足立正生『映画/革命』について [映画VIDEO日誌2001-03]
足立正生『映画/革命』について
この本は、映画について語られた書物の多くが帯びる悲哀とは無縁だ。
「作家=運動者」という概念を自然体として通過した足立のスタイルには、気負いも挫折感もない。声高なアジテーションもない。驚くほど率直な自己開示がここには満載されている。
あえていえば『映画/革命』は足立という表現者そのものでもある。
表現者は、作家性と運動性とを自在に行き来する。だが運動者の側面に比べて足立の作家性はごく貧しい。
この「貧しい」という認定がわたし自身の観点の貧しさをも露呈することは承知しているが、その上でなお断定を取り下げることはできない。
この本を読みながら、足立の監督作品のいくつかをおぼろげに思い出した。はるか彼方に忘却していたことだ。
『堕胎』や『鎖陰』は京大のバリケードの中で観たのだと思う。
『叛女〈さからめ〉/夢幻地獄』や『噴出祈願/15歳の売春婦』は、新宿まで出てきたときに観た。
『銀河系』や『性遊戯』や『女学生ゲリラ』などは西部講堂で観たはずだ。
それから『赤軍――PFLP・世界戦争宣言』も。
二十代の前半だった。どれも鮮烈に刻まれているとはいいがたい。
初めて観た作品が『堕胎』で、その時の失望と当惑のほうが鮮やかに残っている。
要するに「状況/映画」としてわたしの追憶のうちにしまいこまれているが、作品自体の力としてはささやかな光しか放っていない。作家足立はその程度の重みしか持っていなかった。
ピンク映画であるのにエロがない。他の抽象物は雑多にまぎれこんでいるのにエロだけがない。
ピンク映画に期待される唯一のものが欠けていながら、妙に騒々しく、過度に図式的なのだった。
若松映画のぎとぎとした暗い怨念といった質とは明らかに系統の異なる観念性だった。
そして著書『映画への戦略』に顕著な、政治臭の強い文体。これは著者の本位ではなく刊行されたというが、印象は定まってしまった。新左翼特有の難解さというより、とても血の通った人間が書いたとは信じられないような観念的な作文にがっかりした。だから以降の行動選択にしても、ロマン的な意味以上のものを見い出すことができなかった。
『映画/革命』で足立は自作についても饒舌に語っているけれど、作家の意図したたいていのものをわたしは観落としていると思う。
一般的にいえば、自己解説の必要な作品の価値は低くなる。かえって大島渚や若松孝二の作品分析が優れている。
そしてこのこと自体が足立の不安定な作家性を側面から証明してしまっているように思える。
作家であるより、より運動者であったという意味だ。
運動の意味を、ここでは、「芸術は芸術運動のなかからしか生まれてこない」という花田清輝テーゼに従って使う。
そのテーゼの実践者としての足立は、さして気負いをみせることもなく、テーゼを当たり前の所与のようにふるまっている。その点は見事に一貫して『映画/革命』という書物を緊張させている。
彼が作家性について語るほど、オルガナイザーとしての卓抜さが明瞭になるようだ。ただしそれは自作についてはあまり有効だとは思えない。大島や若松の作品についてなら他の追随を許さない分析がなされているのだが――。
もちろん足立はそこで批評者としてではなく、「批評=運動」者として真価を発揮しているのだ。
この本の全体から受ける足立のイメージは、火野葦平の登場人物のようだ。
しかし抱懐した思想は晦渋さにみちみちている。日本の農民が軍国主義を支えてきたとすれば、足立は同じ血をボリシェヴィズムの芸術運動に捧げた(現在も捧げつつある)といえる。
芸術運動は、悲劇を演ずるか、あるいは無様な笑劇をしか残さないで終わる。――これには、とくにみるべき作品を生み出さなかったケースにおいては、という注釈がつくけれど、じつにしばしば運動は運動の軌跡のみを累々と積み重ねて消尽されていく(から注釈は無用かもしれない)。
表現活動はすべてエゴに回収されてしか現実のものにならないという常識からすれば、それを共同化する作業は想像を超える。芸術運動の理論の難解さは、単純にいえば、いかにその常識から身を引き剥がすことができるかにかかっている。
個人の表現活動を集団的に開示していくという、生理感に反する行為を実現できるかどうかだ。
集団イメージが個人の秘密領域を浸触してくると捉えるかぎり、その理論には近づきえない。「花田・吉本論争」における吉本の世代実感主義のように。
