側のポルノ撲滅論、これである。《ポルノ映画ほど、監督や俳優の力量や、人間的な質の高さを問われる映画はないはずだ。なまじの気持で手がけるべき主題でないことがわかる》と書く吉本がどちらの側かは断わるまでもあるまい。そんなに露骨にもいえないから、吉本は、性演技の演出が妥協的であるのかそれとも演出家の性意識がもともと貧しいのか、どちらかの理由でこんな映画にとどまる、と更なる見当外れを続ける。
 それでもう書くこともないので、原作との比較という悪質の文学主義まで導入して、止めておけばいいのに、《たえず死臭のただようエロス》とか《墨絵のような文学的濃淡》とか原作を飾り立てて、スゴんでみせる。そしてあとは要領をえない繰り返しで枚数を埋めて。
 これが吉本の『暗室』批判である。

 これが映画批評なのか。
 これが果して映画批評なのか。
 逆に問おう。今日、映画批評とはどう成立するものなのか。
 巨匠のダルな感想文への嫌悪感は、問いを必然に、そこのところにとがらせてゆく。黙然としてわたしは苛立ちに捉われてゆく。そして映画を見続けることに付随して、読んだ沢山の数の映画言説を本年に限ったものでも、出来うる限り想い起そうとした。
 そして再度苛立つ。これらの中で映画情報批評あるいは業界内批評に該当するものを一つ一つ消去していったとして、何が残るだろう。誰の、どういう営為が残るだろうか。加えて吉本神託銀行から発される権威的普遍化主義の毒ガスだ。
 たまたま文学者の映画批評の一貫性のなさにかみついて咆哮している大島渚の十年前の文章が目についた。大島によれば、文学者たちは《二、三年、熱心に映画を論じて、そしていつの間にか、映画から離れてゆく》――こういう者らは《なぜ、映画の批評を書くのか》。それは試写室で映画を見る特権を享受したいというエゴイズムからだけではないのか。こんな調子で、大島は例えば花田清輝を槍玉にあげ、いくつかのすぐれた映画批評を残したが、トータルな姿勢は前記のような高見の見物的な傍観だった、と論断している。
 花田の映画批評の頂点と大島の作家的出立点とがある時期併走していたことを考えれば、当然のきびしい判定だともいえようか。花田の映画エッセイのはらんだ一つの先駆性と、しかしそこに流れ込んだ否定しがたい私小説性とが、年少の実作者にどう映ったのか、それはそれなりの興味ではある。考えてみれば、くだんの吉本の映画批評にしても、花田のオルグによって、この時期に開始されたのではなかったか。
 しかし問題は映画批評とはどう成立するかという一点だった。

 大島の文章で特に次の部分が印象に残った。  
 《そうした文学者の映画批評が、それ自体一個の読み物としては面白くとも、現実の映画のなかには何らの力を待ちえず、そしてそのことが映画批評を書く文学者にも微妙に反映して、彼らのほとんどが結局短期的な活動しか行いえなかったことの方をより重視しなければならぬ》
 今、批評が存在しない(客観数量的に存在しない)ところに、ぽかりぽかりと作品が浮かんでは消えてゆく。「批評家」たちはそのうちの任意のAなり、Bなり、Cなり、あるいはそれらすべてを貪欲に喰いちらかしては何事かの言説をひきさらってこようとする。
 両者の間に何らかの相互作用があるのか。絶望的なコミュニケーションの不在が横たわっているだけだ。文学者の映画批評に一過性の陽気なニヒリズムを嗅ぎ取った大島の怒声は、しかし今日の映画言説全体に向けられた響きであるにとどまらず、この不在への怒りであるのだろう。不在は更に深まっている。映画言説屋とは依然として、人より多く人より先んじて映画を観て、それを語る特権に居直っている連中のことであるらしい。
 わたしは、この一年、いくつかの機会に、このような土壌の映画批評に何らかの論陣を付け加えたが、何か口の中がほこりっぼくなるような、小林旭の歌の《月に吠える犬のように、何にも救いはないけれど、荒れてみたのさ》的な気分に、その都度、押し戻された。わたしもまた一過性のそれ自体読み物に完結するふうのエッセイの材料にたまさか映画を選んでいるだけなのか。答えはひきずる他ない。

 『暗室』にかえろう。
 この主人公の、ただどうしようもなく取り残されてゆく男に、何かを重ね合わせるような憐愍に充ちた観方もまたあるだろう。暗い部屋の中の紋切り型の性行為。だがこの男にはもともと喪われるべき何物かなどはない。
 かれが喪うのではない。かれがただの移り気な女たらしであろうが、少しは色事にも熱心な《恋にも革命にも失敗し急転直下堕落していった》顰め面のイデオロジストであろうが、映画を沢山見すぎてパーになった映画言説屋であろうが、変わりはない。
 何か、のほうで喪われるのだ。
 土台、愉悦に満ちたセックスなどではないのだ。そんなものがどこにあるか。
 ある女は華やかで、ある女は騒々しく、ある女は重苦しく、ある女は空気のようで、ある女は従順だ……。
 暗い部屋の中でマリオネットとたわむれる。という意識。それに苫しめられる空虚。『暗室』は映画についての映画なのだ
 暗い部屋の中でマリオネットとたわむれるようにわたしはずっと映画と関係しあってきた。
 ただどうしようもなくからみつき、そしてどうしようもなく去ってゆく映画たち。
 わたしはそれらを愛している。愛してきたことであった。
 それを語ることは、どこまでも「一犬、虚に向って吠える」の類い以外ではないのか。


「日本読書新聞」1984年1月16日号

昭和大軽薄の夜がきた [AtBL再録2]

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 時節外れにストーンズの『ハイ・タイド&グリーングラス』をひっぱり出してきて「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」を聴いています。小生は今不機嫌なのです。映画評どころではありませんね。

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 ハル・アシュビーの『ローリング・ストーンズ』をごらんになったわけですか。
 ラストのタイトル・バックに何故ジミ・ヘンドリックスの「スター・スパングルド・バーナー」が流れるのですか。ストーンズのコンサート・フィルムにですよ。あの胸くそ悪い反戦映画『帰郷』を想い出しましたね。大体が、この映画が『レッド・ツェッペリン――狂熱のライヴ』のような解釈半分ライヴ半分のフィルムだったり、『ラスト・ワルツ』のようなインタヴュー構成をジョイントしたフィルムだったり、という話なら見なかっかです。最初から。しかしまるまるのコンサート記録だというから……。
 二点を除いてはね。ラストのジミ・ヘンと「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」。二十年前のデビュー当時、同曲を歌うかれらの若き姿をモンタージュする位ならわかりますがね。おまけに、アウシュヴィッツや南京の記録フィルムが挿入されるとなると、かなりの創り手の解釈が大手をふってくる。
 一体、二十年間ロック・シーンの前線でこの曲を歌ってきたかれらは好戦主義者てあるとでもいいたいのか。戦争の虐殺の加担者であるとでもいいたいのか。どういう聴き方でストーンズに対しているのか。じつに支離滅裂な解釈で不愉快きわまりなく、古いレコードでもう丁度「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」を聴いてみたのです。

 そういえば山川健一の小説『鏡の中のガラスの船』には、ストーンズの「レット・イット・ブリード」や「悪魔を憐れむ歌」をバックに内ゲバ殺人の記憶を語る学生が登場しましたね。
 山川直人の『ビハインド』も内ゲバを背景にした学生生活の映画でしたが、BGMは徹頭徹尾ディランでした。
 なるほどFor the Time They are a‐changin’ですな。
 時代は変る、ですよ。もう今や、時をかける少女ですよ。

 『時をかける少女』ですね。やっと本題に入りましたか。
 時をかけない大林ですよ。おまけに赤川シンデレラ・アイドル路線をもてあました根岸です。もう一つおまけに、二本立ての映画館にオジサン映画評論家の入り込む余地はなし……。
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 曲り角にきた薬師丸、退場の予感ですか。押し付けられた監督に同情致しますか。
R 同情して欲しいのはこっちです。映画館をかけるオジサンのほうですよ。『探偵物語』の次は『刑事物語2・リンゴの詩』で、どちらも満員の立ち見なのですから。武田鉄矢のシリーズ、杉村六郎第一回監督作品ですが、どうですか。期待はできますか。
 寅さんシリーズの持ち昧にパーカー風ハードボイルド教育論をプラス。一応の水準にこなしていますが……。
 ますます不機嫌になります。

 中山潔・夢野史郎の監督・脚本コンビは『実録・痴漢教師』『OL拷問・変態地獄』の二本がありましたね。
 立ちませんよ。
 映画館と試写室をかけて疲れきったオジサンのチンコの話ではありません。マイナー映画が状況の上ずみ部分から猪突して、それをどれだけ奥まですくいあげてこれるかの映像ゲリラの戦果についての話です。
 一緒に見た梅沢薫の『少女地獄・監禁』のように明らかに限定ポルノ戦線の守備範囲で精一杯の刺激性にあふれたものを狙っている傾向もありますが、もうすでにピンク系・にっかつを含めて「エロ映画」の現況はそういう楽天性にはないと思うのです。
 かつてのロマンポルノの属性として、名もなく・どぎつく・いやらしくの要件が考えられましたが、まさに今や時をかける陰毛カイカイ、エロ映画とは現代日本の性娯楽産業の領域でももっとも後進的なクソ面白くもない化石めいた物件に退行してしまっているのではないですか。ビ二本やノーパン喫茶のアイディアを昭和軽薄体=オモシロかなしズムによる独創的編集感覚と規定したのは南伸坊ですが、同じ伸坊の命名による「慢性インポシンドローム」の一等ふさわしい実例がエロ映画の現況ではないのでしょうか。
 この停滞の突破口はゲリラ性の強化にしかないと思うのです。もっともこれは若松孝二以来の十年一日のテーゼで、今更ながらの気恥しさもあるのですが……。昨今の「にっかつ」の右往左往ぶりにしても、大年増うれし恥し路線、二時間引きのばし大作路線、アイドル・オナペット酷使路線、素人ギャルいきいき新鮮路線、フィストファックにオナニーマンズリから本番やっちまったぞバラエティ路線、歌謡カラオケポルノ路線、文芸エロス大作路線……などなど、万策つきはてた「代々木の森」にふさわしい混乱ぶりです。

 だからですよ。ここがインポ・シンボーのしどころという映評オジサンこそいい面の皮なのです。ちぢみますよ、もう。
 あなたは今回は映画ボヤキ屋に一貫しているようですな。あとか怖い。ストーンスの「アズ・ティアズ・ゴー・パイ」でもひとまず聴いていなさい。『午前三時の白鳥』のような弱気の作品を書いて消えた板坂剛みたいなものではありませんか。
 よろしいですか。十年一日のテーゼを繰り返えさねばならないところに、十年一日の日本エロ映画の決定的な貧しさがあると考えます。その間の烈しい振幅や作品的達成について充分に目配りするとしてもです。十年といっても一日、一日といっても十年、多くの創り手とそして映画批評が疲労しパンクするのには充分な期間です。充分すぎる期間です。
 『OL拷問・変態地獄』は性犯罪フィールドにきりこんで正統的な視点を獲得しようと努めた作品といえます。正統とはこの場合、ゲリラに徹するということです。作品を自立させる節操のようなものはこのさい必要ではない。金属バット撲殺通り魔というのが、この映画での一つの素材となっています。そこに港雄一の変態拷問者とその生賛になるOL水月円がからんでくる。彼女は地方出の都会生活に疲れたOLという追い込み方を強いられ、最後には、金属バットで拷問者を逆襲して殺した女装の通り魔を「男娼」として囲うという帰結まで進みます。
 当然、破局が来て、彼女はかれを撲殺せざるをえず、更に、その行為の故にかれを受け継がねばならなくなるのです。彼女が通り魔殺人者の二号を志願するのです。ラストの金属バットを買い求める水月円のストップ・モーションは『クルージング』風の仲々出色のものです。

