ジョン・フォード『シャイアン』 [西部劇・夢のかけら]
1965年に観た。
パンフレットには双葉十三郎による「フォード西部劇の集大成」という文章がある。
事実はフォード西部劇の墓碑銘だったんではないか。
最終最後の西部劇。
それも作者の固有名詞はとりのけて、西部劇というジャンルそのものの最終最後の作品……。
なぜならテーマが先住民絶滅政策にかかわってくるからだ。
居留地での悲惨な現実から脱出していく種族と合衆国軍隊の戦闘。
結局、「射撃の標的になる野蛮なインディアン」というタイプを廃して、史実を描こうとすると西部劇という伝統ジャンルは成り立たなくなるのだ。
そのことをフォードは「最後の」作品によって実証したのではないか。
そのせいか、主役のリチャード・ウイドマーク、ジェイムズ・スチュアート、キャロル・ベーカーはもちろん、
フォード映画には異色のアーサー・ケネディ、カール・マルデン、エドワード・G・ロビンソンなどよりも、
シャイアン族を演じたギルバート・ローランド、リカルド・モンタルバン、ドロレス・デル・リオ、サル・ミネオのほうがよほど印象に残っている。
ということは。
西部劇を観つづけたこの個人的なメモリアルも『シャイアン』によって閉じられる?
たしかに原則的にはそうに違いない。短いあいだであった。
あとは付け足し、注釈になるか。
いや、じつは注釈のほうが本体になるふうな気配なのだけれど。
マーロン・ブランド『片目のジャック』 [西部劇・夢のかけら]
マーロン・ブランド『片目のジャック』
1962年に観た。
ブランド唯一の監督作。
ひとつきりで良かった……。
難解至極の問題作は数多いが、およそ人生初めての遭遇だったような。
主題曲だけは気に入っていた。
これだって、映画とは関係なく聴いていた。
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これはインサイドストーリーを読むほうが面白い映画の典型なんだろう。
ブランドほど西部劇の似合わないスターはいないってことか。
『ミズーリ・ブレイク』(1976)も大空振りだったし。
まず帽子が似合わない。
馬に乗っていると、馬がロバに見える。
拳銃を手にすると、オモチャを持っているみたいだ…。
『荒野の三軍曹』『テキサスの四人』 [西部劇・夢のかけら]
ジョン・フォード他『西部開拓史』 [西部劇・夢のかけら]
ジョン・フォード他『西部開拓史』
1963年に観た。
これも、当時の新作。
シネラマ劇映画第一作の巨大画面。
オールスターキャストの三時間近い超大作であった。
10大スターの競演。
とはいえ、だれがどの場面で光っていたのかはごく頼りない記憶だ。
まあ、見せ場に次ぐ見せ場なんで、けっこうくたびれたんだろう。
強いていえば、グレゴリー・ペックのギャンブラーとデビー・レイノルズの酒場女……。
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喜び勇んで観に行ったわりには、並みの感動だったような。
パンフレットにしてから、当時としては珍しいカラーページ主体の豪華さ。
もう半世紀になるか。
図書館のDVDコーナーに置いてあって、人気はまだまだ高い。
ジョン・スタージェス『荒野の七人』 [西部劇・夢のかけら]
ジョン・スタージェス『荒野の七人』
1961年に観た。新京極松竹座。
リヴァイヴァル全盛時代に観た新作ということで、やはり満足度も格別だった。
けれど振り返ってみると、ベストテン級じゃないなって感想。
ハリウッド製のメキシコがどの西部劇にもまして薄っぺらに感じられた。
オリジナル原典の『七人の侍』は山科映劇で観た。
こちらは長すぎて、恐れ入って、少し退屈した。
ともあれ、スティーヴ・マックイーン、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーンの映画。
それぞれのカッコ良さにしびれたのは当然だった。
このメンバーがそっくり再結集した『大脱走』に比べたら、『荒野の七人』はかすんでしまう。
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何の雑誌だったかは忘れてしまったけれど、英語学習用でこの作品を特集したものを愛読・愛聴していた。
