P・K・ディック原作『スキャナー・ダークリー』 [映画VIDEO日誌2004-06]
やるせないほどに退屈な作品だった。
だが、考えてみれば、P・K・ディックの原作を忠実に映画化すると、こうなるしかないんだな。
実写フィルムをデジタル・ペインティング処理する技法にとまどう。
この作品での「実験」に終わったか。
『シン・シティ』のように、モノクロ・コミックに大胆に転換してしまう手法のほうが好みだった。
『エンパイア・オブ・ザ・ウルフ』 [映画VIDEO日誌2004-06]
『エンパイア・オブ・ザ・ウルフ』を試写で観てきた。
パリは燃えている。
この男ジャン・レノも燃えている。
画像をトクと見たまえ。
ジャン・レノ狼男にヘンシーンみたいな映画だと思うだろ。まあ、そんなもんだ。
ただし、金髪のワルデコ役にプチ変身するだけ。
ジョン・レノンのモノマネで「イマジン」を唄うのでないかぎり、何でも許そう。
舞台はほとんど、信じられないほどビシャビシャ雨ばかり降っている陰鬱なパリ。
テロの季節には激しい雨が似合う?
スタイリッシュなこだわりはグーッ。
これでもかこれでもかのアクション満載。
雨のパリを狼男レノが破壊する話なのだ。
カンフーマスターの女テロリストを追って納骨堂をぶち抜く一大爆破シーン。
スワッ、次はエッフェル塔かと期待したら。あらあら……。
原作はジャン=クリストフ・グランジェ。なにしろクリムゾンをリバーするグランジェ映画だ。
まどろっこしい説明なんぞ無用でしょっ。
フランス「最大のタブー」ってナンだ。
この映画をよく観ればいやでもわかる。
それが今、フランス全土に拡大しつつある暴動の火種じゃないか。
パリはますます燃えるか?
ロメロ将軍の凱旋 [映画VIDEO日誌2004-06]
オールタイム・ベストの一本になった。
誇張でも何でもなく、ロメロは、21世紀の、テロの時代の、ポスト9.11の、黙示録フィルムをつくった。
これをゾンビ映画の集大成とするだけでは決定的に不足だ。
『ナイト・オヴ・ザ・リヴィング・デッド』は伝説のカルト・ムーヴィーであることはたしかだが、同時にあまりにも70年代的だ。ゾンビ三部作、 トム・サヴィーニによる『ナイト』リメイク、そして90年代に姿を現わした『ゾンビ』ディレクターズ・カット――それらすべてを含めて70年代的だった。
要するに人びとが口にするロメロ伝説はノスタルジアに包まれていた。
いったいこうした形でロメロのゾンビ映画が復活してくることを、だれが想像しただろうか。
要塞都市の境界に拡がるスラム、中心には巨大な塔が立ち、独裁者デニス・ホッパーが君臨する。
ゾンビ狩り傭兵部隊の副官チョロは、迫撃砲を搭載した装甲トラック「デッド・レコニング号」を奪って反乱を起こす。
独裁者は討伐部隊をさしむけるが、その一方、「知性」をそなえた進化ゾンビの群れがタワー・シティの防衛線を突破してくる。
ゾンビ狩りから帰還した傭兵隊長のライリー(サイモン・ベイカー)が娼婦スラック(アーシア・アルジェント)と出会う前半。
眩暈のするような既視感に驚いた。
難民キャンプのようなスラムの歓楽街。
捕虜にしたゾンビを見世物にする秘密の館。
鎖につながれたゾンビと記念写真を撮る者たち。
金網に囲まれた闘技場リングでゾンビとの肉弾戦を強制されるスラックを、間一髪のところで救うライリー。
こんなシーンをかつて観たことがある。
一時期、レンタル屋の棚にあるゾンビものは総ざらえで観ていた。
その記憶なのだろうかと疑った。いや、ちがうな。
ゾンビ・ホラーの九割五分はカスだ。クソだ。
つまりロメロ以外は全滅。この確率はかなり悲惨なのだ。
ピンク映画なら十本観れば二本はあたる。
ゾンビ・ホラーにはその程度の確実性すらない。なかった。
こんな素敵なシーンがあったはずがない。
『ランド・オブ・ザ・デッド』の前半を観ながら、そうだ。
まるで、自分がかつて書いた小説のシーンに出会ったように興奮してしまったのだ。何という……。
『ナイト・オヴ・ザ・リヴィング・デッド』以上の夜がここにある。
ゾンビ三部作、トム・サヴィーニによる『ナイト』リメイク、そして『ゾンビ』ディレクターズ・カット。
それらの映像の断片がおそらく悪夢のように充満して、わたしに現実の記憶にも似たいくつかのシーンを幻視させたに違いない。それをまたスクリーンのうちに観ることの恐怖と恍惚!
