李長鎬脚本監督(崔一男〈チェ・イルナム〉原作)『風吹く良き日』
 この映画のシネマテークの方法論について――‐要するに韓国映画の在日における上映の困難性の突破の仕方について――先に述べなければならないかと思うが、それは略する。

 『風吹く良き日』は首都ソウルにうごめく青春に投影された現代韓国の階級対立の問題を鮮やかな鋭角で描ききった傑作である。ソウル・グラフィティーの副題(これはだれが付加したのかしらない)どうり、地方出身の三人の青年――中華料理屋の出前持ちトッペ、理髪店の見習いチュンシク、ポン引きで小金を貯めるホテル従業員キルナム――の友情と恋と訣れ、といったものが乾いた叙情で処理されてくる。
 かれらは何れも、非熟練の半ば慢性失業的な未組織労働者として日々移ろうように暮らしている。ソウルでの生活がとりわけ素晴らしいのではない、都市化政策のひずみをモロに喰らって田舎では暮らせなくなったから、ソウルヘの道を選んで、かろうじて第三次産業下層の仕事にありついただけなのだ。かれらのうち将来に夢らしいものがあるのはホテル王への立身を夢見るキルナムのみなのだ。

 かれらの淡い愛は、いつも、首都がグロテスクに「開発」されてゆく風景に囲饒されてある。キルナムか美容師のチンノクに自分の夢を語り、チュンシクが理容マッサージ帥のミス柳に想いを告白するとき、いつもそれは丘の上であり、立ち並ぶ高層ビルと間を貫く高速道路に変わり果てた都市の貌が、かれらの向こうに見えてこざるをえないのだ。かれらの逢引きの揚所は、いつも裸の鉄骨がむき出しになった建設途上のビルの下であったり、ブルドーザーに蹂躙され露出された地面の上であったりする。
 トッペがチュンシクの妹チュンスンに出会うのはまだ舗装されていない埃っぼい道の途上であり、道をたずねるチュンスンに「ああ、また馬鹿な田舎娘がソウルにやってきた」とトッペは呟くのだった。
 そしてもし、かれらが夢を語ったり、愛をはじらったりしても、話題はいつも貧困に流れ着き――弟に学校を続けさせてやりたい、病身の父親を養わねばならない――そこに絶対的に沈澱してしまうのである。そうしたかれらを空虚な、奇怪な、建設工事の音がうち、そして見下ろされる都市は無機的な残酷なたたずまいを拡げているのである。

 とくに秀逸に痛快なシーンを選ぶなら、それは、トッペがブルジョア娘の気まぐれな誘惑にのせられてディスコで赤恥をかかされかけるが、故郷での祭りの踊りを想って陶酔的になり、一場を完璧に制圧してしまうほどのフィーバーで踊り狂う場面だろう。
 ここでようやく階級対立ヘの視角が動的になるのである。トッペ役の安聖基〈アン・ソンギ〉がこの武田鉄矢ふうのキャラクター設定で一躍スターになったこともうなずける次第だ。

 貧困が規定する愛のかたち、地方と都市の根源的な異相――これらで構成されるメロドラマは、日本の商業映画が七〇年代前半に(後期やくざ映画と初期ロマンポルノを最後にして)ほとんど使い果してしまったテーマである。
 今、李長鎬の映画に、それらが力として復活していることを見るのは、複雑な感慨をもたらせる。
 『風吹く良き日』には、もちろん、エピソードを欲ばって詰め込みすぎた点、後半の図式タイプのメロドラマで冗長に流れてしまう点など、欠点は少なくない。だが今は、更なる作品――かれのデビュー作『星達の故郷』や河吉鐘〈ハ・キルチョン〉によるその続篇――などを待望することで筆をおこう。

「詩と思想」29号 1984年12月