シナリオの対訳の抜粋と、音声ソノシート。
その時分は、小型トランクみたいな不細工なポータブル・レコードプレイヤーで聴くのが一般的。
ソノシートから流れるメインテーマや、ブリンナーの「アディオス」を、ただ有り難がっていた。
ジョン・スタージェス『ガンヒルの決闘』 [西部劇・夢のかけら]
ジョン・スタージェス『ガンヒルの決闘』 59年製作
決闘三部作の三作目。
こちらでつけた営業的なネーミングだから、話の関連はまったくナシ。
まあ、いいじゃないか。
ヒイキは二作目の『ゴーストタウンの決闘』。
しかしパンフレットが見当たらない。
こちら「ガンヒル」の話は地味そのもの。
「決闘」がつかなかったら、観る気になったかどうか。
カーク・ダグラスは儲け役をアンソニー・クインにさらわれた。
クインの役柄は、『革命児サパタ』でも『炎の人ゴツホ』でも『ワーロック』でも、同じだったなと思い出す。
主役の影にまわって引き立て役に徹するとみせて、芝居のおいしいところは全部いただいてしまう。
そういえば、カークとのコンビは『ゴッホ』以来。
絵筆を拳銃に持ち替えても、構図は同じだったか。
ジョン・スタージェス『OK牧場の決闘』 [西部劇・夢のかけら]
前に書いた理由で、決闘ものなら何でも喜んで観ていた。
そのなかでもピカ一がこれ。
フランキー・レインの主題曲。
土曜の夜の『ローハイド』ともども、この人の歌声は西部劇の代名詞だった。
ブーツヒル、ブーツヒル。ソウ・コールド、ソウ・スティル。
なんて一節にコロリと参っていたんだな。
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バート・ランカスターとカーク・ダグラスの主役コンビ。
カークのウイスキーの呑みっぷり。
10センチは離れたところからショットグラスの中味を、狙いあやまたず、口に放りこむ。
当時は、早撃ちのマネと、ウイスキーの曲芸呑みのマネをする奴が沢山いたものだ。
十年前の『荒野の決闘』にも敵役で出ていたジョン・アイアランド。
それから、リー・ヴァン・クリーフの殺されっぷり。
そして何よりデニス・ホッパーの若々しさ。
ジョン・フォード『捜索者』 [西部劇・夢のかけら]
10代なかばのこの年頃の嗜好なんて単純なもので、派手なガンファイト・戦闘シーンがテンコ盛りになっていれば満足していた。
ところが『捜索者』にはその両方がない。
ジョン・ウェインの役柄は『赤い河』にも増して陰惨きわまる復讐鬼なのだ。
He had to find her.
「インディアン」にさらわれた妹(ナタリー・ウッド)を捜し求め、復讐を果たす。
これだけの物語だ。
ちょうど『許されざる者』と合わせ鏡になるようなストーリー。
それもそのはず、原作者は同じアラン・ルメイだった。
「インディアン」と表記するのは、べつに、「政治的に公正な言葉遣い」を無視するわけではない。
開拓者の絶対正義と野蛮の悪を対置することで成り立つ一時期の西部劇を語るのに、先住民という言葉ではズレが生じるからだ。
現にこの映画のクライマックスには、復讐者が「インディアン」を襲撃して、頭の皮を剥
いでしまう、というショッキングなシーンが置かれている。
これが人間の条件をめぐるアーキタイパルな(アメリカに特有の、と注釈をつけたほうがいいか)物語だと気づくのはずっと後年のこと。
不思議なことに、すると、いくつかのシーンがまるで大切な額縁に入れられていた追憶のように、くっきりとよみがえってくるのだった。
数十年も意識の古井戸の底に眠っている映画力にあらためて感歎した。
『3人の名付親』その他 [西部劇・夢のかけら]
ジョン・フォード『3人の名付親』 48年製作 リヴァイヴァル
他にリヴァイヴァルで観たものは
ジョン・スタージェスの『ブラボー砦の脱出』
ゲーリー・クーパーの『ハイ・ヌーン』
ロバート・ライアンの『誇り高き男』
ボブ・ホープの『腰抜け二挺拳銃』
ディーン・マーティン&ジェリー・ルイスの『底抜け西部へ行く』
オーディ・マーフィの『シマロン・キッド』
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などなど。
