アーネスト・ディッカーソン『ジュース』 [BlackCinema]
アーネスト・ディッカーソン『ジュース』92年製作
1993年2月26日金曜
『マルコムX』までのスパイク・リー映画の撮影を担当してきたディッカーソンの監督デビュー作。
リーの微温的体質とは相容れない部分が突出してきた。
オマー・エップスと今はなき2PAC。
ストリートの愚直なブラック・ナショナリズム。
スパイク・リー『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』 [BlackCinema]
1992年12月8日火曜
スパイク・リーの第二作。
ブラックにして、NYインディーズ。
これを観ると、マティー・リッチがいだいたような「敵意」を理解できる気がする。
マティー・リッチ『ストレート・アウト・オブ・ブルックリン』 [BlackCinema]
マティー・リッチ『ストレート・アウト・オブ・ブルックリン』91年製作
1992年11月29日日曜
当時19歳のリッチのデビュー作。
製作・監督・脚本・主演の自伝的作品。
正直なところ、この程度の愚直で拙劣な作品が商業ベースに乗ることが不思議になった。
ブラックシネマの勢いといってしまえば、それまでだが。
リッチの次回作はなかった。
ラップなら一発屋も腐るほどいたが、映画ジャンルでは珍しい。
ブラックシネマの先行する作り手たちが恵まれた教育を受けた中産階級出身であることをリッチは批難した。ひるがえって、ゲットーの暮らしをリアルに体験してきたのは自分だと誇った。
その主張それ自体は原則として正しかった。
ラリー・フィッシュバーン『ディープ・カバー』 [BlackCinema]
ビル・デューク『ディープ・カバー』92年製作
1992年11月29日日曜
潜入捜査官もの。ラリー・フィッシュバーンの存在が光る。
『キング・オブ・ニューヨーク』のギャングとか、 『理由』のマッチョ刑事とか、脳ミソのないキャラクターもぴったりくるけれど、やはりこの作品のように、過去のトラウマを背負った陰影深い役柄に本領を発揮する。
『ボーイズン・ザ・フッド』の父親役や、 『ハイヤー・ラーニング』の教師役までこなしてしまう演技の幅は並ぶ者がいない。
それらのフケ役は、サミュエル・A・ジャクソンやモーガン・フリーマンなどの年代のスターに回るものなのだが。
『マトリックス』シリーズでブレークしてしまったのは、何か面映い気がする。
カーレン・トーセン『ハーレム135丁目』 [BlackCinema]
カーレン・トーセン『ハーレム135丁目』89年製作
1992年9月26日土曜
Oh poor Jimmie, 気の毒なジミー、貧しかったジミー。
『ハーレム135丁目 ジェイムズ・ボールドウィン抄』を観て、胸を去来したのは、おおよそそういう想いだった。
それでしかなかった。
気の毒なジェイムズ、その豊かな才能に見合うだけの傑作すら書くことができず、去ってしまった。
師であり、友人であったリチャード・ライトを非難するつまらない貧しい文章を書き、ヘンリー・ジェイムズ的な巡礼物語『もう一つの国』が代表作であるような、文学的生涯。
それもまた「アメリカ人の生活には第二幕がない」ことのありふれた例証にすぎなかったようだ。
ビル・デューク『レイジ・イン・ハーレム』 [BlackCinema]
ジョン・シングルトン『ボーイズ’ン・ザ・フッド』 [BlackCinema]
スパイク・リー『ジャングル・フィーバー』 [BlackCinema]
マリオ・ヴァン・ピーブルズ『ニュー・ジャック・シティ』 [BlackCinema]
マリオ・ヴァン・ピーブルズ『ニュー・ジャック・シティ』91年製作
1991年6月8日土曜
公開時、映画館に入れなかった客があふれ、騒乱状態になったという伝説がある。
暴動寸前のキケンな臨場感を帯びた一作。
その分だけ作品的生命は短いだろうと思わせる。
90年代ブラックシネマの中心点には、常にスパイク・リーとマリオ・ヴァン・ピーブルズがいた。
この二人が対照的な二極をつくっていた。
一口にいえば、ブラック・アメリカンの苦悩をドラマ化する方向と、クライム・アクションにメッセージを託す方向。
前者の典型がリー、後者の代表がピーブルズ。
この時代に発信されたブラックシネマのすべては、この二方向を持った。
リーのように暴力を世界の一要素とみるか、それとも暴力を世界の避けがたい中心とみなすか。
