ジョージ・ラフト『ガラスの鍵』1935 [映画VIDEO日誌2013-14]
2013.08.17 ジョージ・ラフト『ガラスの鍵』1935
『ガラスの鍵』の1935年版と1942年版をつづけて観た。
35年版は、なんと You Tube から6ファイルに分割したものが DL できた。
42年版は、レンタル。
どっちもどっちなんだが、やはり、35年版のジョージ・ラフトがいい。
ハメットの難解な哲学小説を映画化すると、ストーリーは忠実になぞっても、どれだけ陳腐な型どおりの話におさまってしまうかの見本だ。
35年版は、なんと You Tube から6ファイルに分割したものが DL できた。
42年版は、レンタル。
どっちもどっちなんだが、やはり、35年版のジョージ・ラフトがいい。
ハメットの難解な哲学小説を映画化すると、ストーリーは忠実になぞっても、どれだけ陳腐な型どおりの話におさまってしまうかの見本だ。
42年版は、35年版が賢明にも切り捨てたロマンスの部分を、なんとかハリウッド・スタイルの枠におさめようと健闘している。
しかし、主役がいかんせん……。
アラン・ラッドは、役柄の意味をさっぱり理解できていないし、ヴェロニカ・レイクは、流し目の他に表情を持っていないみたいだ。
ハメットの三大長編のうち、最もわかりやすいのが『マルタの鷹』。
『赤い収穫』は、ヒーローが組織の一員であるという点が解釈の糸口になるが、他の点では、作者の書かなかったことを補填して初めて全体像を理解できるという厄介な構造になっている。
『ガラスの鍵』にいたると、解釈の糸口になるものを、普通の尺度であてはめるかぎり、まったく誤解にしか導かれない代物だ。
地方ボスの右腕をつとめる流れ者ギャンブラー。
とはいえ、そこに、日本の任侠もののように、義理人情世界の情感はまったくない。
その男の矜持は、出来合いの話の枠におさめるには、あまりに入り組んでいる。
複雑な心理だが、ハメットは、それを極度にストイックな文体で書いているので、理解を拒絶される部分のほうが大きい。
映画的に翻案すると、42年版のラストのように、苦い笑いのハッピイ・エンドになるしかない。
あれを観て原作『ガラスの鍵』の複雑怪奇な陰翳を想像できる者は、ほとんどいないだろう。
映画はストーリーを変えたわけではない。
高踏にも映る、ハメットの独特の省略法をおぎない、普通に鑑賞してわかる世界に還元した。
映画の作り手たちが、原作の香気を台なしにしたと責められる理由はないだろう。
とりわけ、『ガラスの鍵』の描く男女の愛はわかりにくい。
あまりにあっさり描いてあるので、一般読者が深く考えることなく読み流してしまうこともあるだろう。
このわかりにくさには、ハメットの女性観がよく出ている。
「流れ者に女はいらない」という建前だが、「寄って来る者は拒まず」の好色さが本音のところ。
建前と本音の隔絶した矛盾のあいだに黒ぐろとした渾沌がある。
渾沌にせまり得たなら、一流の作家と遇されたはずだが、あいにくと、渾沌を暗示させる「寡黙」きわまりないシーンを呈示するのみで終わった。
『狂へる悪魔』『推理作家ポー 最期の5日間』 [映画VIDEO日誌2013-14]
カフカと映画 ペーター・アンドレ=アルト [映画VIDEO日誌2013-14]
カフカの作品でドッペルゲンガーのモティーフが明確に現われるのは、登場人物たちに、いってみれば正反対の人間を肉体的に白己の内部へとりこむことを可能にする独特の共生関係においてである。
一九一〇年に書かれ、二年後に『観察』に収められて公表されたテクスト『不幸であること』は、人格の二重化というモティーフを典型的な方法で加工している。というのは、そこに登場する幽霊は、一人称の語り手の役割を果たす孤独な若者の、まさに分身として現われるからだ。
「おまえの性分とは私の性分だ」と若者は語る。
「そして私が性分としておまえに親切に振る舞うなら、おまえも異なった振る舞いをしてはならない」。
アドルノによれば、カフカの、主人公たちは、神話の登場人物と同様、「敵の力を吸収すること」によって魔術的なかたちでの「救出」を実現しようとする。この意味においては短編『判決』も、分身譚の変種としての、人物たちの弁証法的結合によって規定されている。
分身の存在は、反復ではなく補完を意味する。一九一三年二月一一日のカフカの日記への書きこみが語っているように、友人という人格の内部に、ゲオルク・べンデマンと父親が同じように複写される。
「友人は、父と息子を結びつけるものであり、両者の最大の共通点である。
ゲオルクはひとりで窓辺に座り、狂喜しながらこの関係性に思いを馳せ、父が自身の内部にいると考え、逃避的な哀しい沈思黙考にいたるまでのあらゆることが平穏であると感じる。
いまや物語の展開が提示するのは、ふたりの共通点、すなわち友人のなかからどのようにして父親が立ち現われ、敵対者としてゲオルクと対時するかという過程だ(…)」。