映画館は、京劇名画座とか、田園シネマとか。河原町三条あたりが中心。
ごとごとと走る京津電車。
帰り道はとりわけ暗かった。
ロバート・アルドリッチ『ヴェラクルス』 [西部劇・夢のかけら]
ジョージ・スティーヴンス『シェーン』 [西部劇・夢のかけら]
ジョージ・スティーヴンス『シェーン』 53年製作 リヴァイヴァル
いまさら何もいうことはない? 西部劇の代名詞のような名画。
パンフレットをぱらぱらめくると、リヴァイヴァルものが流行るのは新作不作のせいだろう、とかいう意見が載っていた。
むかしから同じことの繰り返しだったか。
この作品はとくにそうだが、日本の股旅ものとの共通項がはっきりしている。
日本人好みというか、どこの国でもウケル要素を満載しているわけだ。
主題曲の「遥かなる山の呼び声」は、ヴィクター・ヤングのオーケストラではなく、歌つきのものがあった。
ラジオで何度か耳にしたことはあるが、レコードで流通したのかどうかは確かめたことがない。
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アンソニー・マン『ウィンチェスター銃'73』 [西部劇・夢のかけら]
ジェイムズ・スチュアートは西部劇には似合わない。
と思っているせいか、主役の印象はごくごく薄い。
思い出すのは敵役ダン・デュリエのことばかり。
「ダン・デュリエの悪漢が圧巻で……」という双葉十三郎のダジャレを忘れられないこともあり。
なんといっても死に様がカッコよかった。
撃たれてよろめく足の動き、抜いた拳銃をかまえる力がなくて足元に数発撃ちこんでから、ばったりと倒れる。
このダン様のダンディズム!
『駅馬車』のトム・タイラーの死にっぷりは演出の効果だろう。
こっちは正味、役者の心意気だ。
あとは、売れる前のロック・ハドスンがツケ鼻のメイクでインディアンの酋長役をやっている場面とか。
まあ、主役はライフルの名銃、という映画だから。
ジョン・フォード『リオ・グランデの砦』 [西部劇・夢のかけら]
『アパッチ砦』『黄色いリボン』につづく騎兵隊三部作。三作のなかではいちばん面白かった。
理由は単純。戦闘シーンの迫力だ。
襲撃してくる「野蛮なインディアン」、迎え撃つ「正義の開拓者たち」。
この類型による戦争スペクタクルが『駅馬車』にも勝る、と興奮したものだった。
この映画は、中学生の頃、田園シネマの三本立てで観た。
子供のころに刷りこまれたイメージは強烈だ。
今でも「悪の枢軸」をこらしめる強いアメリカの「勇姿」を見るにつけ、よみがえってくるのはコレ。
夜の闇に乗じて奇声をあげて襲撃してくる野蛮人。
疾駆する馬、飛来する弓矢。
正義の側の一発必中のライフル弾が敵をバッタバッタと撃ち落としていく。
――それが当然の話なのだと信じていた。
ジョン・フォード『黄色いリボン』 [西部劇・夢のかけら]
キング・ヴィダー『白昼の決闘』 [西部劇・夢のかけら]
「決闘」と名がつけば、何でも観に行った。
観て後悔したのは、これが最初で最後(?)か。
こんなに後味の悪い映画は、何十年たっても忘れられない。
混血娘に扮したジェニファー・ジョーンズの美しさ。
最高の「ハリウッド製インディアン」だ。
あとは、落日を背景にした人物シルエットの多用。
セルズニック映画だから『風と共に去りぬ』の夢よもう一度だったんだろう。とはいえ、多用しすぎて有り難みも薄れた。
その後、グレゴリー・ペックは何を観ても、この映画の陰険卑劣なイメージが重なってきて困った。
高校生の頃。
伏見桃山の大手筋には、映画館がまだ三軒ほどあった。
駅前のパチンコ屋の二階に、ポルノ専門と邦画専門。
これを観たのは、大手筋を西におりたもう一軒の、家に近いほうの小屋。裏町人生そのものみたいな路地の奥に広い敷地がひらけていて、その一角にあった廃品倉庫のような映画館だ。
邦画洋画の区別なくかかっていた。菅原文太の「まむしの兄弟」シリーズとか、やくざモノをけっこう観た記憶もあるので、70年代なかばくらいまでは、稼働していたのだろう。
ハワード・ホークス『赤い河』 [西部劇・夢のかけら]
ジョン・フォード『荒野の決闘』 [西部劇・夢のかけら]
ジョン・フォード『荒野の決闘』 46年製作 リヴァイヴァル
