最初は読者として、終焉は筆者として。
 これは、ひとつの幸福な「かたち」であった、といえるのだろう。
 70年代の前期、日活ロマンポルノへの肩入れに惹かれた。後期は、「実録・花田清輝の生涯」を追いかけて読みふけった。


 80年代に入り、刊行のインターバルは開いたが、だいたい執筆者として並べていただいた。小川さんはいつも深夜の電話で、声は元気でも、身体のほうは幽明の彼方に飛び去って久しいのではないかと思わせる不気味な余韻があった。こちらが、深夜に寝にもどるしか帰宅していないような暮らしをしていた所為でもあったが、この不気味さは忘れがたい。


 まだ原稿用紙で受け渡しする時代。小川徹がこだわったのは、「直接の受け渡し」である。体調の悪い時(けっこう、それが多かった)には、代理人に頼むのだ。この「小川方式」のおかげで、その都度べつのメッセンジャーと喫茶店で会った。怪人板坂剛と今はなき第九茶房で会ったのも、原稿を渡すためだった。

 稿料はもらった。ところが、独特のアバウトさで、何時の分なのか、明細がよくわからないような振込だった。
 ゲラの状態をチェックした記憶はない。FAXは一般化しつつあったが、原稿郵送というかたちを原則的に認めない人だから、使わなかったろう。だから、ゲラの著者校正というプロセスはなしに、誌面で初めて自分の文章に対面するのが通常だった。
 誌面の割り付けは、小川さんのあの独特の「悪文」を彷彿させるような個性があった。自分の文章がそのように「活字化」されるのを見るのは、スリリングな体験だった。


 最期の依頼電話は、小川徹論を書けというものだった。生前に追悼文を書くように、それも本人から要請されたものだと了解した。もう座った姿勢でも編集作業をする体力がなくなっている、ということだった。「斬り死にだな」と思った。本人が死出のミヤゲに追悼文を読ませろと頼んでくる。イヒヒという味わい深い笑いを響かせて……。
 わたしは、ひそかに、電話口で瞑目した。言葉には出さず、手前勝手に訣れを告げた。


 雑誌(1989年秋号)ができあがって、巻末に「映画芸術と小川徹」として種村季弘とわたしの文が並んでいるのを見て、なんとなく腑におちた思いがした。なるほど、小川さんのなかでは、こういう見取図だったのか、と。