 あの金属バットは殴ったらボコボコ音がするみたいで、あれは塩ビバットで代用して撮ったんではないですか。
 八〇年代日本の一発ワンショットは、一柳展也の金属バットだ、とは藤原信也のアフォリズムです。中山の映画ではあくまで『クルージング』の転用というところが核心になると思います。一億総通り魔ですか。同じ創り手でも素材を性犯罪ドキュメントの通り一遍の方向におさめてしまうと『実録・痴漢教師』のような駄作になります。
 同様の傾向でつまづいたのが崔洋一の『性的犯罪』です。

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 妻妾同居の三角関係から派生する破れかぶれの保険金詐欺事件という題材、少し前に高橋伴明も『性犯罪脅迫暴行』で扱っていました。どっちもどっちですだや。途中で寝てしまった。三角関係が三角共犯になるプロセスの心理ドラマも担おうとした助平根性が場違いです。心理ドラマが何だ。エロはエロ、ひたすらエロではないか。つまらない、全く。
 カメラを視線の地平に固定した静的画面に、そのドラマと三人やりまくりを充填しようとした意図はわからないでもないのですが、崔の力コブが空転してしまっていることは確かですな。実録を追って文体を喪う、これはかなりシンドイことではありますまいか。
 ともかく『十階のモスキート』におけるキャロルに代置できるものをこの映画では聴き取れなかった。あるいはと思わせる断片もないではないですが、徒らに焦る表情が見えてくるようで疲れました。
 一方、上垣保朗の『少女暴行事件・赤い靴』は、やっと自分のスタイルを確保したと思わせます。『ピンクのカーテン』三作で充分に暗くはなりきれなかった上垣の地肌がじとじとと出てきます。歌舞伎町ディスコ女子高校生惨殺事件というトピックにからめて、地方都市のたった四人の暴走族とか両親の離婚から非行化する少女とか、おそろしくステロタイプな設定ばかりを使っても、それでも上垣のスタイルは潑溂と伝わってきます。かれは力をぬいて、ダランとしています。フィルターのかけ方で成功しているともいえます。それもまたゲリラの一つの行き方ではないでしょうか。

 好調な中村幻児は『連続23人姦殺魔』でゲリラに徹した職人芸を見せています。少しばかり力をぬきすぎて、過度にホップな文体に悪のりしたようでもありますが。屍姦に第一等の快楽充足をおく稀代の性犯罪殺人者を扱って、間違っても澁澤龍彦の世界に悠悠とすることがないのは正しい方向です。ここでは破調によって陰惨さと対象密着とをはぐらかそうとする嗜好がよく見えます。その範囲では健闘めざましいというところてはないでしょうか。
 シェイヴィング・クリームを若草山にぬりたくって陰毛を剃り落とし、ただもうめったやたらにネブりまくって、タンポンまでくわえてひきずり出し、しゃぶりまくるという屍姦シーンは、もうめったやたらにやりすぎではないですか。悪趣味ですよ。
 悪趣味大いに結構。何をいいだすのですか。ケッコウ毛だらけ剃りあと泡だらけではありませんか。ボヤキすぎてつぶしのきかない映評おじさんは、映倫的発想と顔付きの鎖につながれるしかないのですか。やりすぎ・いきすぎ・ゲリラの目、ですよ。ただの事件追認のリアリズムのどこが面白いというのですか。そういうあなたの好みはかつての東映歌謡映画的まるだしの歌謡ポルノ『ブルーレイン大阪』(小沼勝監督・高田純脚本)に落ち着きそうですな。図星でしょう。話はわりとまともに作ってあるし、感情移入もしやすいでしょう。
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 何とでもいってくれ給え。こんなものかと思ってしまいます、実際。エロ映画時評の夜も更けた。開き直るのもいい頃合いかもしれません。どいつもこいつも、ほとほと愛想がつきた。それにあなたのお喋りの次の題目ぐらい先刻予想がつきます。歌謡ポルノのもう一本『三年目の浮気』(中原悛監督・森田芳光脚本)は、別の意味でのポップを代表している、とかそんなことでしょう。森田にとっては『家族ゲーム』の余剰の仕事であることは自明です。力をぬくもぬかないも、最初から軽いのですから。いいとも、いいとも。ポップ・ステップ・ジャンプ……タイム・イズ・オン・あちら側の発想ですよ。
 それは、『家族ゲーム』の悪意を素通りして表層を笑いちらかしているような観客問題もあるのではないですか。
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 冗談じゃないです。森田は善意の作家です。それも極度の。ポンポン蒸気に乗って河向うの団地を訪ねる家庭教師の場面を見れば、それははっきりとわかります。
 あの人物の内的風景には、きっと『ランボオⅡ』を書いた小林秀雄の詩情が巣喰っているのです。
 ――《その頃、私はただ、うつろな表情をして一日おきに、吾妻橋からポンポン蒸気にのっかって、向島の銘酒屋の女のところに通ってゐただけだ》。懐中には《一っぱい仮名がふってあった》メルキュウル版の『地獄の季節』と《女に買って行く穴子のお鮨》
 いいとも、いいとも。
 それに、河向うの団地という設定とは、つまり、話題の本『東京漂流』のほとんど弄劣なパロディが狙われているといえるでしょう。定住の危機を問い詰めようとした本を手がかりに、同じものを冷笑の対象に転化しようとする欲求です。この耐えがたいヘドロ的状況のはるか上層の上ずみに浮き上がって形をなしてくる昭和大軽薄小説や雑文〈スーパー・エッセイ〉や映画やそれらの横断が、身の毛もよだつボーイ・ソプラノで奇怪なポップスを垂れ流してくることに、小生は不機嫌になるのです。全くもって優等生のやり方です。
 視点の傲慢と軽快さにはあきれるばかりです。やめて下さい・やめられませんか……。これらのものの「様々なる意匠」の消化力の旺盛さに対しても何かおぞましい想いを禁じえません。
 小林秀雄に関しても一柳展也に関しても《人々がこれに食ひ入る度合だけがあるのだ》といえるだろうし、また《恐らくそれは同じ様な恰好をした数珠玉をつないだ様に見えるだろう》ということであります。
 家族解体あるいは解体家族という認識は悪意でも善意でもありえない。そしてそこを笑ってやって下さいという創り手のモチーフには善意以外の何がありますか。
 『家族ゲーム』フィルターはありませんや。あるのは額縁です。観客はその枠に入る範囲の舞台劇をながめることを強いられたのです。もっとも森田がハル・アシュビーほど独善的なら、ここにヒロシマやナガサキの記録写真を挿入して、さあどうださあどうだ的に迫ってみせるでしょうがね。

 ああ疲れた疲れた。小生は「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」をもう一遍聴いて寝ることにします。Yes it is〈いいとも〉、Yes it is〈いいとも〉……

「映画芸術」346号、1983年8月


ひとコマのメッセージ   対談・崔洋一vs野崎六助 [AtBL再録2]

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崔洋一
映画作家。一九四九年長野県生れ。作品に『十階のモスキート』『性的犯罪』『いつか誰かが殺される』『友よ静かに瞑れ』『黒いドレスの女』『花のあすか組』『Aサインデイズ』

野崎 崔さんは『愛のコリーダ』の助監督、『バスター・オン・ザ・ボーダー』のプロデューサーというかたちで名前が出てたわけですが、いまやっと『十階のモスキート』という作品でデビューされる。それはたまたまであるかも知れませんが、もっと早く出てきてもよかったという感じを受けるんです。その辺は一九八三年の映画状況にからめてどのような感じをもっておられますか。
 ようやく公開も決ったということで、どうしても『モスキート』が基準になっちゃうんですけど、それは非常にひょんな出会い――いってしまえば日本映画産業の抱えているいい加減さ――の中でのデビューの仕方ってのがひとつ。それと、主観的には早く撮りたかったというのは当然あるわけですが、ぼくがもてる企画――直接的には映画会社と切り結ぶこと、オーバーにいえば世の中との切り結びですね、それがなかなか合わなかったというのが一点あったんですね。ここ二、三年は二十代後半~三十代前半の映画監督が比較的多く出た年ですよね、その中でやや遅れた――というよりちょっと遅かったとはいえるんじゃないかな。
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野崎 それはライバル意識みたいなこと?
崔 それが不思議にね――ぼくはずっと職業で助監督をやってきたでしょ、そういう中での人間関係ってのが比較的大事なヒトなんですね――それと殆ど関係ないかたちで出て来た人が多かったしね。他の連中がデビューしたときには、そういう「撮れる状況」ってのは意識したんだけど、結果的には出来上ったモノだけがそういうことであって、ライバル意識とはちょっと別のことだな。

野崎 『モスキート』はひとつのプログラム・ピクチュアだと思うんですよね。いい替ればB級作品てことだし、いまの日本映画には作る状況はあまりない種類の映画ですよね。そこで崔さんの主張なりは別にストレートに出さなくてもいいという感じはあった――その枠内で力量のあるものを作ればそれでいい。だからデビュー作としては非常に気負いのないものになっている。もっと悪い条件で撮ってる人はたくさんいると思います。たとえば、今年デビューした人に開しても――『悪女かまきり』の梶間俊一にしてもね。それと二、三本撮った若い監督ってのは、なんか売れてしまうとちょっと変貌してくるっていう気が……。
 それは、ぼくも圧倒的に感じている。ぼく自身もロマン・ポルノを引き受けたりテレビをやったりするんですけど、それとは別に変貌してくるっていうか――非常に俗っぼい言いかただけど、原初のこころざしがどんどん淘汰されてくのはあまり好きじゃないね。
野崎 ひとつの側面として、資本に買われるみたいなことがあるでしょ。
 うん。それをいちばん感じたのは『オレジロード・エクスプレス』(大森一樹)観たときね。かれ、あれが最初ですけど、メジャーはね。
野崎 大森の場合、マイナーの頃から観てるんだけど「なんじゃ、コレ」って感じで、あんなのが買われたってどうってことはない(笑)。

 俗称「自主製作」(?)8ミリ派(?)の、このごろの出かた――あらかじめ上昇志向を軸に置いてある傾向がチラリと見えると、あまりいい気持ちはしないね。
野崎 へんな話なんだけど、文壇の中の小説書きで売れてく連中の意識と、若い映画作家のある部分というのは殆ど共通してるんじゃないか。自己の表現意識に関しても、社会性をどういうふうに描くかに関してもね。例えば『家族ゲーム』(森田芳光)なんかを観ても、非常に細部に凝った映画だと思うけど、それ以外なにもないわけですよね。
 ぼくはそこが面白いと思ったけどね。『の・ようなもの』を観たときにもそう思って、案の定というか。どんどんそうなってくるね。

野崎 暫く前ですけど李学仁が在日朝鮮人映画作家の第一号だという触れ込みで出てきましたよね。かれの作品意識の古さは別にしても、在日朝鮮人ではじめて映画を撮ったという気負いかた――日本人の生皮を引き剥いでやりたいとか、ひとつの型にはまってるといえるかも知れないけど告発意識みたいなものがあって、――ジョニー大倉が本名で出るというトピックも含めて、そういうことが『異邦人の河』にはありましたよね。変な較べかたで中しわけないんだけど、崔さんの場合にはそういうのがあまり表面には出てこないですよね。
 そうですね。学仁が『異邦人の河』を撮ったときぼくが思ったことと、いまの自分はあまり変っていない。ぼくの側から言えば、それはいつかオトシマエをつければいい――それが第一作目か二作、三作目かちょっとわからんけど、でもオトシマエはつける、ということでいい。そういう意味で学仁が持っていた精神的な昂揚した部分――気負いというか、いま野崎さんがおっしゃったようなものは、ぼくの中にはあまりないですよね。ア・プリオリにはない。