動けなくなってしまった。
それからチョロを演じたジョン・レグイザモが最高。
べつに贔屓でもなかったが。
『エグゼクティブ・デシジョン』以来、いい役がつかなかった。
スパイク・リーの惨憺たる『サマー・オブ・サム』の主役とか。『コラテラル・ダメージ』のつまらない殺されっぷりとか。
この映画でよみがえってくれた。
バイク部隊を率いてゾンビの群れを襲撃する冒頭もいいけれど、とくに終わり近くゾンビに噛まれた後のセリフが泣かせる。
ゾンビに噛まれた生者は感染ゾンビになるという「ルール」。
数限りなく繰り返されてきたゾンビ映画の不文律。
「頭を撃って一発で殺してくれ」と仲間に頼むのが一つのパターンだった。
ところがチョロは、銃を向ける仲間に「ちょっと待ってくれ。ゾンビになるのも悪くねえかもしれん」と言うのだ。
ぜんぜん恰好よくない。恥じらい半分の粋がり方がぴったりくる。
チョロはゾンビ狩りの傭兵としてゴミのように生きてきた。
その彼だからこそ言えるセリフだ。彼でなくてはいえない。
レイグイザモでなくては言えない。彼でなくては似合わない。
ゾンビ映画最高の決め科白だな。
ロメロ映画は、常にマイノリティの人種対立の問題をゾンビ現象の陰画として際立たせてきた。
ゾンビは社会のゴミだ。老廃物だ。だからその掃除人もゴミ同然の社会階層の役目となる。
彼らマイノリティの行く先は、生きているにしろ死んでいくにしろ、暗いのだ。
ゾンビがグローバリゼーションの時代においても有効な比喩であり、社会批判イメージでありうることを、ロメロは完膚なきまでに証明した。
そしてレグイザモの肉体も。
もういちど観たい。
何回でも。
もう一人のノー・ノー・ボーイ [映画VIDEO日誌2004-06]
小鷹信光製作監督のドキュメンタリ映画『檻を逃れて ――ある日系アメリカ人53年の生涯』
完成披露パーティに行ってきた。
大きな規模の試写会と思っていたら、20人くらいのごくささやかでパーソナルな上映だった。
逢坂剛、池上冬樹、滝本誠、直井明、各氏などなどにお会いした。
結果的には、ドキュメンタリ作家としての小鷹さんを励ます(?)集いみたいになった。
檻とは何か。
この映画の主役ニシ・カツユキは1997年7月4日、独立記念日に、アリゾナ州キングマンのKマート駐車場で銃撃事件を起こし、二人を殺害、三人に重軽傷を与えた。
逃走中に自殺(警察発表)。
ニシは1943年8月、アリゾナ州ポストンの日系人強制収容所で生を享けた。
父35歳、母22歳、兄と姉の五人家族は、カツユキの出生から間もなく「不忠誠組」としてツールレイクの収容所に移動させられる。第二次大戦中、敵性外国人として隔離された日系アメリカ市民のうちでも特に「危険視」されたのだった。
強制収容所では5981人の新生児が誕生したと記録されている。
そのうちで、ニシは初めて一人の人間としての輪郭を表わしてきた。
まずその点について、ドキュメンタリの作り手に感謝したい。
想像が混じるが、ニシの第一段階の精神形成(だれもがたどる親への反抗)は、日系人として父親が選んだアメリカへの不忠誠に向かわざるをえなかったのだろう。先行世代の信念への反抗。
また、それによって日系人コミュニティの微妙なイデオロギー的対立という構図にも巻きこまれたのだろう。
もう一点、想像すれば、彼は60年代のフラワー・チルドレンの一員でもあった。しかし夢想とはうらはらに、マイノリティおよび低所得者層に属した彼は、ヴェトナム従軍を免れることができなかった。
