つづき  略奪された映画のために アフターヌーンテイク2 サミュエル・フラー『ホワイト・ドッグ』

 例えば『ホワイト・ドッグ』、1981年、アメリカ映画。サミュエル・フラー監督、ブルース・サーティーズ撮影、エンニオ・モリコーネ音楽。
 これほどまでにシンボリックに人種差別を鮮烈に映像化しようと試みた大胆な映画はなかった。


 白い牙をもった白いシェパード犬が黒人を襲う。犬は黒人だけを襲撃するように訓練された特殊な攻撃犬だった。白と黒の争闘。
 《画面いっぱいの二本の牙! これが映画というものだ》とサミュエル・フラーはいった。まことに単純明快、これが映画だ。
 まさしくゴダールの『気狂いピエロ』におけるフラーの名セリフの如く「映画は戦場である」。
 フラーを人種差別主義者と断じる素材はむしろここにはない。人種差別について一般には表現者が尻込みするような領域にまで踏み込んだ作品がここにあるといえるのだ。良心的に差別に心を痛めてみせるタイプやおためごかしの差別反対論者は、映画という戦場から出て行け、とフラーから宣されているようだ。

 ビヴァリーヒルズに一人住いの女優の卵ジュリー(クリスティ・マクニコル)がいる。なぜかは知らないが、こういう設定で映画は始まってくる。彼女が車で犬をケガさせることが出会い。病院で手当てし、持ち主を捜すが現われず、自然に犬はジュリーに飼われることになる。一人暮らしの邸宅に強盗が押し入り、それをもちろん犬が助けるというエピソードをはさみ、犬が彼女に特別な感情を抱くに至る展開は、何の変哲もないアメリカ映画だ。
 これは、幼少時から黒人に虐待されるという訓練を受けてきた犬が、初めて見知らぬ人間から親味な扱いを受けて、その人間を恋い慕うという設定の基調であろう。動物もまたヒューマン・ドラマの参加者であるというハリウッド製の定石通りといったところ。

 これはプロローグで、犬は強盗を撃退した後、家を出て、街をさまよう。
 第二の本能にしたがい、獲物を求めて、である。
 いよいよ映画は核心を見せてくる。夜の街を走る白犬が突如として白い牙をむきだし、黒い人間に襲いかかるショットはあまりに鮮烈である。
 突如として映画は輝いてくる。白熱するのである。もちろん白く、熱くなるのだ。
 ここで爆発する暴力は白い人間の側のものであるから。これほどむきだしにそしてシンボリックに、ほとんど様式化された如く白い暴力が描かれたことはなかった。
 アメリカ映画にとって、これは、およそふれたくない映像だったのだろう。

 このすさまじい暴力の炸裂は、以降も、繰り返えし繰り返えし画面を占拠してくる。
 とくに黒人が教会の中で白犬に噛み殺されるシーンにおいてそれは絶頂に達する。 おかげで、この映画はアメリカでは公開禁止であるという。この事実をもってしても、ハリウッドが黒人差別を素材にしてつくった多くの映画――『手錠のままの脱獄』から『ミシシッピ・バーニング』まで――がいかに良識的な欺瞞の産物だったか、よく了解できるのである。

 サミュエル・フラー、今や伝説的なB級プログラム・ピクチュアの巨匠だ。ニコラス・レイ、ドン・シーゲルらと並ぶ。しかし息の長いしぶとい活動は比べる者がいない。後期の作品。
 差別についての面倒な討論や良心的な痛みのポーズはいっさいない。白い牙をむく暴力犬をめぐるテンポの早いアクション映画なのだ。
 『ストリート・オブ・ノー・リターン』などは、ただの脳足りん映画にしか思えないが、それでも黒人の警察署長(ビル・デューク)が愚連隊共にむかって、「シロ共!」「クロ共!」と叫ぶ場面などに、様式好みのグロテスクな非良識性は健在だった。

 『ホワイト・ドッグ』に戻る。ジュリーは動物の調教所を訪れ、矯正を依頼する。ここでカラザーズ(パール・アイヴス)の登場。


 かれは犬の本性を看破して、正体を教えることを拒みつつ、殺すしかないといいきる。
 相棒の黒人キーズ(ポール・ウィンフィールド)が犬の正体を明らかにする。人種差別主義者に幼時から調教され、黒人だけを襲う本能を植え付けられた殺人犬。ヤク中の黒人を使って徹底的に犬を虐待し、黒い肌の人間への敵意、攻撃性を仕込まれた犬。それがこの白犬なのだ。
 ホワイト・ドッグのホワイト・ファング、それはひどくシンボリックな意味をもつものだ。
 キーズは、人種排外主義者の馬鹿気た試みに挑戦するために、犬の再調教を引き受ける。黒い人間への敵意を訓練によって解除するのだ。事態の悲劇的な終幕を予測してカラザーズは止める。
 すでにキーズは同じ調教に二度失敗していたから。しかしキーズは何度でもやってみると主張する。

 深夜、犬はオリの屋根を喰い破り、脱走をはかる。猛獣たちの調教舎を走り抜ける白い犬のスリリングなスピード感は、これも映画の中の出色のシーンだ。脱走した犬を捜すキーズは、翌日、教会で無惨に噛み殺された同じ肌の色の男を見つけねばならなかった。
 教会と黒い人間と白い犬と殺人。グロテスクな様式はここでも最高に極まっている。反差別的な表現(そんなものがあるとしてだが)は差別的な表現と紙一重であるという雄弁な実例がここにある。ここを避けて通っていつも差別の現実に心を痛める良識派市民はどこにでもいるだろう。かれらは、差別の現実によって傷付くこともないかわりに、現実に何ら傷を付けることもできないだろう。かれらの良心に幸いあれ。
 ともあれ、フラーの映像は不愉快であるかもしれないが、それは現実の深層に届いているのだ。避けて通ることはできないものだ。
 犬を殺してくれと哀願するのは今度はジュリーのほうだった。キーズは敢然と対決する。俺だって犬を殺したかった。けれど思いとどまったんだ。この現実を変えねばならないのだ。この犬から、植え付けられた黒人への攻撃性をとりのぞかねばならないのだ、と。



 そのようにして、やがて、キーズの忍耐は実る。犬は黒い肌への敵意を示さなくなる。最終テストが行われることになった日、ジュリーは元の持ち主の訪問を受けた。
 人種差別主義の調教者は、いっけんいかにも温厚な初老の男で孫娘を連れているのだった。犬はもはや矯正された、とジュリーは告げ、かれに最大限の罵倒を投げ付ける。そして物語は一気に悲劇的なカタストローフヘと登りつめていく。
 鎖を放たれた犬、かれは最初ジュリーに牙をむける。思いとどまって、次にはカラザーズに襲いかかるのだった。攻撃犬の哀しい習性はどんな訓練によってもとりのぞかれることはない、と断言したカラザーズに。
 犬は確かに黒い人間への敵意を解除されたが、それはたんにかれの混乱を深めただけなのだった。誰を襲い、誰を襲わないかの、シグナル識別能力が犬の中で機能しなくなったのだ。その結果、無差別に人を襲う攻撃犬に変貌してしまったのだ。

 まことに救いようがなく映画は終らねばならなかった。この映画の結論のなさに苛立つ者はやはり、このテーマに外在的にしか立ち会うことができないのだろう。

つづく