古めかしい印象をもたらす極端なかたちで出現するロマン主義的なドッペルゲンガーのイメージは、もはや統一体をなしていない、主体の比喩となっている。ゲオルクと父親は、分裂して数多くの白己という形象になる。それらは、そのつど敵対している人物と溶け合い、つねに暫定的なものでしかない統一体をつくり出す。
主体の分裂というテーマがテクストにおいて有する優位性を考慮すると、そのモティーフが中心的な役割を果たす映画にカフカが関心を抱いていたことは理解しやすい。
一九一三年には、文学として書かれたドッペルゲンガーというテーマを扱った二本の映画が映画館にかけられた。
それはすなわち、すでに紹介した、一八九三年に発表されたパウル・リンダウの戯曲に基づく――リンダウ自身が脚本を担当した――マックス・マックの『分身』と、シャミッソーの『ぺーター・シユレミールの不思議な物語』(一八一三)に基づいてハンス・ハインツ・エーヴァースが脚本を書いたシュテラン・ライの『プラークの大学生』である。
ジークフリート・クラカウアーが、そこでのドッペルゲンガーというテーマがドイツ映画における〈強迫観念〉を創始したと評した二本の映画の特徴は、映画の演出という手段を利用して先行する文学に忠実であろうとした姿勢にある。それらが斬新だったのは、ふたりの有名作家が参加し、脚本に対する責任を負ったことであった。
リンダウは一九〇三年までベルリンのドイツ劇場を率いていたし、エーヴァースは『悪魔の狩人たち』(一九〇九)、『アルラウネ』(一九一一)以来、同時代の読者からE・T・A・ホフマンの伝統の継承者と見なされていた空想文学の旗手であった。
同様に一般大衆に異例な事態として受けとめられたのは、アルベルト・バッサーマンおよびパウル・ヴェーゲナーのような著名な俳優が映画の仕事に手をそめたことだった。
『分身』で主演をつとめたバッサーマンは、一九一一年以来、ラインハルト=アンサンブルの誉れ高きメンバーであり、〈イフラントの指輪〉〔アウグスト・ヴィルヘルム・イフラントの遺言により、ドイツ語圏でもっとも重要な舞台芸術家が受け継ぐとされている指輪〕の保持者であった。
ヴェーゲナーもベルリンのドイツ劇場の一員で、芸術家として輝かしい名声を得ていた。
新聞や雑誌の学芸欄がはじめて映画をめぐって深い記述をおこない、封切よりも前に両方の映画について報じたのも当然であった。
カフカが少なくとも『分身』を観たことは確実なので、ここではまずその題材、ストーリー、演出について確認しておきたい。
『分身』で主演をつとめたバッサーマンは、一九一一年以来、ラインハルト=アンサンブルの誉れ高きメンバーであり、〈イフラントの指輪〉〔アウグスト・ヴィルヘルム・イフラントの遺言により、ドイツ語圏でもっとも重要な舞台芸術家が受け継ぐとされている指輪〕の保持者であった。
ヴェーゲナーもベルリンのドイツ劇場の一員で、芸術家として輝かしい名声を得ていた。
新聞や雑誌の学芸欄がはじめて映画をめぐって深い記述をおこない、封切よりも前に両方の映画について報じたのも当然であった。
カフカが少なくとも『分身』を観たことは確実なので、ここではまずその題材、ストーリー、演出について確認しておきたい。
スティーヴ・レイルズバック『エド・ゲイン』 [映画VIDEO日誌2013-14]
スティーヴ・レイルズバック『エド・ゲイン』
http://atb66.blog.so-net.ne.jp/2016-10-23
『エド・ゲイン』In the Light of the Moon (2000)
スティーヴ・レイルズバックasエド・ゲイン
マンソンとゲイン。二人の有名な殺人鬼を演じた一人の役者。
Ed Gein: The Butcher of Plainfield (2007)
Ed Gein: The Musical (2010)
Ed Gein: The Ghoul of Plainfield (2004)
これは、ショート・ドキュメンタリのようだ。
じつは、ゲイン映画を集めてみたのだが、なかなか観る機会がない。
というか、まとめて観る気力を奮いたたせられない。
そして、日々は足早にめくられていく。
観れないまま、ああ、八年も過ぎてしまったか、と気づくお粗末。
http://atb66.blog.so-net.ne.jp/2016-10-23
『エド・ゲイン』In the Light of the Moon (2000)
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マンソンとゲイン。二人の有名な殺人鬼を演じた一人の役者。
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これは、ショート・ドキュメンタリのようだ。
じつは、ゲイン映画を集めてみたのだが、なかなか観る機会がない。
というか、まとめて観る気力を奮いたたせられない。
そして、日々は足早にめくられていく。
観れないまま、ああ、八年も過ぎてしまったか、と気づくお粗末。