野崎 ちょっと『狂躁曲』の話をしてもいいですか? あれを原作にして撮られるということですが。
 じつは全然うまくいってないんだよね、弱ったことにさ(笑) いろいろ問題はあるんだけど、『狂躁曲』に関しては絶対にやると、どういうかたちになるかは、まだちょっとわからないんだけども。
野崎 梁石日の世界に魅かれたということ?
 本人に会って、特に(笑)……。
野崎 作品自体に関していえば、かれも告発みたいなものは引っ込めてますよね。ちょっと中間小説的な面白さに行く危険性はあるんだけれども、タクシードライバーの疲労感――東京中グルグル・グルグル廻っている、なんともいえない疲労感ですね――そこから逆に今の東京という日本の首都を捉え返すという視線――。
 そう、その視線を感じたな、読んでみて。で、瞬間的にぼくなら出来る、というよりも「俺しかいない」というのがあった。だから例えば『伽耶子のために』小栗康平が撮るのは当り前なわけね。あれはああいう人たちが撮ればいい。いまヤバイのはああいうことが全て『狂躁曲』も含めて十把ひとからげにされてしまうことのほうがよっぽどヤバイ。周辺の若い役者志望なんか、在日朝鮮人の党派性の中では浮足だってる部分も随分いるみたいだけど、何でそんなにガタつくのかわかんないんだよね。

野崎 『十階のモスキート』に話を戻しますが、批評なんかは気にするほうですか?
 気にしない、全然。そりゃ、褒められれば人並みにうれしいけどね。批評もね、『モスキート』に関してどこかできっとアンチが出てくるだろうと思って、じつは期待してた部分があったわけ。それが、一個のゆるやかな、映画というものを基準にしたムーヴメントの中で「若手を叩くのはちょっと」みたいな傾向があるでしょ。俺は一つそれが気に喰わないわけね。だから真っ向、誰かいってくると思ってたら、それが極端なかたちであらわれたものはいまのところないわけですよ。なんとなく褒めてるのか、好きなのか嫌いなのかようわからんやつが大半であって――で、どこでスリ替えられてゆくかというと、内田裕也で全部スリ替えられてゆく。
野崎 なるほどね。でも、『モスキート』の公開メドがたってない時点で「こりゃ、どうしようもない」とか腐すひとがいたとしたら、そりゃ、そっちのが非道い話だ(笑)。
 さっき、李恢成を小栗がやるのは当然だという話が出ましたが……。

 『伽耶子のために』に関してはね。あれはああいうかたちがいいんじゃないですか、というね……。
野崎 いや、李恢成の文学全体に対する評価みたいに感じたんだけど。
 それはなきにしもあらずだけど、例えば「武装するわが子」という短編なんか好きだし、『見果てぬ夢』にも感ずるものがあったしね。素材の把みかたが非常に巧みなかただなと思うね。
 金石範の昔の小説なんかも好きだな、『鴉の死』とかね。チラッと、ああいうのもやってみたいなという気が横切るときもあるね。
野崎 あれを映画に? どういうイメージになりますかね。
 済州島で撮るわけにはいきませんからね。具体的になると何かに置き替えなきゃなんないかも知れないけどさ。俺は別に時代劇をやるつもりはないし。例えば現実の人間でいうと文世光なんかの顔とちょっとダブったりすることがあるわけ、『鴉の死』の主人公がね。さっき『異邦人の河』の学仁の話が出たけども、その辺が『異邦人の河』から『詩雨おばさん』、『赤いテンギ』と流れてゆくかれとぼくとの違いじゃないかと思う、多分ね。


野崎 崔さんの仕事を見てるとプログラム・ピクチュアの中の何気ないひとコマからメッセージをこっち側が受け取らなきやいけない、それだけチョコットしかいわないというかね。そういうような見方が暫く続くのかなという感じがするわけです。
 そうね。具体的にはそういう形態が多くなるかな。
野崎 いまのお話でいうと、『鴉の死』の主人公と文世光の顔がオーバー・ラップするみたいなところは、何らかの犯罪者の映画の中のひとコマでパッと出てくるようなね。そういう見方をする客はあまり多くないですよね。

 話は突然かわりますが、感じとしては同世代でもう一人や二人――学仁とエールの交換してもつまんないし――ほんともう一人は出てほしいというのが凄くあるな。金秀吉さんの『ユンの街』というシナリオを読ませてもらったんだけど、はっきりいってつまんないのね。『異邦人の河』とどう違うのかなって気がしてね。だいぶゆるやかになったラヴ・ストーリーなんだけど。でも友愛映画の融和映画を撮ってもしようがねえだろ、俺が。
野崎 『異邦人の河』のとき、韓朝日連帯をめざす「緑豆社」の運動に、頑張りたいと思った人がワッと行くような状況があったわけでしょ。
崔 でも、現実はまるで違ったわけでしょ。
野崎 現実には背負い切れなかった。
 俺はそういうのはしたくない。
野崎 背負い切れないというのはかなり悲惨な事態ですよね。
 ヤバイよ、やっぱり。
野崎 そういう志操、気負いみたいなものがずっと底に流れてると思うんですが。崔さんは「ヤバイ」といったけど、李学仁にしたらそこら辺のことでしょ。
 かれはかれなりの、かなり追いつめられた問題意識というものはあったと思う。ただ俺はこれからもそういう組織のしかたはしたくないと思ってるな。少なくとも目の前の現実には側してないもの。そういう思考法で映画を作るってのは、もっとやれるべき部分かいるわけでしょ。だから「どうぞ」ってなもんかな。
野崎 でも、崔さんの仕事は「日本人のものだ」っていう通用の仕方をしてゆく可能性が凄くあるでしょ。

 そういうことはあるんじゃない。でも最終的には崔洋一は崔洋一であって崔洋一以外の何者でもないってことでしょう。そういうこともひっくるめて、ぼくはぼくの中で日本にオトシマエをつける――無形有形の同胞諸君を巻き込もうとは思わないけども――これはやりたい。どこでやるかといったら、映画でやると。それはお題目のようにあるんだけれども、現実の中でいうとそのことは非常に困難なことが多いね。
 例えば『狂躁曲』のことに話を戻せば、シュチュエーンョンとして主人公を日本人にしちゃまずいんだろうかという案が非常に多かったわけですよ。これにはさすがに俺もビックリした。「冗談だろう」ってね。ところがかれらは真剣なんだ。じゃあ、何か面白かったかっつたらね、「ドライバーの生態が面白い」って。
 とっかかりはそれでもいいよ。でもそれが日本人の主人公であるということは決定的に駄目だ。それは全く明快なことでしょ。あの原作を読んで、「これはシビアすぎるよ」っていう人もいたわけ。何がシビアなんだって俺は聞きたいよ、逆にね。だから、従って、李恢成『伽耶子のために』は成立しても、『狂躁曲』は成立しない部分がそこらへんにあるというのかな。それは割りと俺がやってゆくうえでずっと付きまとってくることかな、俺が仕事をしてゆくうえで。


  『潤の街』、金佑宣〈キム・ウソン〉監督、金秀吉〈キム・スギル〉脚本は、一九八九年公開。
  『狂躁曲』は、『月はどっちに出ている』として一九九三年に公開。


「日本読書新聞」1983年7月18日号

「モラトリアム時代の青春残酷」 後篇 [AtBL再録2]

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ウェディングのあとは核家族の崩壊映画

 ウエディング映画の次は順番としてやはり、核家族崩壊映画になるようですね。《幾山河 越えさりゆかば》の心境ですか。
 そうです。そうです。もともとこの種の題材ほど使いやすいものはないのです。
 そんなに喜ぶのはみっともないですな。『ザ・痴漢・ほとんどビョーキ』で下元史郎が、人の不幸に出会わなければモノが役に立たないマザコン男を快演していましたが、あなたもそれですか。

 ざっと見たところでは、『キャリアガール・乱熟』『プライベートレッスン・名器教育』『春画』『卍』『団鬼六・蛇の穴』『時代屋の女房』『十階のモスキート』『セカンド・ラブ』。大体、そこにおさまります。この中では『キャリアガール・乱熟』(和泉聖治脚本監督)が最高です。同じ水月円と末次真三郎の主演コンビでも『名器教育』(珠瑠美監督、木俣喬脚本)はかなり落ちます。売れっ子西岡琢也脚本の『春画』は趙方豪の最初の主演になるかと思いますが別にどうということはありません。趙は京都の満開座時代同様どうでもいいような役で沢山出ていますが、ようやくの主演、しかし少し違うのではないか、という気はします。この映画ではボクサーくずれの浮浪者の役柄をこなしていましたが、もっといじましさに徹したところにかれの持味が出るのではないでしょうか。いじましさの爆発のさせ方を安易に処理しているように思うのです。

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 子供のない倦怠期に近付いた夫婦に不気味な闖入者が入り込んでくるという設定は、『春画』にも『卍』にも『蛇の穴』ヽにも、また少し前の『赤いスキャンダル・情事』(高林陽一監督)にも共通しています。『春画』では趙の扮する空巣狙いだったその侵入者は、『卍』では、樋口可南子の翔んでるレスビアン娘に変わっているというだけの話です。高林の映画が有閑夫人の万引きから始まるのと似て、『卍』が高瀬春奈の同じようなシーンから始まったので、またダサイ映画を見さされるかと不安になったです。
 横山博人も谷潤原作で権威をつけようと思ったかどうかしらんが、相変わらずまどろっこしい導入なのでした。これはじつは、高瀬だけがひたすらダサく、かつての日活やくざ映画における松原智恵子のように、出てくれば衆人みな白らける、そういう存在だったからに他ならないのです。原田芳雄も樋口可南子もドラマの枠組みを相対化する方向で演技を組み立てています。しかし高瀬春菜だけがひたすらダサく、出て来れば白らけ、裸になれば更に――本人は芸術エロ映画の芸術に賭けて脱いでいるのだろうが――だらんとしまりがなく、不自然でそして醜いのです。

 崩壊核家族映画の教科書『ウィークエンド・シャッフル』に関して、ある映画評論家が《絶対にこういうプレハブ的核家族を形成してはならない》と書いていますが。
 かれは気が狂ったとしか思えませんな。PTAの先鋭分子から発された低次元の感想ならばともかく……。小生は、山谷哲男や原一男という同世代のドキュメント・フィルム作家批判から映画批評を開始したこの人物には、一定の興味と期待をもってはいたのですが、もういけません。映画評論屋がどんな家族を持ち、また望んでいようが勝手ですけれど、それを評論の価値判断に密通させてくるようでは、おしまいではありませんか。朝日新聞か怪人の折紙をつけた板坂剛を気取って、このような《雑文屋をこの世界から抹殺することもまた、映画ジャーナリズムに関わる者の使命なのである》とふんぞりかえってみたくなりますよ。

外野席ウルサイ! 女は骨董屋か

 さっき少し出ました『時代屋の女房』ですがね……。
 逆に問いたい。過激屋にとって女房とは何か。それは骨董品か、置き物同然の飼猫の一種か、と。
 あまり焦らないで下さい。森崎東にとっては何年かぶりの作品で、思い入れする人も多いかと思いますが、森崎作品としては全くの平均点だと云えるでしょう。
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 前作の『黒木太郎の愛と冒険』は饒舌すぎて抑制をなくしていると感じました。その前の東映作品『喜劇特出しヒモ天国』(川谷祐三の初めての主演作で芹明香のアル中ストリッパーも見事だった)が最高傑作だと愚考します。
 また森崎の饒舌さにつきあわされるのかといやな予感もありまして、ですが、五十代の森崎が四十代の原作者や三十代の脚色者よりもずっと過激だ、などという五十代の評論家のはしゃぎぶりはいかがなものでしょう。外野席の饒舌さが今度は不愉快です。大体、「過激派狩り」でいったんは排撃された過激なるコトバを風俗用語に転用した村松風過激は、まぎらわしいから漢字では書かずに、カゲキ、あるいは自立派好みに〈過激〉と上下にカサをつけて表記して欲しいですな。元祖村松の用例からして、カゲキは意味するところのものではなくて、ほとんど表記にすぎないのですから。 一家団欒にアンコウ鍋などつっついて一杯やっている最中に女房が「ちょっと出て来ます」といい残して「家出」してしまうようなカゲキな夫婦(猫一匹同居)が、歩道橋のすぐ下にある街角の古物骨董商を営んでいる。そこで夫婦が、時代屋にとって女房とは何か、いや違った失敬、時代屋にとって骨董売り買いとは何か、についてディスカッションする場面があります。
 古物を時代の闇から引っぱり出して商品流通させるパトスは、優しいのか残酷なのかという論点です。これはそのまま、理由もいわず数日間「家出」してしまう女房に何も問わない、その過去も問わない、という主人公のハードボイルド好みにもスライドして、この作品世界のキーワードとなっているようです。