芸術運動理論のエッセンスは、花田の戦時中の著作『復興期の精神』に発する。
ただこの点は、花田をよほど精密に読みこまないと理解できないから、一般的レベルにおいてはほとんど無効といったほうがいいだろう。教科書風のテーゼが形をなすのは、花田の五〇年代の理論的展開においてだが、これは逆に、言葉がわかりやすすぎて教条的理解しかもたらさないという弊害を生んだ。
足立は、花田理論の影響圏とはべつのところ、「映画=運動」という領域から、原則的にこのテーゼを体現するにいたった。こうした運動者の資質は、『映画/革命』という回顧録をきわめてアクチュアルなドキュメントとして突出させている。
六〇年代文化革命に立ち合った多くの表現者たちへの公正な評価が、ここには大河のように流れている。他者をみる目の暖かさともいえるが、それは個人を捨て花田のいう「インパーソナルな関係」に賭けた人間の、オルガナイザーとしての冷徹さであるように思える。
これは、鈴木清順共闘や批評戦線といった個別のトピックのみではなくて、ほとんど全編に充満しているといってよい。《とにかく、私たちの世代では、平岡と私のように、とん、ちーん、かーんと相互に誤解して合意を発展させていく傾向が強い》とは、じつに含蓄の深い受け止めだ。
足立の現在のポジションは、個人を捨てたところに挫折感は生まれないし、時代が個人を流し去っていくという無力感からも免れることを示しているようにも思える。いまだ闊達に発言する「作家=運動者」にまみえることは奇異なのだろうか。
もちろん、この本を、六〇年代の文化革命がどこまで遠くに達しどこで敗退していったかを測定する現場証言として鑑賞するのは勝手だ。そうした一面から有用でないことはないだろう。
けれどわたしは、ここに記してきた趣旨とは外れるかもしれないが、これを一人の特異な表現者のたどったごくパーソナルな記録として受け取りたい。彼は性と政治が衝突するピンク映画というマイナーな(国内植民地的といってもよい)表現磁場から出立し、パレスチナという「世界性」に投企していった。そこに飛躍断絶はないし、過度に浪漫的な冒険主義もなかったと思える。
真の映像作家となるための長征に旅立ち、そしていくらか変則的な仕方であったが帰還して現在にある、とすれば、この本の過渡性――映画と革命とのあいだに引かれた「/」の意味を埋められるだろうか。
(未発表) 2003.11.20記
マーヴィン・ルロイ『東京上空三十秒』 [映画VIDEO日誌2001-03]
黒人版007シリーズ [映画VIDEO日誌2001-03]
2003.06
『トリプルX』
ブラック版007(XXX)のシリーズとして期待したけれど。
ヴィン・ディーゼルの黒人ボンドと、アーシア・アルジェントのボンド・ガール。
二作目『ネクスト・レベル』はディーゼルが降りてしまって、相棒役に予定されていた(らしい)アイス・キューブの主演となった。これは、ビデオ発売のみ。
『自由の幻想』 『オリエント急行殺人事件』
『ザ・リング』
アメリカ製リメイク版。しっかり居眠ってしまった。 『上海から来た女』
『ボルタンスキーを捜して』
図書館で借りたアーティスト・シリーズのドキュメント・フィルム。
後年、もういちど借りようとしたら、残念なことに処分されていた。
『クイーン・オブ・ザ・ヴァンパイア』
『折れた槍』
スピルバーグ クルーズ ディック [映画VIDEO日誌2001-03]
ジョン・カーペンターの幼稚なアホ映画 [映画VIDEO日誌2001-03]
ホームページ更新日記2003.04.01 より
ジョン・カーペンターの『ゴースト・オブ・マーズ』は、想像を絶して、凄まじいばかりの幼稚なアホ映画であった。
まず、どうして舞台が火星植民地にとられているのか、最後までわからない。作り手は納得のいく答えをストーリーのなかに用意していない。とはいえ、これは「火星にするしかなかったんだろうな」となんとなく了解できることではある。
なぜなら――話があまりにタリラリラ~ンすぎるので、背景が地球の某所ではいろいろ具合のよろしくない点が百出したんだろう。
火星じゃなきゃ成り立たない話だ。すべてマイナスの意味合いにおいて。
つまりこれは、粗悪なアナクロニズムを作者と共有しなければ観てられないたぐいの恐るべき映画なのだ。