個人的にいえば、こちらを支持したい。
すべてを叩きつけた監督デビュー作という意味では、マリオのベストだが。
愚直すぎるブラック・ナショナリズムの匂いをふりまく一方でみせる不器用さが少し気になった。
ウェズリー・スナイプス(ドラッグ・ディーラー・キング)の儲け役が光る。
アイス-Tの刑事役も悪くはない。
ピーブルズは役者としては引き立て役に徹した。
スパイク・リー『モ' ・ベター・ブルース』 [BlackCinema]
スパイク・リー『モ' ・ベター・ブルース』90年製作
1991年2月23日土曜
単独で何の期待もなく観たなら、失望ももっと少なかったろう。
しかし『ドゥ・ザ・ライト・シング』の次回作という先入観なしには、この作品にむかえなかった。
前作からの進化までは望まないにしても、同レベルの余韻くらいは無意識に要求しているわけだ。
この作品の限界とは何か。
リーの示したジャズ観の月並みさ、とくにジョン・コルトレーンを「引用」するさいのセンチメンタリズム。
そしてデンゼル・ワシントンがまったくジャズマンに見えないこと。
その二点に尽きる。
『トレーニング・デイ』までのデンゼルは、正直なところ、黒人にさえ見えなかった。
シドニー・ポワチエよりももっと白人に見えた。
比較するのはよくないと知りつつ、クリント・イーストウッド監督、フォレスト・ウィテカー主演の『バード』を思い浮かべてしまう。
まったく問題にならないくらい『バード』のほうが優れているのだ。
スパイク・リー『ドゥ・ザ・ライト・シング』 [BlackCinema]
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スパイク・リー『ドゥ・ザ・ライト・シング』89年製作
1990年11月25日日曜
スパイク・リーの早くきすぎた代表作。
というよりブラックシネマ全般でのベスト作(客観評価での話だが)。
ふりかえってみれば、動きはすべて92年のロサンジェルス暴動に収斂していっている。
それを産みださざるをえなかった主観情勢はブラックカルチャーの断片というかたちで広く遍在していたのだ。
パブリック・エナミーより政治的にずっと穏健なリーが、穏健さゆえに、そうした断片の最も巧みなサンプリングを映像によって示すことができた。
(エナミーはリーの依頼で挿入曲 Fight the Power をつくった。)
映画が爆発の予兆だったというのはたんなる結果論。
多くの才能がブラック・レヴォルーションの一部に、ただ避けようもなく所属していたのだ。
リーを否定した者、乗り越えようとした者、そして他ならぬリー自身も、これ以上の作品をつくりえなかったわけだ。
ドゥ・ザ・ライト・シング。まともにやれよ。
黒人自身による黒人自身のためのブラックシネマ。スタッフも黒人、観客も黒人。それが全米メジャーの映画商業市場の一角を占めた。そして、日本にも輸入流通をはたしたのだった。
ここから十数年、じつに多くの黒人監督が輩出し、それ以上に多彩な俳優たちがスクリーンに現われてきた。
クロニクルをめくれば、第一ページにこの映画がある。
チャールズ・レイン『サイドウォーク・ストーリー』 [BlackCinema]
『ジャック・ジョンソン』 [BlackCinema]
スパイク・リー『ジョーズ・バーバーショップ』 [BlackCinema]
ボギー&バコール『キー・ラーゴ』 [日付のある映画日誌1985]
30年遅れの映画日誌。映画を観るためには映画館に出かけるしかなかった時代の話。
1985年12月31日火曜 晴れ
ジョン・ヒューストン『キー・ラーゴ』
吉祥寺 バウスシアター
ハンフリー・ボガート ローレン・バコール エドワード・G・ロビンソン ライオネル・バリモア
これで1985年もおしまいだ。
大晦日でもあったし。
ボギーからだった。
彼は少し飲んでいて、どこか外から、わたしがどうしているかとちょっと電話をかけてきたのだった。
彼は私をスリムと呼び、わたしは彼をスティーヴと呼んだ――映画のなかの呼び名のままに。
わたしたちはお互いに冗談を言い合った。
それから、ついに彼が「おやすみ」を言い、またセットでと言って切った。
それだけだったが。
が、そのとき以来、わたしたちの関係は一変した。
ローレン・バコール『私一人』 1944年の章
ルイス・ブニュエル『哀しみのトリスターナ』 [日付のある映画日誌1985]