 「お前なんで時代屋になったんや? 他にしたいことなかったんか」と質問された主人公の意識に、六〇年代叛乱の一つの光景が挿入されます。これがマルチュー対マル機の市街戦なのです。

 ずいぶん余計なお節介じゃありませんかね。過去については問わず語らず、後生大事に抱きかかえるようにして、背中をまるめ、今日をただよっている市井人の優しさと残酷さがないまぜになったしたたかさに〈過激〉な人生模様を、解釈ぬきの情感どっぷりに提出するのが、この映画の位置なのですが、おかしなインサートは止めてよして頂きたい。それに女は待ってさえいれば帰ってくるものだとの認識はいかがなものでしょうか。待ってやることの優しさを主張するためには、女の魂にまでは踏み込めないから骨董品扱いに感情をとどめておくという前提がどうしたってあるのです。こんなものは、待たれてやることの優しさが反対命題として主張されたら、くずれてしまうでしょう。帰ってくる女房――パラソルをふりながら歩道橋を軽々と歩いてくる女房を二階の窓から感涙のヴェールでむかえるまなざしとはこの程度のものでしょう。

 これは崩壊核家族映画というより「卒業」映画なのでしょう。
 むしろ中年モラトリアム映画。


大原麗子の鼻水ずるずる

 そうですね。タイプとしては崔洋一の『十階のモスキート』もここに分類できるでしょう。これは公開予定のたっていない問題作なのですが……。

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 型は同じで、メッセージは全く逆です。逃げた女房にゃ未練はあるがエサを欲しがる猫まで家出、じっと耐えての昼寝待機主義こそ〈過激〉道の奥義、これが自民党公認の、いや失礼、自立党公認の村松=森崎風風俗喜劇のいいたいことです。一方、『十階のモスキート』に関しては、内田裕也のあの不機嫌な仏頂面もここまでくれば全く見事という他はないです。『水のないプール』からの疾走はまだ続いているのですな。若松作品の異議申し立ての部分をかなりの卒直さでバトン・タッチして、仕上げています。第一回監督の崔は気負いもなく、たんたんと正攻法で、余力をためつつ作っています。むしろ恵まれた現場において製作することができたといえるようです。
 完成後に条件の悪さにみまわれているのですが、『卍』にしたって、現職の警察官の女房がレスビアンに耽溺し、相手の女を同居させて家庭崩壊の危機をまねいたところ、ダンナも油断ならず相手の女をものにして奪り上げてしまった上、いくらダサい嫁ハンとはいえ、絶望的な自殺に追い込んで新しい女との新生活にはいるという、何とも不道徳きわまりない、そして原作の七光りでの権威付けをはいでみれば、ただのエロ映画でしかない警官侮辱作品で立派にあるではないですか。あんまりふざけるなといいたい。それに中年モラトリアム映画が『セカンド・ラブ』(東陽一脚本監督、田中晶子共同脚本)などと続くと反吐が出そうになります。何ですか一体、これは。

 東陽一もうまいですな。
 うまくもなるでしょうよ、全く。
 大原麗子は泣いたときに涙より先に鼻水がずるずる出る、このリアリズムが良かったですな。小林薫はテレビドラマがせいぜいといった役者です。
 こういうクロワッサン風キャリアウーマン映画は仲々支持率もよくてなくならないものでしょうか。モラトリアム中年の現状維持的開き直りと自己弁護に付き合わされるのはもうまっぴらですよ。大人にもなれない中年団塊世代の老いの繰り言をいくらきいたって何の腹の足しになるというのですか。


夜の街を翼を持たずうごめいて

 時間もないので、少し走りましょう。『丑三つの村』、古尾谷雅人も良かったが、原泉が圧巻でありました。佐多稲子の中野重治追悼一本『夏の栞』は未読ですが、この映画の祖母役を通して、原泉が、半世紀の伴侶中野へのレクイエムを謳っていると感受されたのです。『遠雷』のババ役のお付き合いといった程度から較べれば格段でしょう。彼女の存在感はこう告げています。モラトリアムであれ、ウェディングであれ、崩壊核家族であれ、世代の交感という一件は極めて重要だ、と。
 その意味で、『夜をぶっとばせ』のドキュメンタリー・タッチは素材主義に足をひっぱられた結果に思えてどうにも買えず、『ションベン・ライダー』の思い込み一点突破強行の破れかぶれに可能性を見い出します。残念ながらあまりいっぱいいえないのですけれど……。

R 『キャリアガール・乱熟』でしめましょう。タイトル・バックに出てくる変態男を演じた俳優は何という人なのでしょう。『丑三つの村』にもちょっとした役で出ていましたが、水月円とからみあって、自分の尻にバイブレーターを突っ込みながら、オシッコ飲ませて、飲まして、とせがむいやらしさは仲々のものでありました。
 昼は辣腕のジャーナリスト、夜は数知れない男に肉体を売るコールガールという一応の筋立てで、実家にあずけたままの三歳の子供、若い女のもとに走った小説家志望の前夫、純真な恋慕を棒げる童貞の新聞配達少年などの関係が次第に明らかにされるわけです。
 『セカンド・ラヴ』の大原麗子がローラー・スケートの少年に衝突されて頭をケガするだけなのに較べて、この映画のキャリア・ガールはやっと希望が見えてきたところで童貞少年にエロブタと罵しられて刺し殺されます。大原・小林のカップルが互いに命に別条のない傷を負ってゆるしあうのに較べてこの映画のカップルには未来がないのです。
 いかにもありふれた二つの映画の筋立てですが、前者がはっきりと時流風俗へのズブズブの迎合であることは申すまでもありますまい。水月円は、全く似合わないサングラスをかける時の他は、健闘しています。夜の時間は暗い色調の粗い画面が退廃を指定します。昼と夜の対照が見事だということではなく、ひたすら、この暗いトーンがよろしいのです。
 夜の街を翼も持たずうごめいてゆく主人公のカットには胸を打つものがあります。ピンク系映画の本来的な暗さではなく、しごく技巧的に捉えられた「青春」の形が幻覚のようにゆらめいて迫るのです。マーチン・スコセッシの『タクシー・ドライバー』の夜でもなく、ヴァルター・ボックマイヤーの『燃えつきた夢』の夜でもなく、ウォルター・ヒルの『ウォリアーズ』の夜でもなく、まぎれもなく和泉聖治の『乱熟』の夜なのです。
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「映画芸術」345号、1983年4月


モラトリアム時代の青春残酷 前篇 [AtBL再録2]

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N 『誘拐密室暴行』(中山潔監督、夢野史郎脚本)あたりからまいりましょうか。ビデオ・マニアによる人気アイドル歌手誘拐事件を扱っています。歌手には敏腕マネージャーたる双子の姉がいて、二人二役でもって世間をあざむいてきたという設定が仕掛けられています。二つのメイン・プロットを強引に織り上げて、かなり見せる映画といえます。この姉妹の葛藤という部分などアルドリッチの『何がジェーンに起ったか』をうまく下敷きにしたと思うのですが。
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 清純派アイドル歌手の番組外での淫乱下半身については、眼鏡を外して歌手に扮した姉の役目となる、外見は対照的な姿である二役トリックということでは、むしろ、ニコラス・ブレイクの『メリー・ウイドウの航海』あたりが直接の下敷きでしょうな。二役を演じている日野繭子は、まあ、可もなし不可もなしという程度で、『時代屋の女房』の夏目雅子の二役が白らけるだけなのに較べれば、少しはマシと云えるでしょう。夏目さんの場合は、設定が見えすいていて、始めから話が一人二役以外には考えられず、だまされた男が阿呆なのか、酔っぱらって幻覚でも見たのか、どちらかというところです。

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 といいましても、この映画の二人二役に関しては、よく工夫はしてあるけれど、どうも出来映えがすっきりしていないのです。ラストシーンがファーストシーンにつながり、また一人の誘拐犯があらわれるというオチも、もう一つ決まらないのですな。ぬいぐるみの人形を使った人さらいは、それはそれで面白いのですが、どうにもツメが甘い。やはりもう一つの眼目である、ビデオ・マニアによる犯罪という猟奇性がよくできています。誘拐暴行犯がインポテンツであるという「原則」は、フォークナーの『サンクチュアリ』やその猿マネであるハードリー・チェイスの『ミス・ブランディッシに蘭はない』以来の常道になっているようです。
 この犯人は、アイドル歌手の実物をさらってきて、裸にむいてベッドの上に転がしながらも、それを被写体としてレンズを通して捉える手続きをぶんだ上でしか感能できないのです。自分でせっかく誘拐監禁しながら、彼女の実在と相い交っては反応することができないのです。どうやら、足元に転がる実物は、ビデオの自分だけの作品に封じ込めるための素材としてしか、使い途がないようでもあるのです。こうした青春の不能を描いて、かなりの努力作とは思うのですが。

 前バリが何度もチラチラ見えましたね。
 興醒めどころではありませんな。こんなものをつけて演技しているんだぞと、観客にあわれさをアピールしたかったのか。どちらにしたってオケケの見えない暗黙の了解領域だから、こちらとしては目をこらして見る義理も何もないけれど、あんなものがちらつくのには、一体何事かと腹立たしくなりました。仲々のシナリオで気負いは買いたいと思うのですが、あんまり仕上げが雑すぎます。

 メカニズム万能時代の不能の青春という一断面を照らし出していると同時に、ビデオに依拠した誘拐暴行犯なる設定は、非常に映画そのもののメッセージ性を委託されている、と思うのです。「縛り物」の縄の喰い込んだ毛ゾリのあとも青黒い陰阜にしても、この部分の前バリちらちらにしても、ポルノ映画表現への規制の不条理さという一点をネガティヴに体現するところに行き着くのではないでしょうか。
 それはこの映画のザツさとは外れた一般論ではありませんか。小生がいっているのは、傑作になったかもしれない材料を、あまり頑張って仕上げなかった作り手への苦言なのです。それにしても、映倫にも原則論者がおって、そもそも毛のはえている範疇自体が不可である以上、たとえそこをソったとしても、そのソリあとの秘部は映してはいけないのだ、それはワイセツだ、と主張しないことが不思議です。
 中山潔という人は、向井寛のラグタイム映画『四畳半色の濡衣』の助監督に名前が上がっていたと記憶しますが、次回作に期待しますか。

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清張のヒステリー公害について
 この作品とは違う意味ですが、『宇能鴻一郎の姉妹理容室』(中原俊監督、桂千穂・内藤誠脚本)も随分と勿体ない芸のない作りだと思います。同じ内藤誠が共同脚本をしている『悪女かまきり』(梶間俊一監督)は、藤竜也作詩・石黒ケイ歌による「横浜ホンキイトンク・ブルース」だけが良かったです。半ば占領地区である混血国籍不明の街の生理、これぞまさしくフォニイですな、キッチュですな。『野良猫ロック』シリーズや『野獣を消せ』以来のそして『ションベン・ライダー』に蘇えった藤竜也の肉体ですな。映画のほうは、素材としての五月みどりをうまく使いえてないのです。この点では『マダム・スキャンダル・十秒死なせて』に数歩ゆずる結果になりました。
N 『天城越え』(三村晴彦監督、加藤泰共同脚本、松本清張原作、野村芳太郎制作)などもついでに取り上げましょう。梶間作品と同じ第一回監督作品ではありますが、非常にアウシュヴィッツな「体制」下で貫徹された力作だと受け取りました。ポルノばかりが「締め付け」じゃない、と思える布陣ですな。清張=野村コンビの「過去の犯罪は必ず暴かれ裁かれる式」の道徳ミステリの綱領に加うるに、加藤泰好みのけがれた女の聖性に対する絶対的思慕という定数が共同して、これでまあよく自分の映画がつくれたものよと、老婆心いっぱいになったです。
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 ラストの三十分間位で全面展開やったですな。少年が天城峠で出会った酌婦(伊豆の踊り子でもなんでもいいですが)と交わす詩情でもって画面を全面占拠したわけですな。いいかえれば、ここの部分にのみしか作り手の「自由」がなかったということになります。小生は『名探偵松本清張氏』を書いた斉藤道一ほど清張に付き合っているわけではありませんが、清張ミステリのヒステリ公害については認識を一つにしますね。いいかげんにひっこんでほしいですな。《そんな裕子にほれました》と主演女優にミーハーすることで、かろうじてこの映画を支持しようとした川本三郎のいじましさも同様です。
N ミーハーは如才ない映画評論屋の戦略ですよ。大体ことあるごとに日本映画危い危いがいわれますが、作り手たちにばかりその責任を負わすことはどうでしょうかね。安全圏で好みの問題をふりまわす言説屋がどうして責任の一端を負わないのか、と小生などはいいたいですな。