50年代のB級SFフィルムの世界に彷徨いこんだようなもの。居心地悪くならなければおかしい。
観客が50年代映画の世界にタイムスリップしたのではないと信じられるとすれば、多少とも特殊効果の映像にふれることができるシーンにおいてのみだろう。
たしかにテクノロジーの方面なら、人類は退歩していない。格段の進歩がみられる。
話はこういうものだ。
火星植民地のある街に凶悪犯を護送するために警官の一隊が送りこまれる。
凶悪犯にアイス・キューブ、警官隊の隊長にパム・グリアー、副長にナターシャ・ヘンストリッジ。
列車を交通手段とする辺境の、炭坑によって栄えている街――という設定も、いかにも西部劇スタイルを流用した安物のSFそのもの。街は火星人に乗っ取られていて、隊長はまっさきに戦死、副長が凶悪犯とその一党と協力して圧倒的多数の敵の攻撃に立ち向かう。
展開が定石通りのところは、まあ我慢するとしても……。
それにしても、同じエイリアン侵略テーマをあつかったスティーヴン・キングの新作『ドリームキャッチャー』の怒濤の迫力と比べて、どうにも薄っぺらいのには閉口する。
ステキンと『ハロウィン』のカーペンターでは格がちがうといえばそれまでだが。
火星人は一種の精神寄生体。宿主の肉体を借りて、ウンカのように攻めてくるというパターン。
このルールでくるなら、寄生の様態をあの手この手で見せてじょじょに恐怖を高めていくという演出がそもそも求められるはずだ。とくに前半はそれが勝負になる。
ところがこの盛り上げがなんともかんとも拙劣で苛々させられる。
カーペンターってこんなに下手クソだったっけ。
ストーリーは何の華麗さも技巧もなく、後半、善玉VS悪玉のドンパチという単純激突アクションになってしまうのだ。
この集団戦闘シーンにしても、もう少しなんとかならないのかね。もたもたとシンキくさい。
数だけは多いが原始的な武器しか持っていない敵と、劣勢小人数でも大量殺戮用の火器で対抗する正義の側。
この芸のない単純さ。
これはちょうど、50年ばかり昔に量産された西部劇映画の陳腐で使い古された図式の焼き直しにすぎないではないか。
インディアンならぬ火星人たちは次から次へとバタバタと射的のマトになって倒されていく。
この恐るべきワンパターン!
いやでも既視感が訪れてくる。
アメリカが介入したソマリア戦争を題材にした『ブラックホーク・ダウン』は、カルドーのいう「新しい戦争」の局面を垣間見せてくれたが、基本的なドラマは「騎兵隊VSインディアン」の戦闘映画だった。
しかし『ゴースト・オブ・マーズ』の場合は、単純素朴な焼き直しでしかないのだ。
――こりゃ、地球の某所の話にしたらいろいろと不都合が生じるだろう。
この映画のロケ地はニューメキシコ州の先住民居留区の鉱山だという。なんともはや皮肉なことだ。
作り手たちはことの皮肉に思い当たらなかったらしい。
周知のごとく「インディアン標的活劇」は、ある時代に特有の産物であり、それらはジョン・フォードの名作であれ、その他ひとからげにされる駄作群であれ、1970年前後の反省の時期をくぐって一掃された(フォードも反省的な作品を残した)。
同じものは二度とつくれない。
しかしまあ、SFのパッケージをほどこせば、つくれないこともない。
――と作り手は思ったのだろう。
他ならぬネイティヴ・アメリカンのリザベーションをロケ地に選んで、どんな霊感にとらえられたものやら。
それにしても、この映画のアホさかげんは、ここにとどまらない。
ラスト近く、危地を脱した騎兵隊は、違った、海兵隊は、また違った、地球防衛隊は、そのまま逃げるのではなく、人員が半数以下になっているにもかかわらず、もう一度、敵部隊の中枢に逆襲のためにもどることを決意する。
司令官(副長)は決意を隊員に告げる。
「この土地を支配するのは奴らなのか、われわれなのか。はっきりさせる必要がある。是非ともそうしなければならない」と。
どこかで聞いたセリフではないか。
安物の西部劇ではおなじみのセリフ。
既視感? いや、ちがう。
これは……これは、現実世界において、このところいやになるほど聞かされたセリフではないか。
サダムの大量破壊兵器に屈するのか。それとも自由と民主主義のために立ち上がるのか。
はっきりさせる必要がある。
決断をくだすのはきみだ。
とすれば、できそこないのSFアクション映画の絶望的なアナクロニズムは、あながち作り手の救いがたいアホさを映しているのみではないのだ。