マイケル・チミノ『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』 [日付のある映画日誌1985]
30年遅れの映画日誌。映画を観るためには映画館に出かけるしかなかった時代の話。
1985年12月13日金曜 晴れ
マイケル・チミノ『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』
銀座 試写
マイケル・チミノの復活作は無難な(?)ギャング路線。
ミッキー・ロークもジョン・ローンもいけてるハズなんだが。
ミスキャストとは思いませんけど。
なんかモヤモヤと不完全燃焼感が残るのはナゼ。
監督の因業なカルマなんでしょうかね。
http://atb66.blog.so-net.ne.jp/2014-12-15
トリュフォー『突然炎のごとく』 [日付のある映画日誌1985]
ケベック・シネマウィーク [日付のある映画日誌1985]
ロジャー・スポティスウッド『アンダー・ファイア』 [日付のある映画日誌1985]
インド映画『エスタッパン』 [日付のある映画日誌1985]
グラウベル・ローシャ『アントニオ・ダス・モルテス』 [日付のある映画日誌1985]
ヴィム・ヴェンダース『ハメット』 [日付のある映画日誌1985]
30年遅れの映画日誌。映画を観るためには映画館に出かけるしかなかった時代の話。
1985年10月24日木曜 雨
ヴィム・ヴェンダース『ハメット』
銀座 試写
裏話のほうが本編よりもずっと面白いという因果なフィルムがあるとすれば、これなど代表格かな。
フランシス・コッポラ製作、
ヴィム・ヴェンダース監督、
ジョー・ゴアズ原作、
ロス・トーマス脚本最終稿。
主人公はダシール・ハメット。と名前を並べただけでも……。
『地獄の黙示録』と併行して、規模においてはともかく質においては、それと勝るとも劣らない愚行の数かず。
そのレポートは『ミステリマガジン』の1985年1月号に。
アメリカ映画ばかり観て育ったヨーロッパ人作家とアメリカン・ハードボイルドのミスマッチ、というのか。
いや、でもしかし。
どうしても嫌いにはなれない作品だった。
ローランド・ジョフィ『キリング・フィールド』 [日付のある映画日誌1985]
ジョン・ヒューストン『火山のもとで』 [日付のある映画日誌1985]
ガッサン・カナファーニ『太陽の男たち』 [日付のある映画日誌1985]
30年遅れの映画日誌。映画を観るためには映画館に出かけるしかなかった時代の話。
1985年9月14日土曜 曇り
タウフィーク・サーレフ監督・脚本『太陽の男たち』
原作ガッサン・カナファーニ
御茶ノ水 日仏会館ホール
トラックの給水タンクの中に潜んで密入国をくわだてる三人の男。
太陽に焼かれる地獄の釜。
これは一つのシンボリックな寓話だ。
地球の上をヴィザもなく彷徨う難民の運命の物語は、今日も変わることなく続いている。
1972年にテロによって殺されたパレスティナ人作家カナファーニの存在そのものが、二十世紀後半という時代を象徴していただろう。
当時、来日したパレスティナの詩人マフムード・ダルウィーシュが雄弁に語ったとおり――
『現代アラブ文学選』1974創樹社には、カナファーニの代表作「ハイファに戻って」、評論「占領下パレスティナにおける抵抗文学」、ダルウィーシュの詩「パレスティナの恋人」などが収録されている。
ボギー&バコール『三つ数えろ』 [日付のある映画日誌1985]
安聖基が現われた日 [日付のある映画日誌1985]
30年遅れの映画日誌。映画を観るためには映画館に出かけるしかなかった時代の話。
1985年8月25日日曜 晴れ
『深き青き夜』ディープ・ブルー・ナイト 裵昶浩ペ・チャンホ
『鯨捕り』 裵昶浩
『馬鹿宣言』 李長鎬イ・チャンホ
韓国若手監督特集
池袋 スタジオ200
発見の会の自主上映とほぼ同期に、西武デパート内のスタジオ200での上映が定期的にひらかれるようになった。
当初は、ポリシーがない、政府機関による作品選定は問題だ、などという批判があったが、そうした傾向はじょじょに是正されていったように思う。
李長鎬につづく第二の名前、裵昶浩とその作品を知った。
裵昶浩と安聖基アン・ソンギの挨拶があった。
この回の番組は他に――
『水の流れはかえられない』 林権澤イム・ゴンテク