人物よりも風景がいつまでも印象に刻まれている。
ラストシーンしかり。
風景画のヒトコマとしてのみ人物は配されている。むしろ静物画かな。
決闘映画でありながら、ごく静謐な進行になっている。
ヘンリー・フォンダは、少なくともこの映画においては、撃ち合いが似合わない。
揺り椅子でゆらゆらバランスを取っているところとか、小津映画的なキャラクター仕様なのだ。
ヴィクター・マチュアは、この映画のみの出演だったなら……と思わせる。
もっともそんなに観ていないから、そういうイメージは壊れていないけれど。
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ジョン・フォード『駅馬車』 [西部劇・夢のかけら]
ヘンリー・ハサウェイ『アラスカ魂』 [西部劇・夢のかけら]
ヘンリー・ハサウェイ『アラスカ魂』 60年製作 61年公開
酒場での大乱闘シーンとか、ジョニー・ホートンの主題曲くらいしか印象にない。
ジョン・ウェイン映画としては、アラスカに舞台を移して新味を出した他、だいたい定番の安定路線に落ち着いた。
アクション、友情、ロマンスにプラスして、若手アイドル歌手の起用など。
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ロバート・アルドッチ『ガン・ファイター』 [西部劇・夢のかけら]
サウスポーのロック・ハドソンと黒ずくめのカーク・ダグラス。
『ヴェラクルス』の興奮をもういちど、みたいなところもあったのだが。
ベルトにさしこんだ二連発のデリンジャーを抜き撃ちする……。
アイデアはいいんだけど、やっぱり首をひねった。
絵になってない。銃が小さすぎる。
負けるはずのない決闘に、弾丸をこめないデリンジャーで臨む。
なんてガンマンの心理的な葛藤も、カッコイイってより、何かつくりものめいていたし。
これまでずっと儲け役をさらってきたカーク・ダグラスとしては誤算の作品。
この人のベスト西部劇は、スタージェスの決闘二作を別にすれば、『脱獄』かな?
翌年の作品で、シナリオは同じくドルトン・トランボ。
ジョン・フォード『バファロー大隊』 [西部劇・夢のかけら]
ジョン・フォード『バファロー大隊』 60年製作 公開
『騎兵隊』につづくフォードの騎兵隊もの。
対インディアン戦争のヒトコマなんだが、騎兵隊内の黒人差別といったシリアスなテーマが持ちこまれている。
主題歌はちゃんとあったのに、前作のミッチ・ミラーのものより明朗さに欠ける。
というか、すべてが地味で湿っぽい話に思えた。
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このくらいから、フォード作品をリアルタイムで観ることになる。印象としては最上とはいいがたい。
最盛期は、もう過ぎていたのだ。
当時のパンフレットを画像にとりこんでおく。
もともとのカラー印刷がよくないので、かえって時代色が出てくるような気もする。
これは、中味もモノクロのものが多く、ほんとに貧乏くさい資料なのだ。
色褪せたロマンスは、もともとこういうカラーだったわけだ。
ジョン・ウェイン 『アラモ』 [西部劇・夢のかけら]
ジョン・ウェイン製作・監督・主演 『アラモ』 60年製作 公開
1961年に観た。
前宣伝はともかく、スケールが大きいだけの駄作、壮大愚劣な失敗作などと、世評は芳しくなかった。
ただ個人的には、ベストテンの次点にくるくらい気に入っていた。
西部劇開眼の後、製作段階のニュースから追っかけて、待ちかねて本編を観るといった体験は初めて。
その点のヒイキメはあったろう。
単純に、リチャード・ウイドマークのジム・ボウイーを観たい。
それにプラスしてついてきた娯楽映画の要素いっぱいに感動した。
今でも、そんなに悪くないと思っている。
まずディミトリ・ティオムキンの音楽だ。
メインテーマ「グリーン・リーヴズ・オブ・サマー」、
フランキー・アヴァロンの歌う「テネシー・ベイブ」、
マーティ・ロビンスの「アラモの歌」(これは劇中に出てこない)、
そして「皆殺しの歌」のトランペット。
活劇映画に添えられるロマンスと音楽。
それらを支えるスタッフ&キャストのチームプレイ。