不正義の国家の汚い戦争に加担せねばならなかった。
彼の父親が忠誠を拒絶したアメリカへの加担。
強制収容所に生まれた人間としてあまりに曲折にみちた理不尽な選択だった。
こういった断定は岡目八目でしかないけれど、ヴェトナム復員兵としてみるなら彼のとった後半生の軌跡、とりわけ最後の日の事件は、銃社会アメリカではごくありふれた事象のように思える。
しかし日系アメリカ人のアイデンティティのドラマとして考えるなら、これ以上、特異なケースはあまり見当たらない。
映画が伝えるニシの肖像は「もの静かな日系アメリカ人」というイメージに一貫している。
個人史の領域で埋められない部分、不明の事柄が多すぎるのだ。
復員後、家族から離れたフロリダでの長い暮らし。
そして最後の数年の、アリゾナ州での孤独なトレーラー生活。
アルコールや薬物への依存はない。
知的水準は高かったが、書き遺されたものは「見つからなかった」という。
彼を追いつめたのは人種偏見なのか、それとも世捨て人めいたトレーラー生活者への差別の集積なのか。
数え立てれば、謎の項目は多く、手がかりはあまりに少ない。
まるで白紙だ。
徹底して侮辱を受けつづけるにも似た白紙。
タブラ・ラサ。
小説にでも書かれることを欲しているかのように。
いや、だれかがこの白紙を埋めなければならない。
新聞の報道は彼を「Soldier of Misfortune」と揶揄まじりに名づけた。
復員兵士の狂気の銃撃事件なんかにはつくづくウンザリしているという感情が覗けてくる。
映画でインタビューを受けるトレーラーハウスの隣人たちは、驚くことは何もないのかもしれないけれど、ことごとく全員うさんくさい。
カメラを向けられるのをいい機会に、御託を喋りまくる。社会に遺恨をいだくドロップアウターだ。
それでもニシが最終的に漂着したデスペレートな孤独を側面から照らし出すかもしれない。
アリゾナ、カリフォルニア、フロリダ、ヴェトナム。
彼の痕跡をたどる四つの地理空間にそれほどの大きな意味はないと思う。
けれどカメラが如実に暴いてしまうのは、そこに共通する自然の風景だ。
ゴツゴツした原色の荒々しさ。狂気をさそうかのような鮮やかすぎる空のブルー。
自分ならこんな土地にはぜったい住めないと思った。
画面に出るトレーラーハウス周辺を見て、彼がそこに故郷――ホームプレイスを見つけたのだと、ついつい解釈したくなる。きわめて凡庸な発見にすぎないが、そう感じてしまうのだ。
この映画を観ながら、たえず去来したのは、彼とわたしとの距離だった。
はなはだしく遠い。当たり前だが、それは何故なのか。
何故。という問いが浮かんでは消えた。
完成した作品は今後、どういう展開になるのか。
小鷹さんは、これを一般公開する方向にあまり積極的ではない。
何度かそう表明されていたが、披露会を通して心境の変化はあったのだろうか。
正直なところ、直接に作者からうかがった撮影の裏話、編集段階でカットされたシーンの話があまりに面白かった。
こうしたことは、まあ、別に本編の完成度とかに関係なく、どんなフィルム作品にだってしばしば起こることだ。
しかし、と思う。
ある意味でドキュメンタリ作品とは自伝だ。
対象はどうあれ、ドキュメンタリもまた、作り手にとって己れを語る一つの手段にほかならない。
語りすぎれば見苦しいが、語り足らなくても受け手の不興をかう。
ニシの事件を知って「これはおれの事件だ」と直観する瞬間に小鷹さんも立ち会わされたのだろう。
ニシは私だ。