 このかん見た映画に引き付けて云えば、『丑三つの村』『ションベン・ライダー』『夜をぶっとばせ』『処女暴行・裂かれた肉』、それに『ピンクのカーテン』シリーズなども含めて、『天城越え』は、今日の青春映画(いや青春残酷映画といいましょうか)の中でモラトリアム映画という正道を選んでいるといえるのです。しかし、四十年後の回想においてその青春モラトリアムを自己規定するという構成は、決定的に平民主義(平和と民主主義のことだ)の市民エゴに醜悪にのっかっているのです。四十年たって、清張好みの老刑事がやってきて、お前が犯人だとバクロすると、そのことに震憾されるそんな人物をまともに想像できますか。人を殺して四十年の鉄面皮を押し通した人物がそんなに簡単に崩壊して、過去の悔悟に占拠されるものでしょうか。
 清張=野村ドラマはこういう時問の亀裂が絶対に自然だという前提で成立しているのです。四十年後に一敗地にまみれる犯人が、一体、四十年もどうやってその犯罪の自責から逃がれて生き延びてくることができたのでしょう。そのことに対する説得はこれっぽっちもないのです。どんな人間だって忘却もすれば変節もします、それを認めないところに『天城越え』の図式があるのです。この映画で、「みなさまがた、今にみておれでございますだ」といっているのは、汁かけ飯の好きな執念深い老刑事なのですからね。冗談ではありませんよ。
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 『セーラー服と機関銃』や『転校生』など、質もそこそこ、観客の支持も結構といったモラトリアム青春SFが昨年は目立ちましたからね。それはそうと、『ピンクのカーテン』シリーズなどは、《いつまでも/そんなにいつまでも/むすばれているのだどこまでも》やりそうでやらない近親相姦寸前に居直った暑苦しい延長十八回的ムードで少し困るのではありませんか。いくらなんでも『翔んだカップル2』なんて考えられんでしょうが。
 視点の問題です。あるべきものかないのです、清張映画は。ワイセツ映画です。

 モラトリアム映画のあとは順序としてウェディング・マーチ映画となります。根岸吉太郎と丸山昇一が組んだ『俺っちのウェディング』がきわめつきになりますな。これは作り手の側が「翔んだカップル」になったということでしょうな。宮崎美子が、どんな試練にも耐えて添いとげます式のブリッ子をしたあと、こっちを向いてベロンと舌を出して見せる場画がありますが、作者の姿勢としてはおおまか、このベロンに尽きるでしょう。
 ただ、再び老婆心でいうと、根岸監督がウェディングづいて、『遠雷』から数えての結婚三部作に向いはしないか、と心配いたす次第であります。丸山に関しては、『汚れた英雄』ではいい仕事をしました。しかし、いかんせんディレクターがあの超能力者の御大で、草刈のケツばかり映し、シナリオの意図はことごとくぶっつぶしました。
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 結婚式糾弾闘争映画でもあった『日本の夜と霧』が上映打ち切りにされてしまった頃を回想して大島渚は、その直後にたまたま自分の結婚式が重なったところ、友人たちが決起してその場を会社糾弾集会にきりかえてしまった、という話をしていました。二十年前の松竹映画です。
N 『ピンクカット・深く愛して太く愛して』(森田芳光脚本監督)もウェディング映画です。「卒業」映画です。『日本の夜と霧』が古びないのと同じに、マイク・ニコルズのニューシネマの古典は、べつだん古びてしまったわけではありません。だから……。

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 『ピンクカット』は細部に懲りました。むしろ小道具の映画という気がします。『ゴールドフィンガー・もう一度奥まで』という女私立探偵ポルノも同様です。カタログ映画です。探偵の事務所の壁に貼られたボガードの『カサブランカ』や『マルタの鷹』のポスターがいいのです。要するにそこだけがいいのです。そこだけしか良くないのです。

つづく


仮面舞踏会の夜 後篇 [AtBL再録2]

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 それは何故か、少し保留しよう。
 少し保留して、崔洋一の公開未定作『十階のモスキート』における世代の交通について考えてみると、ここでの十代(小泉今日子)は原宿で遊んでいる反復でしか現われないが、素行不良・好き勝手破滅の人生を親爺(内田裕也)に先行されてしまうタイプである。


204h.jpg203e.jpg 要するに、一人の「市民」がパソコンにのめりこみ、競艇場通いに狂い、サラ金地獄にはまり、別れた女房には金を取られ、出世コースからも外れ、遂に郵便局押し入り強盗に決起するところの、中年がんばってる映画だから、親爺の「非行」が娘にどう反映してゆくかは作品の外側にはじかれる結果になっている。
 かつて李学仁『異邦人の河』をつくった頃、在日朝鮮人映画作家によるはじめての劇映画という自恃を非常に強調していたのだが、そのことも含めてかれの芸術観の問題はかれの作品を規制する貧しさに結果したと思わざるをえなかった。同様のこだわりの位置付けをすれば崔の作品は日本映画史上で二番目の在日朝鮮人の作り手による劇映画であることになる。
 そしてそういうものとして公開を拒否されているのだ。
 『十階のモスキート』という作品は、こうしたいい方にそぐわない質のものであろうけれど、あえてそう書き止めておきたい。

 『水のないプール』の続篇でもあるようなこの映画は、前作のようなアンチ・クライマックスから一転して、包囲されたまま夜をむかえた裕也の強盗ポリが、逮捕され、同僚たちからぶちのめされ、引きずられ、狂い回り、叫び出す、くどいほどに丁寧に呈示された破局において、異様なばかりのボルテージに達している。
 ガキもポリ公もはねあがる今日、表層ばかりの通行儀式〈ソツギョーシキ〉に不可欠の護衛者として東奔西走する番犬たちの胸にもこうした焦燥があることを結果的に証明してしまっている娯楽映画を、多数の人の目にふれることを封鎖する意志が現実のものとなっている。
 一方で焦燥にかられながらも市民ポリの義務をつつがなく果し、また卒業式防衛闘争の勝利の展望を保障している多数の「公僕」の確固たる実在に対してこの映画がもたらす挑発力を恐れるのだとしたら、その貧しさが却って崔の作品の勲章となるに違いないのだ。

 『丑三つの村』の戦時下に実在のモデルをもつ三十人殺しの青年も、今日の閉塞状況に行きはぐれた個別性として明確に突き出されている。

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 曽根が『色情姉妹』をつくったようには『夜をぶっとばせ』をつくらなかったのとは反対に、田中登は『神戸国際ギャング』や『屋根裏の散歩者』をつくった延長でこの映画をつくった。徴兵検査を不合格になった村一番の秀才が肺病やみと排外され、村の掟を握る者らとの闘いに立ち上がるまでを克明に跡付けてゆく手法は分析的であると同時にしっとりと悦楽的である。
 そして強調しておきたいのは主人公の祖母(原泉)の存在だ。この作品、相米の作品、更に趙方豪主演『春画』と、力をはきだしているシナリオの西岡もさることながら、そして古尾谷雅人も強烈だったが、非国民・ゴクつぶしと罵声を浴びて耐える孫可愛いさに慟哭する彼女の表現に時空を超えてプロレタリア詩人中野重治の妻たる人の屹立を見た。
 佐多稲子は五十年来の同志中野を悼んで一本を著したが、同等の深い悲しみを原泉はこの映画の容れ物に刻みつけたのではないだろうか。
 そしてようやく、テーマは、世代の交通というその一点に収斂してゆかねばならないようである。

 で、相米は、この方法論偏重長回し曖昧屋は、何をあの映画のラストにきて照れてみせたのだろうか。つまるところ、ミドルやくざとミドルティーンの風を喰らった旅の旅程は終着に届いたのである。「ふられてBANZAI」を唄い、踊るガキたち。もちろんのこと、主題歌が流れ、高まりを持続させつつ、次の詰めに向わねばならないのだ。カメラは依然として勤かず静止した凝視を強要する。
 ましてやこれはアングラ仕掛けの大団円なのだ。舞台を仕切る垂れ幕ははね上り、劇場を包囲していた異貌の都市空間が進駐し、役者たちはこれを最後に暴れ狂い絶叫し、客席から投げ銭と掛け声が飛び交い、火が燃えさかり舞台は解体する……つまりは共有された興奮は外に向って解放されてゆくのだ。
 しかして『ションベン・ライダー』においてはどうだったか。

 想像力空間への外界からの圧殺が定在してくる。誘拐凶悪犯のアジトを包囲した公権力からの恫喝が「武器を捨てて連やかに投降せよ投降せよ」を繰り返す。そして圧倒的に暴虐な放水がかれらを撃ちつける。
 この仕掛け舞台においては、観客は想像力が外からの攻撃によって封殺される様を凝視せねばならない。かれらの奇妙な凶状旅の終りが、強権的に水びたしにされたように、あの冬、あの誤謬多き連合赤軍の兵士たちは、死刑判決のみではあきたらない司法官僚による《最後まで人質に隠れてわが身をかばい続け、おめおめと全員逮捕されて生き恥をさらした》との罵言を投げ付けられたかれらは、水びたしにされた。
 映画のラストが告げようとしたことはこのことではないのか。203n.jpg
 つまり、われわれ自身の浅間山荘が内部からの凝視を欲求されたのだ、と。
 解体された「旅団」に直面してゴンベは一人背負って出てゆこうとする。死に場所を求めて立ち現われてきた赤い着物の真情としてそれはあまりに自然ではあったが、かれは、仲間である・仲間であったミドルティーンたちにあいさつをせねばいけないのだ。
 その言葉はあるだろうか。おめおめと生き残るにせよ、おめおめと死地におもむくにせよ……。
 その言葉はあるだろうか。
 『西ドイツ「過激派」通信』の共著者は、未成年における麻薬常用・犯罪・自殺・情緒障害などのデータをあげた上で、ファシズム土壌を肥えさせる若者たちについて、かれらに個人的な単独責任を負わすことは正しくない、という意味のことを書いていた。
 映画で、救出されたガキの一人がいい捨てる《ずっと僕達だけで頑張って来たんだ!》がわたしの胸につきささる。


「日本読書新聞」1983年4月18日号


仮面舞踏会の夜 前篇 [AtBL再録2]

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 うすぼんやりとして、米帝第七艦隊の原子力空母エンタープライズが佐世保に入港するニュースをながめていると、あの激動の七ヵ月の佐世保闘争の記録がいきなり目の中にとびこんでくる。十五年をおいて再びその威嚇的な姿を現わしたエンプラ。
 アナウンサーのわけ知りの論説がかぶさって、一ロに十五年と申しましてもその年に生まれた子供たちは今義務教育を終えて……などといっている。そのとおりなのだ。そしてわたしの頭の中には、何かの本で読んだ《生きるとは、生き残ることであると同時に、意味ある生きかたをすることでもある》という一節が蘇えって回転してくる。