その最良のものをジョン・ウェインは『リオ・ブラボー』の製作現場から学んで、そのまま引き継いだのだろう。
そんな気がする。
これが、アメリカの領土拡張・侵略帝国主義を正当化した独善的なイデオロギー映画だ、と判断するチエはまだついていなかったか。
まあ智恵はついても、フィルムの残像は色褪せない。そして決戦前夜に静かに流れる「グリーン・リーヴズ・オブ・サマー」のコーラスも。
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この映画で、すっかりウイドマーク・ファンになった。
雑誌の切り抜き(『スクリーン』と『映画の友』)は、今でも残してある。
ジョン・ヒューストン『許されざる者』 [西部劇・夢のかけら]
1961年に観た。
同タイトル作があるが、原題に「The」がついていないほうが、最近のクリント・イーストウッド監督主演による作品。
回想のなかにめぐってくるフィルムのうち、主題歌が耳に残っているかどうかで、ずいぶんと残像のありようが異なる。
音楽とシーンが一体化することによって、不朽の思い出になる。
この映画の場合は、音楽が残っていないせいか、印象は割り引かれているようだ。
基本的には「インディアン標的映画」時代の最後尾くらいに属する。
しかし、話はあの当時観てさえ後見の悪いものだった。
白人と赤色人との「許されざる愛」は、レスリー・フィードラー流にいうなら、ハリウッド映画の根源的トラウマだったんだろう。
赤色人メイクのオードリー・ヘプバーンは、バッド・チューニング。
ジョン・サクスンが儲け役だったが、途中で消えてしまう。
主役でないオーディ・マーフィを観るのは初めてだった。
少し前、テレビ放送で再見したとき。
母親役のリリアン・ギッシュがヘプバーンを罵る科白が改変されているので、おかしくなった。
口では「このインディアンの性悪女」と言っているのに、「アメリカ先住民の悪い女」なんて字幕がたらたらと説明的に流れてくるのだ。
『拳銃に泣くトム・ドーリー』 [西部劇・夢のかけら]
三番目に憶えているのは『拳銃に泣くトム・ドーリー』。
モノクロの低予算B級映画。
これは、『リオ・ブラボー』と併映だったと思う。
ふつうは三本立てのところ、『リオ・ブラボー』が二時間半の長さだったので、二本立てになった。
監督はテッド・ポスト。テレビの『コンバット』シリーズとか、『ダーティハリー2』などで知られる。
主演はテレビ『ボナンザ』シリーズのマイケル・ランドン。その他はまったく馴染みのない顔ぶれ。
南北戦争が終わったことを知らずに戦いつづけた兵士の話。
戦争継続中なら英雄だが、終戦の後だから殺人者として絞首刑に処せられた。
キングストン・トリオの主題歌の付録のような映画だ。
他には『イエローストーン砦』を渋谷で観た。
主演のクリント・ウォーカーは、2メートルの大男。
少し後に、テレビの『シャイアン』シリーズで売りだした。
ジョン・ラッセルとエド・バーンズもテレビ・シリーズで主役をとった。
西部劇鑑賞が本格化したのは、京都に移って、中学から高校時代。
偶然に西部劇映画の最盛期にあたった。
始まりは明確で、こちらが映画を独りで観る年齢に達した時期と重なった。
ほとんどは60年代の前半に集中している。
リバイバル・ブームの恩恵で、名作のおおかたを観ることができた。
けれど公開本数が格段に多い50年代のことはまったく知らない。
選別されたヒット作のみを追う結果になり、B級作品は観ていない。
普通の意味での愛好家の名には値しないだろう。ただ名作をうっとりと観るだけだった。
想い出を語ることは、その頃の自分の幼い精神的軌跡と単純な憧れのありようの気恥ずかしい告白につながる。
客観的な事柄は語れたとしても語りたくない。
後からその能力は身についたとはいえ、それを使いたくない。
あるいは興味がない。
10年はあわただしく過ぎていって。
60年代の末。
嫌味にいえば、「卒業」は訪れた。
おまけに60年代後半には、ごく少なくしか作品を拾えない。
マカロニ・ウェスタンが全盛になってしまって、観る気をなくしたという要素が大きい。
たまに観ることはあっても、あの残虐さと下品さに慣れるのは無理だった。