いや、まったく正反対だったりして……。
彼らの嗅覚は、まさしく現代のアメリカ帝国のルサンチマンの一部に、正確に対応しているのかもしれない。
ブッシュはたんなるアホ大統領ではない。最強帝国の戦略を発信するマシーンのメカニズムの一つなのだ。
テクノロジーは飛躍的に進歩したが、敵と己れの正義を分かつ叡知に関しては、致命的なほどの退歩をみせている。
現代世界の意識は、先住民居住区(国内植民地)をロケ地にした火星植民地映画にゾッとするほど正確に反映してしまったのかもしれない。
そして、「日米韓軍事同盟」下にあって、この国の支配層がとりうる選択肢も、それがどれほど弄劣な現われをみせようとも、自ずと限られているだろう。
スーパー帝国による統合軸に翼賛するために、各国家もまたそれぞれ国家主義への傾斜を深めていく。グローバリゼーションの時代、われわれの抵抗の根拠はますます困難になっていく。
この十数年の喪われた歳月の意味を問わねばならないと、痛切に思う。
李香蘭『迎春花』などなど [映画VIDEO日誌2001-03]
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ヴィン・ディーゼル&ミシェル・ロドリゲス『ワイルドスピード』 [映画VIDEO日誌2001-03]
ライナー・W・ファスビンダー『ベルリン・アレクサンダー広場』 [映画VIDEO日誌2001-03]
ホームページ更新日記2002.06.21より
ライナー・W・ファスビンダーの『ベルリン・アレクサンダー広場』を観てきた。
といっても、全十四話、十五時間のフィルムのうち第一話「処罰が始まる」だけだ。
ファスビンダー没後二十年になるという。
この夏、全十四話が、快挙というのか、暴挙というのか、一般公開されるに先立っての試写があったのだ。
この大作を観るのに二日がかりになる。
わたしは果たしてこれを観に行くのだろうか。
前に大島渚の『アジアの曙』を観たことがあるが、あのときは、十時間か十二時間くらいで、一日で済んだ。
あれよりもきつそうだ。
『ベルリン・アレクサンダー広場』第一話は、懐かしさにみちた映像世界だった。
ああ、やはりファスビンダーはここにいる。彼にしかできない訴えを、彼にしかできない愚かさで叫びつづけている。
もう死んでしまったから変節することもない。
物語は、妻を殴り殺したフランツ・ビーバーコップ青年が刑務所から出てくるところから始まる。救いようのないこの男は、街で娼婦を買うが不能に終わり、妻の妹を訪ね殴りつけレイプして凱歌をあげる。
まさしくこいつはファスビンダー自身の自画像そのものではないか。
あと十三話にわたって、えんえんとこのくそったれ男が魔都ベルリン彷徨を狂いまわるさまが描かれるのだと、いやおうなく了解させられる。
その意味では観なくてもわかる?
たぶんこれは、自ら主演もした『自由の代償』や、自らの私生活まで露悪的にさらした『秋のドイツ』などより以上に、ファスビンダーが己れをピュアに投影した作品なのだろう。
愛の過剰、愛の不能。
どちらでも結局おなじことなのだが、倦まずに彼はその歌を歌いつづけた。
自殺するかわりに映画を撮りつづけ、そのさなかに三十七歳で逝った男。
彼の生を夭折というには、あまりに多くの作品が残っている。
その代表作とみなせるだろう『ベルリン・アレクサンダー広場』が、この夏、公開される。
『ブラックホーク・ダウン』 [映画VIDEO日誌2001-03]
金守珍『夜を賭けて』 [映画VIDEO日誌2001-03]
ホームページ更新日記 2002.02.20より
梁石日原作の映画『夜を賭けて』の完成試写を観てきた。
すばらしいの一言。
金守珍(キム・スジン)の演出、朴保(パク・ポウ)の音楽、ともに期待を大きく上回る出来だ。
これほどのエネルギーにみちた「日本映画」には、最近とんとお目にかかっていない。
純愛と性と暴力。
原作世界の基底にある硬質性を変質させることなく、なおかつ映画独自の世界をつくりあげることに成功した金守珍の力量には瞠目させられた。
正直いって芝居者としてのキャリアはともかく、守珍氏の第一回監督作品には、期待と不安がこもごもするところがあった。不安はみごとに杞憂に終わった。役者たちの表情、目の底に燃えているものを見とどけるだけでも、作品のすばらしさは証明されるだろう。