 このところ集中して見た日本映画のうちわずかに心に残ったもののほとんどが、今日のミドルティーンの彷徨と暴力と殺人とを主要なメインテーマにすえていたことの一つの必然が、漫然とながめていたテレビニュースを通して更に明瞭な反問となって帰ってきたようだった。
 六〇年代叛乱という形で歴史に登場してしまったかつての青春を愛惜する退路はもうない。わたしらはあの時代に二十歳だったことの意味と、あの時代に生を亨けた後続ジェネレーションがもっと幼くもっと不用意に不可避に歴史に登場してしまっていることの意味とを、二重に解かねばならない課題として突きつけられているのだ。


 かつて燎原の大の如く企図に拡大した「学園紛争」を目まぐるしく報じた新聞の紙面は、今日、警察力の導入なしには卒業式を貫徹しえない中学校の「病理」を忙しく追いかける。年齢的にも下降し取り急ぎ、また、より閉鎖的な体制に向っての「爆発」は一体、歴史がかれらに何の託宣を課しているかの容易な答えを告げてはくれない。しかしかれらはすでにそのように登場してしまっているのだし、そのかれらに素知らぬ顔で通り過ぎることも、官憲の泥靴に踏みにじらせることも、更に論敵に向って「こんなリクツは中学生にでもわかる」を連発する吉本隆明のように中学生はみんな自立派予備軍のルンルン気分におぼれることも共に拒否せねばならないとしたら、どのような言葉がかれらに向ってあるのだろうか。
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 曽根中生の『夜をぶっとばせ』に対しては否定的な感想しかもちえなかった。
 素材をほとんど生まのまま投げ出し、その内奥にまで一歩踏み込まない作り手の距離感が気になった。確かに生徒の側からの校内反抗の様態とその一定の帰結は描かれていよう。しかしそれでは四半世紀前の『暴力教室』をいかほどか超えたことになるのか疑問である。作り手は今ある状況の報告者に自足することでは、青春の理由なき反抗の果実の味はいつの時代も変わらないという達観に復讐されるだけではないか。でなければ石井の『爆烈都市』も長崎の『九月の冗談クラブバンド』も作られる必要はなかった。『夜をぶっとばせ』がもう一回転ぶっとばされなければ、今日のミドルティーンの本当の顔に出会えることはあるまい。
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 三村晴彦の『天城越え』は、作り手の位置そのものが痛切に困難なところにありながら、十五歳の少年の殺意を純化する方向にだけ突破することでかろうじて今日的な通路を待たし得た作品である。原作&プロデュースの清張・野村コンビによる「過去の犯罪が因果応報する」陳腐な推理話の図式と加藤泰共同脚本による汚れた女性への思慕の絶対性とにがんじがらめにされ、かなりに傀儡めいた演出の制約はあったのだろう。
 しかしまぎれもなく今日の青春に通底しうる殺意を提出することには成功した。曽根が対象への共感(それとも無反省の肯定にすぎないのか)から自在に作りえたところからはるかにむずかしい条件の中で三村は仕事をした。
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 困難な条件を逆手に台頭したといえば、すぐその名が浮かぶほど相米慎二は『ションベン・ライダー』で、すっかり作家的位置をゆるぎないものにしてしまった。
 シュレイダー夫妻の原案と西岡琢也の脚本を得て、アイドル映画ではない、自前の持ち物として作品の手作りを楽しむ条件をやっと手にしたようだ。それだけに冒頭は何かもたついて、勝手気ままの高踏が裏目に出て、凝りすぎ芸術映画に仕上ってくるのではないかと不安を感じさせるものだった。どうやら持ち直すが、最後まで固さは残った。
 一口にいえば、中年ヤクザ(藤竜也)と誘拐された仲間を助けようとする三人の中学生(河合美智子、永瀬正敏、坂上忍)との「友情の旅」がシンになって展開される話だ。そして思春期少女による中年男への逆ロリコンという前作の薬師丸映画『セーラー服と機関銃』のテーマのちゃっかりした密輸入もはいっている。
 展開を追いかけるよりも、場面場面のやりたい放題な高揚に身をゆだねて対応するべき作品世界なので、筋立てのつじつまを合わせて見ようと構えることでは息切れしてくたびれる。ガラスばりのマンションの一室で藤竜也がシャブに狂って日本刀をふりまわす場面など脈絡のつけようがなく、窓ごしに見える花火の飾り絵に彩られた立ち回りをながめていればよいということになる。

 テオ・アンゲロプロスもびっくりの貯木場における追っかけシーンの大移動ワンカットについては、言及する人も多いようなので、ここではふれない。遊園地における雨の別れのシーンというのがあって、これは三番目ぐらいに話題になりそうな出来映えの場面なので、少し紹介しておこう。
 前提として、麻薬ルート目当てにガキを誘拐した二人の弟分を藤は組長の指令で追っていたところが、組は偽装解散、藤は追跡の理由を失ってガキ共と別れることになる、というプロットの動きが頭に入ってないと、何ともまた唐突な場面転換なのだが。
 ともかくメリーゴーラウンドに乗ったかれらは、顔をかつてのアングラ劇ふうにメイクして、《雨降りお月さん雲の影》と唄を唄い、別れの盃にするのだ。そのあと回転遊戯箱から出て、背中を向けて雨足の中を去ってゆくかれの情感は、チャンドラーの《さよならをいうことは少しずつ死ぬことだ》を嘔いあげて切々と濡れそぼっている。「グッドラック、ミスター・ゴンベ」の叫びが追いかぶさる。
 かれの名はゴンベ、中年ヤクザ。

 ゴンベはじつは最後にもう一度出てくる。三人組が仲間を助け出し、逆にチンピラに追いつめられてしまう、そこにやくざ映画の晴姿そのままに登場してくるのだ。
 ここには藤竜也という役者が背負った「歴史」というものもはっきりと介在してくるようだ。『斬り込み』『反叛のメロディ』『任侠花一輪』などのステロタイプな忍の一字の殴り込み、『野良猫ロック・セックスハンター』の基地の街の混血児同志の内部ゲバルトの爆発、などの過去の集積がそっくり背負われているのだろうか。
 ともかく登場する。白いくたびれたスーツの上下、よれよれの帽子、顔のどぎついメイクも別れたときのそのまま、右手に拳銃、左手に色とりどりの風船。「おメエとやりあうなんて面白いことになっちまったなあ」とかいうセリフを唐突に喋り、これが晴姿なのだ。
 かれの仮面舞踏台の夜なのだ。
 この特権的立ち現われの中に『野良猫ロック』以来の十数年がふっとかき消される、あるいは耐えがたい重味でのしかかってくる――いや、どちらでも同じことか。
 射ち合ううちに位置がいれかわって、弟分は中二階にかけあがったところで射たれ、そのDX東寺空中ゴンドラふうの窓にぶらさがってフィニシュ。
 ゴンベの白服に赤い血の雨がさんさんと降りかかる。清順映画の本歌取りなのでもあろうか、いや、これは。
 これは、かつてのアングラ芝居のスペクタクルなラストシーンが引用されているのだといってよい。奇をてらっているのではなく、むしろ照れているのである。それは何故か。

つづく

一九八二年度ベストテン&ワーストテン [AtBL再録2]

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冷や汗が出た
〈外国映画ベストテン〉
①~③なし 
少林寺(チェン・シン・イェン) 
ミッシング(コスタ=ガブラス) 
⑥~⑧なし 
探偵マイクハマー・俺が掟だ(リチャード・T・ヘフロン)

 〈ワースト〉
ロッキー3(シルベスター・スタローン) ①レッズ(ウォーレン・ビーティー)(各マイナス5点)

 ここ二十年来、もっとも少なくしか映画を見なかった年度に、皮肉にもベストテン選考の依頼が舞い込んでくる。いやはや、冷や汗が出る。映画を見なかったのは、一千枚の原稿書きに追われていたからである。ひどい単調の日々を苦しんだ、まさに青春も萎えしぼみゆく生活の連続だった。そのくせテレビ画面から送られるCMに包囲された「映画」に付き合う回数は増えたりしているようである。

 『望郷』『ガス燈』『泥の河』も見た、短縮版の『ワイルドバンチ』まで見てしまった。
 ワーストワンは『ロッキー3』『レッズ』何れも甲たりがたく乙たりがたい。アメリカ映画の収容力はついにインタナショナルの高唱に彩られたボルシェヴィキ革命のスペクタクルまでも取り込んでしまった。わたしが『日本読書新聞』(一九八二年七月二十六日号)で予想を書いておいた通り、『ロッキー4』の製作は決定されたそうだ。シルベスター・スタローンの顔は、精悍さをまして仲々良いのだが、次には政治家の面付きになるだろう。

 『ブレードランナー』をはじめ、数多く見落しているので、ほとんどベストテンの体をなさない。前略、『少林寺』『ミッシング』、中略、『マイク・ハマー・俺が掟だ』、後略という具合だ。
 眉目秀麗・童顔潑溂のリー・リン・チェイの次回主演作はアメリカ映画になることだろう。『少林寺』が基本的に教育映画であるのに較べて、それは老獪な娯楽になることだろう。『ミッシング』のコスタ=ガブラスがアメリカ映画に「買われた」ように、少林拳の美しいチャンピオンたちも「買われる」のであ
る。
 『俺が掟だ』はB級暴力エロ映画の鑑である。とりあえず、ぼくたちはこーゆー映画を沢山見たいのだ、とでもいっておこうか。ペン・ケーシーとダーティ・ハリーを足して二で割ったような短足ガニ股のマイク・ハマー(アーマンド・アサンテ)はじつに今日的だった。

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(ところでマイケル・チミノの『天国の門』完全版三時間三十九分は公開されないのだろうか。ベルトリッチのアホ映画より二時間弱も短いではないか)。


汚れない角川映画
〈日本映画ベストテン〉
キャバレー日記(根岸吉太郎) 
②~⑤なし 
九月の冗談クラブバンド(長崎俊二) 
爆裂都市(石井聴亙) 
ピンクのカーテン(上垣保朗) 
水のないプール(若松孝二)
TATTOO〈刺青〉あり(高橋伴明)

 〈ワースト〉
汚れた英雄(角川春樹)


 邦画は『キャバレー日記』がベストワン。ただし原作のヤゲンブラ叢書のもの(『ホステス日記』も最近出た)はかわない。
 中略、『九月の冗談クラブバンド』『爆裂都市』『ピンクのカーテン』『水のないプール』『TATTOOあり』
 『水のないプール』『キャバレー日記』については『同時代批評』(五号「枯れはてたプールで」、六号「哀しみの男街」――本書所収)に書いた。『ピンクのカーテン』は、美保純シンドロームの原点になる作品だという他、取り柄はない。

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 邦画のワーストワンは、他の人がそれとしてあげるだろうような候補作は、すべて見ることを回避したから心もとなく『汚れた英雄』あたりになる。「汚れた」ことのない角川マルチ文化収奪システムに大藪の世界は映画化できはしない。そのことを最終的に、世界のラストヒーロー・ハルキカドカワが直き直きに監督をやることで、決定的に証明してくれた。
 『ロッキー』もそうだが、ヒーロー待望論は常に、民衆愚弄の強調をイメージ化することで成立する。このことは好戦映画の流行よりも不愉快である。

 最後に、ベストにもワーストにも選外である『悪魔の部屋』は落胆させる映画だった、と付け加えておこう。ジョニー大倉は助平になったヘンリイ・シルヴァのような顔で出てくる。この男の独得の「哀愁」はここでは全く殺されてしまっている。
 というよりもむしろ、『遠雷』での「宇都宮のラゴージン」といった役柄に見事に自分をリリースすることのできたジョニーが例外で、『総長の首』のように差別的なステロタイプにおとしめられることが、俳優たるかれの常態なのだろうか、とさえ考えた。
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特別演技賞 スターリング・ヘイドン
 スターリング・ヘイドンというと、赤狩り時代に密告者にまわった「過去」と、あの『博士の異常な愛情』の世界戦争狂いの軍人の役柄とが、セットになって想い出され、そればかりでなく、『大砂塵』のウドの大木の西部男ジャニー・ギターから、『ゴッドファーザー』の入れ歯警部、『ロング・グッドバイ』のスピレーンのような作品しか書けなくなったヘミングウェイ風のアル中作家まで、益体もない記憶がぞろぞろと行進してくるが、今度の『1900年』に至って、イタリア人農夫の重厚な存在感をもって最高の立ち現われを成した、と感動した次第である。
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「映画芸術」344号、1983年2月