例外は『プロフェッショナル』くらいだ。
いずれにせよ、終わってしまったことを、ゆっくりと知らされていく日々が長くながく、この項目においても例外なく続いていった。
西部劇の時代は、まったくこちらの主観だが、60年代を縦断して、およそ10年後に不徹底に終わる。何年も前に終わっていた、ということだ。
徐々に、痛みをともなって、気づかされたわけだ。
夢の破片が粉ごなになってしまっていることを。
終わりの衝撃はサム・ペキンパーの『ワイルドバンチ』によってもたらされる。
その点も、後からの知恵で思い到った。マカロニ・ウェスタンはほとんど観ていない。合計しても十本くらいだろう。
だが、『ワイルドバンチ』から、最初に受け取ったのはマカロニものの「汚い」画面への嫌悪だった。
後先はよく憶えていないが、グラウベル・ローシャのブラジル西部劇『アントニオ・ダス・モルテス』にも揺さぶられたのだろう。
そしてラルフ・ネルソン『ソルジャー・ブルー』の高名なラストの「インディアン虐殺シーン」が、幼い未熟な夢にトドメをさした。
「良いインディアンは死んだインディアン」といったネイティヴ撃滅政策を正直に反映しつづけた「インディアン標的」アクションは完全に過去のものになったのだ。
先日『トム・ホーン』をビデオで再見して、初めて観た(80年)ときのいたたまれない感情がどういうものだったか、よく納得できた。
スティーヴ・マックイーンは、やはり最後の西部劇スターだったのだ。
そのマックイーンの衰えた姿。
そして絞首台からぶらさがるヒーローに、ここまで映すのかと、目を覆いたくなった。
アンハッピーエンドどころか、主人公が無実の罪で死刑になる話なのだ。
このジャンルで起こった「正義の相対化」という事態も極限にまで行った。
実話に基づくという但し書きも嫌味で不快だった。
細部はほとんど忘れていたが、80年ごろはまだ、破られた夢のカサブタがまだ痛んだのだろう。
それを追体験することができた。
そしていま平静に観れば、獄中のマックイーンが自由を夢想する場面の美しさに息をのんだ。
これはまさにペキンパー的テーマの頑固な変奏ではないか。
遅ればせながら思い当たる。
喪われた夢の幻想的な回復に命を捧げる男のサガ。
終わりを見つめることができなかった。
長く。
2005.07 ホームページより
『ワーロック』 [西部劇・夢のかけら]
二番目に憶えている西部劇は、エドワード・ドミトリクの『ワーロック』だ。
1959年か60年。渋谷。
こんな陰惨でシチ面倒なドラマを子供心でどうやって受け入れたのか、今となっては合点がいかないところもある。
西部劇というジャンルを借りた「思想ドラマ」ですらあった。
そこには、赤狩りの標的となって、汚名をこうむった監督ドミトリクの心情が読み取れるようだ。
もっとも、そういう読み解きができたのは、これもずっと後年のことだ。
話もどこか暗喩にみちている。
牧場主に牛耳られる町。
自治を望む町民たちは凄腕の雇われシェリフを招いて、無法者たちを排除しようとする。
これがヘンリー・フォンダとアンソニー・クインのコンビ。
二人は町に着くや、ホテルや酒場の経営権も握り、まるごと町を乗っ取ろうと動きだす。
単純な暴力支配にとどまらない悪辣ぶり。二人の連携プレイは好調に進んでいく。
これでは町の浄化どころか、一枚上手の悪党に権力を譲り渡してしまったも同様だ。
無法者の群れからリチャード・ウイドマークが立ち上がり、保安官に挑んでいく。
三大スターがそれぞれ陰翳にみちた役柄を競っている。
はたしてどこまで理解していたものやら……。
ヘンリー・フォンダの銀色の二挺拳銃の抜き撃ち、決闘の場に臨むリチャード・ウィドマークが手に巻いた包帯を取り去って風に舞わせるところ。
そんなシーンばかりに胸を熱くしていたのだろう。
2005.07 ホームページより
『リオ・ブラボー』 [西部劇・夢のかけら]
昨日観た映画をすっかり忘れることはあっても、
四十年前に観た映画のシーンが目に焼きついている。
その不思議さ。
最初にこの映画がある。『リオ・ブラボー』
絶対的に改変できない事柄。
破れ帽子に赤いシャツ
拳銃使いの流れ者
…………
リオ・ブラボーの朝まだき
流れくるトランペットの音色に
命を賭ける男三人