現今の日本人の目には、ある種の不透明な残虐さをそのまま映すかのように倦怠を伴った品位のなさが流れているように思える。演技ではこれを消すことができない。極論すれば、どんな日本映画もこの不透明であいまいな膜につつまれた顔ばかりをさらしてきた。「人間」が喪われていたのだ。
映画『夜を賭けて』は、やすやすとこの障壁をぶち破った。
居住地日本からも「二つ」の祖国からも打ち捨てられた在日の叫び。
「どこへ行っても檻だ」
「逃げるのはもうごめんだ」
「ここで生きて愛する他に何が選べる」
いくつかの科白を拾ってくるだけでもテーマは明らかだ。
しかしこれはテーマ性の勝った演説口調の作品ではない。
アクションに次ぐアクション。猥雑なエネルギーを解放し、裸にむかれた人間のすがたを見せつける。
大衆娯楽の基本線に忠実に沿ったといってよい。
この情念を支えるのは、原作から映画化作品を貫いている志だ。そこには在日の降り重なった歴史の負荷がある。
メロドラマの叙情は、作中で使われる「クレメンタインの歌」に凝縮されている。
本歌はアメリカ西部開拓時代のフォーティーナイナーズの甘い別離の歌、日本では「雪山賛歌」として知られる。
といっても映画での背景を理解する助けにはまったくならない。
映画のなかで朝鮮語で歌われるこの歌は、かつての宗主国と植民地では叙情がどれだけ異なった力で人間を縛るかの雄弁な例証となっている。この歌は朝鮮語で歌われる以外の変奏はないかのように迫ってくる。
歌われる家族離散の状況には、映画が描いた時代である1958年(4.3済州島事件、朝鮮戦争を経て、アメリカの傀儡イ・スンマン独裁に支配される「南」には希望を見いだせず、北の共和国に「地上の天国」をみて帰国運動が高まっていた時期)が投影されている。
それにとどまらず、その状況はいまだ改変されていないのだ。
原作に「クレメンタインの歌」をもたらせたのは、金時鐘(キム・シジョン)の詩であり、日本的叙情がいかに呪縛にみちたものであったかを語る詩人の屈折にみちた証言だった。
在日の志は、この一面からも綿々たる流れをつくって映画を豊かにしているのである。
病院での『フレンチ・コネクション2』 [映画VIDEO日誌2001-03]
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』 [映画VIDEO日誌2001-03]
『千と千尋の神隠し』 [映画VIDEO日誌2001-03]
アンリ=ジョルジュ・クルーゾー『恐怖の報酬』 [映画VIDEO日誌2001-03]
ゴダール『映画史』 [映画VIDEO日誌2001-03]
内田吐夢『宮本武蔵』五部作 [映画VIDEO日誌2001-03]
2001.06
内田吐夢『血槍富士』
『宮本武蔵』
『宮本武蔵 般若坂の決斗』
『宮本武蔵 二刀流開眼』
『宮本武蔵 一乗寺の決斗』
『宮本武蔵 巌流島の決斗』
地下鉄早稲田駅の近くに、いわゆる「名作」をそろえたレンタル・ショップがあった。新作・人気作を中心にした一般のつくりではない。棚は監督別、主演スター別の配列。二階フロアの狭い店内はわりとアカデミックな雰囲気だった。
VHSの渋いモノも見つけられたので、一時期、大学に出講する日にまとめて借りてくることにしていた。
『アメリカン・ナイトメア』 [映画VIDEO日誌2001-03]
2001.06.07
アダム・サイモン『アメリカン・ナイトメア』
ホラー・フィルムのドキュメンタリと思って観ていたら、随所に、ホラーこそ反体制のカウンター・カルチャーだったという自己顕示が……。おかげで、60年代世代の懐古的「自慢話」の色合いが濃い。
それは我慢できる。無視すればいい。
けれど、ちょっと違うんじゃないかね。
ロメロ御大はともかく、トビー・フーパーなんかに体制へのノンがあったのか。
インディペンデント・ホラーによって60年代末から70年代の時代を語るドキュメンタリー。
観点は、わたしの『エイリアン・ネイションの子供たち』と重なってくるが、残念ながら、共鳴できるところはごく少ない。
まず作り手たちの反体制度について、生真面目なイデオロギーをあてはめすぎている。
価値ある反抗と位置づけるのは無理ではないか。
ジョージ・A・ロメロとトム・サヴィーニ以外の顔ぶれは、たんなるホラー・オタクなのだ。
ごっちゃにして回顧・崇拝に祭り上げるのは待ってくれ。