たまらなくE.T. [AtBL再録2]

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 涙と感動のさよならのラスト・シーン
 さよならの言葉は、E・Tからはかえされてこない。――きみの心に永遠に。とってもE・Tなせりふがかれの口から発される。

 荘重なオーケストラ音楽と共に降りてくる幕。感涙の渦である館内の老若幼男女には失礼だが、わたしは、次に、RKO映画のマークが出てくるのではないかと錯覚した。
 といって、わたしは、米国三流ムーヴィーの別名であるRKO社の映画を沢山見た記憶があるわけではないし、当該の映画群を馬鹿にしているわけではない。ただなんとはなしの、さりげなくE・Tな連想である。見終ったとたんに、四〇年代のデモクラシー万能の陽気なグッドオールドデイズのRKO映画の、という連想が出てきただけである。何というヘソマガリの非E・Tな男というなかれ。偏屈な感受性こそ映画批評子の特権でなくてなんだろう。
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 しかしここに登場するのはインディアンではない。胴長短足・カボチャ頭に掃除器のホースのような首を待った・象皮の・未知の生物である。かれ(か彼女かわからない、性器があるのかないのか・映ったのか映らないのか・映ってもボカされてしまったのか・注意して見なかった)は、居留地である他の天体から離れ、この地球に、一人だけ取り残されてしまう。捜索隊の包囲・かれを受け入れてくれる家族との愛情、と設定はあくまで手固い。スピルバーグ映画工房は、ディズニーに迫るキャラクター量産の端緒についたところかもしれない。
 かれが初めて憶える言葉は、ホーム、である。極めつきのアメリカ的なアメリカ語なのだ。かれを受け入れる家族は母子家庭の三人兄弟である。父親は別居してメキシコにいることが会話で、何回かふれられている。家庭崩壊の中産階級を背景に「宇宙人」をからませたところに現代性があるなどといい出す間抜けがいると困るから、急いでいっておくと、これは、クレイグ・ライスの『ホームスイート殺人事件〈ホーミサイド〉』と同様の設定である。ライスの作品では、殺人事件だった闖入者が、この映画では「宇宙人」になっている。
 ライス夫人の戦争協力探偵小説から四十年、おお、たまらなくE・Tな盤石のデモクラシーよ、アメリカよ。

 ブラッドベリの『火星人年代記』にしてもホームの一語は、どこまでもやるせなくE・Tに使われていたことを想い出す。地球壊滅の日は抒情たっぷりに描かれていたものだ。それは火星への植民者の視点を借りて構成されていた。かれらの見守るなか、地球人は滅亡し、最後の通信を送り届ける。――カム・ホーム。カム・ホーム、と。
 ブラッドベリのリベラルSFから三十年、おお……。

 さて、E・T。
 限りなくE・Tに近い、なんとなくE・Tな世の中であるからして、愛と笑いと涙、過不足ない三題バナシが必要であるらしい。
 『E・T』に並んで、『蒲田行進曲』が、昨年度ベストワンの栄誉に輝くことは、ほぼ問違いのないところだろう。とにかくE・T。なにはともあれE・T。こうである以上、とってもE・Tな称讃のあいさつ、余人に後れをとることがあってはならない。
 ――映画内進行的映画を背景に使った点では同様のトリフォーの『アメリカの夜』をはるかにしのぐ傑作ではないだろうか。否、そうだ。断じて断定だ。202j.jpg
 第一、映画(いや活動写真といいましょう)にこめたその愛着の総量が、ドバッと
E・Tだ。人類みな、じゃない、映画屋みな兄弟。とにかくE・T。この映画が描いている撮影中の映画、一人の人間が受胎されて誕生するまでの比較的長い期間に渡って製作されている超大作らしい。だから人間喜劇も満載。泣かせ/見せ/笑わせ/……。いかにもよくこしらえられたペーソス・E.T.コメディなのだ。うんぬん。

 すべからくE・Tフィーバーに便乗するべきである。
 痴漢電車シリーズ『ルミ子のお尻』(滝田洋二郎監督)は、まがりなりにもE・T殺人事件ふうのピンク・ミステリーに仕立てあげられている。

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 痴漢探偵(螢雪次郎)が電車の中でフィンガー・プレイにはげんでいると相手の女の子がアヘアヘの最中に殺されてしまうのだ。気付いたときには終点で、もたれかかってくるその背中に深々とナイフが……。というヒッチコックばり。容疑者はかなり手軽に見つかり、これが車掌である。『Xの悲劇』ふうの車掌殺人事件かと思うと、容疑者の一人が連続して殺され、おまけに「E・T」のダイイング・メッセージを残す。と、仲なかE・Tな展開である。
 痴漢探偵、犯罪のために女助手の肉体に電車の路線図をはりつけて、指技から本番へと事に及ぶ。ファックが快刀乱麻を断つ名推理のため必要条件であるというハメハメ探偵のタイプは、トロイ・コンウェイのコックスマン・シリーズのような変種は別にして、小説の中にはあまり多くはなく、この種の映画の特権領域でもあるようだ。あいにく題名は忘れたが、シャロン・ケリーの主演作で、こんなものがあった――。

 兄が妻と彼の弟との密通の現場を押えるために探偵を雇い、自分は亭主が留守の隣の女とよろしくやりに行く。探偵は夜を待つ間がもたなくて、助手とやりすぎて腰が定まらない上に、したかかに酩酊して、指定の家の隣にカメラを持って忍び込んでしまう。翌日、探偵は、証拠写真多数を依頼人に意気揚揚と渡すのだが、そこには、依頼人自身が隣の女房としっぽりやっている密通現場しか写っていなかった、というわけである。

 痴漢探偵映画の話に戻ると、ダイイング・メッセージは、かなりE・Tな種明しで、簡単に犯人を指定し、事後は、犯罪のかげにフアックあり・フアックあり、の解決篇をつけてラストにつながる。ラスト・シーンは、再び事件発生の報に、自転車にとびのった痴漢探偵が走ってゆくうちに、やはり、空に舞い上り、左手に東京タワーを配した飾絵のような夜の首都、宙天にかかるお月様に重なって浮んだシルエットで、臆面もなくE・Tに決めていたことである。

 そうであるがE・T。
 この映画のミステリ部分の設定は、容疑者三人をみなE・Tのイニシャルを持ったネクラ人間であると指定していたことであり、そのうち一人などはネクラにして酒グセ悪く女にもてないなどと、わたしは鏡を見るような、心中おだやかならざる思いにおちこみさえして、昨年はこの種の性格にとっては更にひときわ暗い一年だったことをもまざまざと想い出し、かの吉本大先生が自分もそうだからネクラ人間を嫌いではない、と大先生による例の文学者の反核声明への批判と同等の蛮勇をふるった発言をなさったことも、あまり力にはならず、心なしか、ひが目か、集中的に見た正月映画の傾向と対策は、ネクラ人間狩りの敵意にみちていたのではないか、と思えてきたのである。

 ネクラなる言葉の流行現象は、などと大上段にふりかぶってはいいたくないのだが、やはりいってみたくなる。なんという巧妙な柔構造管理社会の「差別用語」であることか、と。ネクラの里の住人たちは、この現象の影響を披って、一夜として枕を高くして安眠することができない。ネクラでも生きられる、は、もはや幻想でしかない。自らのうちの過剰をきりすてることによって延命する小市民意識によって、それは、テロられるのだ。

 このことは、痴漢電車シリーズ『良いOL・普通のOL・悪いOL』(稲尾実監督)に眼を向けても、全く同様の事態だと云わざるをえないようだ。かかる窮状においては、すべてのネクラ者は、偽装転向になだれをうつ他はないのである。そのとき、『この子の七つのお祝いに』のような残虐ネクラ映画は、充分に踏み絵としての有意義に輝くことだろう。たとえ、あの映画のラストの岩下志麻の「私の一生は、いったい、何だったの」というシツコク何度も繰り返えされる作りダミ声のせりふのコーネル・ウールリッチ調に感ずるところがあっても、讃めてはいけない。状況はいまだに、自己の実存を《隠せ!》と戒しめられた丑松的命題を、過去のものにはしていないのだから。隠さねばならない。ネクラ思想を……。やがて破局が、この性格をこのタイプを狩り立てるために、やってくるから。

 そうであるからE・T。
 だから、美保純・寺島まゆみシンドローム、すべてこれ翼賛しなければいけない。 『OH!タカラヅカ』(小原宏裕監督)――原クンそっくりさんの熱血教師が、女ばかりのSEXケ島の高校に赴任して、その性格の唯一のクラい難点であるところの超早漏を克服するという清く明るいアヘアヘE・T映画。

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 『女子大生の下半身・な~んも知らん親』(楠田恵子監督)――三人の女子大生の性生活と意見の紹介だが、単なるオムニバスにせずに、早いテンポでまとめあげ、特に「地方出身」女子学生の「喪失」場面は、健全な解放感の印象もさわやかにE・Tである。
 『ピンクカット・太く愛して深く愛して』(森田芳光監督)――……。
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 さて、E・T。
 たまらなくE・Tな映画は、やるせなくE・Tに論じる他はない。間違っても、笑いと涙の政治学などというきりこみからインキヴィチ・ネクラーソフに裁いてはいけない。その点、澁澤龍彦先生などはさすがに、この種の手本を示してくれていて、E・T感覚いっぱいである。
 《ポップコーンの匂いがむんむんしている映画館で、評判の映画「E・T」を見た》
 うん、これが書き出しである。
 そして仕舞い方は――。
  《「華やぐ知恵」のなかに、ニーチェは次のように書いている。
 「動物の批評――私は、動物が人間を彼らと同類の存在なのだが、すこぶる危険な方向に、動物の良識を失ったものとして見ているのではないかと思う。――気の変になった動物として、笑う動物として、泣く動物として、不幸な動物として。」
 やさしいE・Tは、ニーチェのいったような意昧での動物といわんよりは、むしろ人間そのもののように見える。エクストラといわんよりは、むしろイントラ・テレストリアル(人間の内部から出現したもの)のように見える。これが私の結論だ。》(朝日新聞一月十日夕刊) .
 しごく当り前の感想も、ニーチェの引用と、これがわたしの結論だの大見得に際立たせられて、大変に立派な教訓になっている。それ以上の分析はE・Tだ。勿論のことだ。
 そして、おお、たまらなくE・Tな盤石のデモクラシーよ、アメリカよ、である。

「映画芸術」344号、1983年2月

 この文章が契機となったか(?)、後に同誌は、滝田洋二郎の特集を組むことになる。ピンク時代の滝田の仕事に関する貴重な資料であろう。

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白馬を見たか2 [AtBL再録2]

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つづき

 革命が大道具に取り込まれてしまった二大作とは隔絶して、『鉄の男』は、重苦しく深刻に、進行する「革命」と渡り合っている。ワイダの切迫した回答は、語り伝えねばならない、証言せねばならない、という当為に危険なほど傾いている。
 『鉄の男』は、軍政による革命的民衆の闘争圧殺という悲嘆の事実を、いわば「前宣伝効果」としてもつことを経て、上映された。観客は、あらかじめの良心の痛みをもって、これに対峙した。一人の巨匠が、偉大な民衆の闘いを、見事に作品化し、全世界に向けてアピールする、という前提が出来上ってしまった。革命すら同時進行的に、作品性の前に屈服させうるという、不遜な作家精神は不問に付される他ないのだろうか。
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 ある種の闘いの全人民性は、それを証言せねばならぬと真摯に信じる芸術家の「特権性」をも解体させるような質をもつことの、当り前さに、考えは向かないのだろうか。
 『鉄の男』の作品性を讃美する言説は、この問いに何も答えなかった。典型的な例を一つあげよう。
 《私たちは、「連帯」がグダニスクで〈勝利〉した瞬間、数年前すでに二人を予告していた『大理石の男』を見た。さらにポーランドが軍政にとじこめられたあと、『鉄の男』を見て、映画のラストが、スト勝利にもさめきって、若い二人が、未来の弾圧を予見しつつ、あえて、「ヤネック・ヴィシネフスキの死」に同感を托そうとしている姿を、知った。改めて、ワイダの(先見性、予言性を)驚嘆すべき事例が、二つ重なった》(『キネマ旬報』一九八二年四月下旬号)