等々力の線路脇のどの道すじだったか。
この映画のポスターを見かけた。いつまでも魅入られたように眺めて飽きなかった。
夕焼け空と異国のガンマンたちの背負った茜空が溶けこんでしまうまでも。
単純にいっても複雑にいっても、同じこと。
アメリカ、もっと荘重に すべての人々の面前で……。
憧れのスタートラインだった。
三本立て55円の自由が丘劇場。二階席の最前列に座った。
途中から入ったので、ジョン・ウェインとディーン・マーティンが、仲間のワード・ポンドを狙撃した男を追って、夜の板張り歩道を両側に分かれて走る緊迫したシーンの只中だった。
酒場で階上にひそむ男をマーティンが抜き撃ちに倒す名場面がすぐ後につづく。
十回以上観ているので、すべてのシーンを暗記できるほどだった。
今でも相当の細部まで憶えている。
西部劇とは何だ。
アメリカ文化論の格好の題目だが、なぜか一貫してそれを論ずる欲求は生じてこなかった。
ただ無邪気にこの領域に魅せられたのだ。
十代なかばのほんの一時期だったが。
そのことの意味も、今にいたるまで考えたことはない。これからもあるだろうか。
『リオ・ブラボー』は、ハワード・ホークス映画のチームプレイが最も成功した作品だ。
そのことも後から知った。分析的なことを書くのは、それだけにしておく。
目に浮かぶいくつかの場面を書きとめてみる。
だれもが感嘆したきわめつきのガンファイト・シーンは省略して。
簡単な内容紹介も省かせていただいて。
幌馬車隊(ワード・ポンドはテレビ・シリーズのキャラクターのまま、特別出演といった体裁)が街に着いて、保安官と顔合わせするところ。
あの新顔の若いのは誰だ、保安官が隊長に訊く。
その時の、若い用心棒役のリッキー・ネルソンの科白。
――「I speak English. 直接おれに訊いたらどうだい」。
すっかりシビレてしまったことはどこかに書いたことがある。
善役たちが保安官事務所に籠城する夜、ディーン・マーティンとリッキー・ネルソンが『ライフルと愛馬』をデュエットするシーン。ウォルター・ブレナンが下手くそなハーモニカでセッションに加わる。
こういうところで、アメリカ人の陽気な民主主義イデオロギーにコロリとまいったのだ。
レコード盤では、マーティンのソロしか収録されていないと思う。(後に、ネルソンのベスト・アルバムにデュエット・ヴァージョンは収録された)。
似合わない悪役のジョン・ラッセルが酒場の楽師に「皆殺しの歌」をリクエストして、荒々しく去っていくシーン。
居合わせたネルソンが煙草を手巻きしながら不敵に笑う。
もちろんこの曲は、ウェインの次回作『アラモ』で効果的に使われた。
アメリカの正義は疑われることもなかった。
ペドロ・ゴンザレス・ゴンザレスのホテルマン。
この映画でしか知らないが、まさに脇役はこうあれといった見本のような存在感だ。
悪党は悪党らしく、正義は揺るがない。
この明るさはいったい何だったのだろうか。
この時代を回顧するたびにいつも胸を突かれる問いだ。
2005.07 ホームページより
皆殺しの歌 [西部劇・夢のかけら]
50年を経て、「皆殺しの歌」
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映画の中では、ジョン・ラッセルの悪ボスが酒場の楽士たちに吹かせるこの曲。
酒場に居合わせたガンマンのリッキー・ネルソンが、その意図を悟ってニヤリとする。
暮れなずむ街外れ、保安官事務所にネルソンがやって来て、保安官ジョン・ウェインとアル中の助手ディーン・マーティンに告げる。
「あれは、デグイヨー。メキシコの軍隊がアラモ砦を全滅させた時の曲だ」
若いガンマンはそれだけ告げて去っていく。
保安官は「奴は味方なのか。敵なのか」とつぶやく。
この曲はドーナツ版を亡くしてしまって以来、耳にしたことがなかった。映画の中で流れるヴァージョンは、トランペットのメロディ・ラインが粗い。それに、劇中曲だから、すぐにフェイドインしてしまう。
「ユーチューブ」にアップされているのは、このヴァージョン。
サウンドトラックには違いないんだが、やはり、チ・ガ・ウ。ちがうのだ。
子供の頃の耳に残ったあの「皆殺しの歌」の憂愁とは似ても似つかぬものだった。
それを、やっと見つけた。