映画について語ることは、いつもいくらかの痛みと自己憐憫を含んでいる。それは終った恋の余韻についての繰り言にも似ている。喪った対象が最も美化される不可解な心の動きに支配されるのだ。



 ジョン・カサヴェテスについての一冊を前にして新たにその感を強くする。ヴィジュアルな誌面はめくっていて楽しい。とくに末尾のカサヴェテス邸の写真、『ラヴ・ストリームス』の舞台になったというだけである懐かしい既視感にとらわれる。めくりながら本文を少し拾い読みする。アンソニー・クインがリー・マーヴィンと共演したかったけど、かれの酒癖に閉口した話とか。と、するともう満腹してしまうのだ。もう何かすべて読んでしまったような安堵感にとらわれるのだ。

 カサヴェテスの一回忌に捧げられるように、かれの友人たちに現地取材してつくられたこの本は、不思議なことに、カサヴェテス映画がもたらす感動と同質の読後感を与えてくれる。かれの作品の映画的な質量の豊さ。にもかかわらず、かれが自分のテーマ(かれが果してテーマといいうるものをもっていたかどうか)を捕捉しようとするさいの驚くべき蒙昧さ。かれはヨーロッパの巨匠たちのように、愛の不毛を描き、関係の困難を語ろうとしてきた。


 しかしどこまでもかれの作品は、ファミリーについての報告なのであり、その点で特有にアメリカ人であったのだ。
 ところでわたしはカサヴェテスについて何を知っているだろう。俳優としてなら、御多分にもれず『殺人者たち』のニヒルな役柄で記憶して以来、デ・パーマ映画の、例の頭がボカンと破裂する悪役ぶりを始め、かなりの印象は残っている。『特攻大作戦』や『パニック・イン・スタジアム』などのアクション映画では、もうけ役で光っていた。『ローズマリーの赤ちゃん』の不気味さも捨てがたい。
 それも、かれがインディーズの草分けのような作家でもあるという知識によって増幅されているのかもしれない。スタアではないがその存在感は忘れることができない。しかし監督作品については大いに心許なくしか知らないのだ。『オープニング・ナイト』に加えて、かれの息子ニックが仇役を演じている『ブラインド・フューリー』(怪優ルトガー・ハウアーによる座頭市リメイク映画!)も、現在公開中だから、少し条件は良いのだが。

 『オープニング・ナイト』は果して、盛りを過ぎた舞台女優の不安と幻覚の話だろうか。『グロリア』は、マフィアを裏切り子供を助ける女の話だろうか。最初の設定はそのように始まっても、いつのまにか現実のジーナ・ローランズが役を逸脱して現われてくることに気付く。最後のカーテン・コールにむけられた喝采は誰に向けられたものなのか。役を演じている女優なのか、現実のジーナという女性になのか。映画はそうした択一を意識的に混同させるふうにつくられている。オープニング・ナイトの舞台を努めきった女優に対して、映画のスタッフ全員が祝福を与える、それをそのままドキュメンタリーに仕上げるという結末になっているのだ。
 カサヴェテス映画は、ある局面では極度に個人映画の質をもってしまう一般映画であるようなのだ。
 ヒー・ワズ・ソウ・スウィート。
 ピーター・ボグダノヴィッチの哀惜の一言がこの本のすべてを語っている。まぎれもないファミリーの言葉だ。


「ミュージック・マガジン」1990年4月号