 偉い偉いワイダは偉いとポーランド可哀そうですね大変ですねの合唱者に、ワイダは、次に、何を予言してくれるのだろうか。
               
 作品自体が構成に無理があると指摘する者はあっても、これのもつ圧倒的な臨場感を否定する者はあるまい。闘いに歌いつがれたバラッド「ヤネック・ヴィシネフスキは倒れた」を映画はラストに、勇壮に、全世界を鼓舞するように歌った。距離を置いて見るには、あまりに直接に歴史の勝利の瞬間をカメラに収めた、はっきりとドキュメントそのものであり、しかし証言として見るには、あまりに型通りの不屈の闘士たちをヒーローとするフィクションでありすぎる。
 闘いに属するものは闘いに返えせ。そうでないものは、そうでないといえ。

 「連帯」の闘いは、映画作家ワイダをのりこえる過程をもっただろうか。そうだとして、のりこえられたワイダは、そのことを正当に作品化に投げ返えすことができたのだろうか。
 あまりに生々しい記憶の中から現出してきた映画に、わたしらは本当に正当に向かい合ったのだろうか。あるいは……。

 一方、『ミッシング』は、すでに蹂躙しつくされて久しい革命に取材している。そして、『レッズ』同様、全きアメリカ映画である。

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 一人息子を奪われたビジネスマンの父親ジャック・レモン。かれと最初は感情的に対立しながらも、次第に自分たちの生き方を理解してもらうべく心を開いてゆく嫁シシー・スペイセク。ほとんどかれらの芝居で見せてしまう。
 ジャック・レモンが、これぞヤンキーのおとっつあんキマリ、という圧巻の演技を見せ、観る者としては、『総長賭博』の鶴田に感動した三島ハゲのように、何という万感こもごもの表情を完璧に見せることのできる役者になったことよ、と感心していればよいことになる。
 映画はこのおやじの視点から少しも出ずに展開されてゆく。ハリウッド映画の定石通りの作りで、息子捜しの、異国の「反民主主義行為」への怒りは、時にあざといほどに『ミッドナイト・エクスプレス』のような実話映画に酷似さえする。
 古き良きデモクラシー・ダディ。かれはアメリカ人がこの国で殺されるわけはないと信じているのだ。この点はアジェンデ政権への共感からチリに往む、心情左翼のボヘミアンである息子夫婦にしても、同様の無邪気さなのだ。この安心から、息子は、好奇心いっぱいに、クーデター計画に参加した米国人の秘密に踏み込んでしまって、消されるのだ。

 チリ以降、ラテンアメリカの諸地域に、あるいは「韓半島」に、われわれはあまりに多くの同種のクーデターを見なければならなかったし、またそこに影をおとすUSAの戦略に気付かざるをえなかった。そうした脈絡で『ミッシング』を見れば、一人の青年のミッシングを通じて、恐怖政治の闇について教宣した、と平板に解することはできない。
 消されたのは自業自得だ、と説明するチリ軍人の意見は、米国人の奢りを明確に指示している。どちらのシンパであれ変わりはない。米国資本にやとわれ、米国映画の文法そのままの作品を作ることによって、コスタ=ガブラスは、いわば、捨て身に、アメリカの世界蹂躙に対する告発をなしたのだ、とわたしは解する。かれが往年の衝撃的な作品から後退したかどうかの判定は、だから、さしあたって興味はない。

 革命を静物画に配図する超ボケ大作にはさまれて、ワイダとコスタ=ガブラスの両作があったような按配の本年度であった。わたしらには、安穏として、ライナー・ファスビンダーやジョン・ベルーシ、その他ウォーレン・オーツからホールデン、バーグマン、フォンダらへの追悼を一方の視野に入れつつ、岡目評定をすることが許されている。
 状況的に破綻することを内在化させながらも証言者の位置を確保しようとしたワイダの苦渋と、商業映画に徹頭徹尾偽装した形で隠された主張を手渡そうとしたコスタ=ガブラスの居直りとを、わたしは、胸に刻みつけておこう。

 それにしても『ミッシング』が描いたサンチャゴの恐怖は、そのまま光州における「全一派」空挺部隊の進駐の恐怖だった。
 それはあまりに見慣れた悪夢の情景だ。
 軍靴の響きと嘲弄の銃弾に追い立てられるのは、明日、だれであるのか。
 あるいは、われらの世紀末の幹道を白い馬は走ってゆくのか。

「日本読書新聞」1982年7月26日号


白馬を見たか1 [AtBL再録2]

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 真夜中の幹道を白い馬が走ってゆく。
 銃剣を帯びた兵士たちを乗せたジープがそれを追う。嘲弄の銃弾を散発的に浴せながら。戒厳令下の深夜である。
 いうまでもなく、コスタ=ガブラスの『ミッシング』の一場面であるが、わたしは、これほど見事な革命と反革命の配図を、かつて見たことがなかった。それは、一瞬よぎった幻影とすますには少し長く、気恥かしい感動に胸を熱くさせるには、少し短い、一場面だった。
 端的にいえば、一九八二年の映画を語るためには、この場面だけでよい。他は面倒だ。こう思うのは一瞬のため息のようなものだ。ため息であるためには少しばかり長いものを、書かねばならないのだが。

 今年は『レッズ』で始まり、『1900年』で終った、といっていいかもしれない。わたしに関しては。
 共に、長く、退屈で、ウスラデカイだけの映画であった。文句のつけようのないのは、両作品の撮影監督であるヴィトリオ・ストラーロの素晴らしさのみである。
 このカメラワークを前にして、浴々たる自然の雄大なたたずまいがくりひろげる大絵巻に、ただただ感服する他ない。今世紀の歴史叙事詩が、このような壮大な美しさに定着されたことには、素直に感動するべきだろう。けれど、こうした限定評価は、例えば、デ・パーマのいかにも下らない『ミッドナイト・クロス』はヴィルモス・ジグムントのカメラのみに支えられて秀逸であった式に、いくらでもいい得るから、もうやめよう。全く下らないのだ。

 『レッズ』
は、ハリウッド式のラヴ・ストーリーで、これまであまり脚光を浴びなかった歴史上の人物を身近に「解釈」した安直さだし、『1900年』は、すべてを二分法に、ファシストとコミュニスト、地主と小作人、男と女、田園と都会、といったふうに図式化した俗悪さなのである。共に二〇世紀の革命は如何に、今日、映像化しうるかの難問への、かなりげっそりさせる回答である。
 二つの大作がそろって、革命は額縁に収納しうると、怒鳴り立てているのである。
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 わたしは、これらの映画を、かなり満員に近いロードショーの映画館で見た。映画芸術の総合性の要素の一つとして、観客全体が形作るアトモスフィアを数えたいから、窮乏する余暇と娯楽費用とをさいて映画館に入場する観客たることが、一等、正当な映画の見方だと思う。こんなことを、とりわけ考えたのは、『レッズ』の第一部のクライマックスが、ちょうど十月革命の勝利に置かれていて、そこに高らかにインタナショナルの歌声が流れた時のことなのである。わたしは、確かに、いくつかのすすり泣きをきいたのであった。

 まいったね。
 やはり泣かせ場というのはあって、これがうまくいけば、観客は手もなく一体化する。わたしは、幼少の頃、『喜びも悲しみも幾年月』という映画(『私は貝になりたい』でもいいか)を見た時のことを想い出してしまった。あの時は、本当に、劇場全体が一つになって、泣いていたような記憶がある。それとはまた違う。明らかに違う泣きようなのだった。

 もらい泣きはしなかったが、ハリウッド映画が実現した「革命スペクタクル」が、現代史の中の左翼ノスタルジアの源泉に、どたどたと土足で上り込んできたことに唖然としてしまったのだ。こうした、映画の総合的な侵犯性を、その総合性から外して読み誤ると、映画批評は、じつに悲惨なポンチ絵を描くことになる。例えばこれ。
  《第一部の終わり、インタナショナルの高鳴と共にロシア革命の詩と真実が、あくまで史実に正確に再現されて行くあたりで、私はほとんど涙した。ああ、過ぎ去りし革命の青春よ!》(『シティロード』一九八二年四月号)
 松田政男の文章である。

 インタナショナルヘのすすり泣く(忍び泣く?)連帯は、かかるネクラヴィチ・陰湿スキーな郷愁に支えられていたのである。こうでしかないのだ。
 ジョン・リードの生涯を、ロシア革命との関連において、過大に評価する傾向は、全く無邪気なものだ。リードを論じて、かれとメキシコ革命の関係に、再三、注意をうながしたのは鶴見俊輔だった。リードのメキシコ革命への加担が注目されるべきなのは、かれがそこで革命の現場リポーターとして、『世界を震憾した十日問』に先行する書物を書いた、というような皮相な理由からではない(依然として『叛乱するメキシコ』〔邦訳小川出版〕が絶販なのは残念であるが。――後日、筑摩書房から再刊された)。リードがメキシコに潜入する一九一三年は、かれのラディカリストとしての出立においても、また米国のラディカリズムの昂揚においても、一つの明瞭なメルクマールを作っていた。いわば、二十世紀米国史の華であり、そこに自らの青春を同化したリードらの頂上なのである。

 映画は、そういうおいしいところを、一切、投げ棄てて顧りみなかった。一種の外食産業の方法である。しかし、その時期を抜きにしてリードの半生を内面的に脈絡付けることなど、出来はしないのだ。道具の豪華さでごまかす恋愛映画に終始してしまった理由はここにある。

 『レッズ』が、歴史観などという代物からは、はるか彼方にパープリンであるのに較べれば、ベルトリッチの『1900年』は、まがりなりにもそれらしきものをもっている。
 例の二分法という素晴らしく切れ昧の良いやつを。わたしは、この映画の長々しい長尺の必要性をどうにか感得しえた者だが、それ以上に、前作の『ラスト・タンゴ・イン・パリ』や『暗殺のオペラ』でよく了解しえなかった部分が、やっと解けたというおまけまで得た。

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 『1900年』は、ベルトリッチ映画の集大成であり、かれのすべてであろう。ここには、『ラスト・タンゴ――』のものうい没落前夜的な刹那のダンスの交感もあれば、『暗殺のオペラ』の探究する者が歴史のクレバスに落ち込んで踏み迷い逆に探究される者に変るという廻り舞台もある。
 そう認めた上で、次のように断定できる。ベルトリッチは正真正銘のアホである、と。
 作者が、北イタリアの自然への豊かな愛情を、彼女を主人公とすることで、報いたかったことは非常によくわかるし、今世紀前半の激動の転変を、おおどかに横たわる四季物語の推移のうちに捉えてみたいと欲求されたときに、この映画の「話題」の大河的時間が必然的だったこともよくわかる。ただここでは、歴史的存在たる人間が主人公ではないのだ。
 ベルトリッチは、歴史を描きえない自らの感性の質にもっと謙虚であるべきだった。かれの描くものは静物画である。かれの人物は人間のようには踊らない。永遠の輪廻に振り付けられた二種類の人形のようにしか踊らない。こうした図柄の中では、赤旗を林立させた列車はどんな時代にも気ままに走っているし、エミリア平原とボー川の朝はいつも一九四五年四月の「解放」の朝かもしれないのだ。

つづく


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