アメリカ文化を語ることは、手放しの礼賛という形をとることはあっても、われわれ日本人にとって常にアンビヴァレンツな行為だ。
小鷹信光の仕事は三一新書の『アメリカ暗黒史』から始まった。
わたしが恩恵を受けること大きかった『クラレンス・ダロウは弁護する』の翻訳、評論『パパイラスの舟』(ともにミステリマガジン連載)など、翻訳家・アンソロジスト・評論・研究、また実作者としての活動がつづいていく。
そのすべてがこのフィルムに流れこんでいる。
たぶん、カットされたパーツの隅ずみまでも。
これは否応なくひとつの精神的自伝なのだ。
ニシの映像はあまりにも少ないが、それは致し方のないことだろう。
彼は死体、もしくは痕跡としてしか画面に現われることができない。
彼を語る隣人たちの言葉は、レポートにまとめるなら、脚注に併記する以上の価値がないと思わせる。
映画は後半にいたってゆっくりとカメラを作者自身に向けていく。
ニシの肖像を捜すことによって開かれてきた作り手の内面に。
ニシ・カツユキにとってアメリカは檻だった。
日系アメリカ人としての彼を二重三重に閉じこめた檻。
奇妙なことに(当たり前だろうが)、こうした自己意識は平均的な日系アメリカ市民の胸には決して像を結ばない。
日系アメリカ人の歴史と動向を調査してまず突き当たるのは、その「従順さ」への違和感だ。
これはちょうど外国人が日本人一般をみる尺度と対応するのかもしれない。
『ノー・ノー・ボーイ』を書いたジョン・オカダという作家も、日系社会では異端的人物だったと想像される。
精神的自伝はしかし、容易に私小説にもねじれていってしまう。
フィルムにかぎらず、書かれたノンフィクション作品では、しばしば起こって「私ドキュメント」が横行することになる。
『檻を逃れて』には、エンドロールの付け足しがあって、そこでカメラマンの急逝が報告される。
ある意味では、作品がぴったり閉じられてしまった。
ここを受け止めるなら、一般公開をあまり考えていないという作者の心境も了解できる。
私小説的にわかる、ということだ。ニシと小鷹とカメラマンとの何年にもわたって絡まり合ったトライアングルな個人史が終わったのだ。そこをこじ開けろと要求するのはあまりに僭越だろう。
取り残るのは初発のテーマだ。
ニシが囚われたアメリカという檻。
日本人の血という檻。
また日系人社会という閉鎖系の檻。
問題の複雑さ、歴史的な想像力の要請などをかんがみるのなら、映像という手段が必ずしも唯一のジャンルではありえないということは自明だ。
彼は書かれることを欲している。彼の囚われた檻はわれわれを取り囲む檻と少しも異なっていないのだと。
作者には本来のフィールドである言葉を使った追跡が次に求められているのでは?
白紙を真に埋めるのは、言葉だ。
幻の連合赤軍映画について [映画VIDEO日誌2004-06]
前に『俺は手を汚す』を読んだとき、映画作家はやはり喋って志を伝えるもんじゃないと失望したことがあるので、今度の本『時効なし。』も、あまり期待はしていなかった。
ところが無類に面白い。語るべきとき、熟した時期があるのだと納得した。
ここでふれておきたいのは、その内容全般についてではない。
作家が抱負を述べている「幻の連合赤軍映画」その一点についてだ。
(山荘のなかから)銃を撃った瞬間に、そこの氷柱が光る。
その光った瞬間に、フラッシュ・バックで彼らが仲間を粛清したシーンを挿入する。
これが革命だと思うからこそ、彼らは自分の仲間さえ粛清した。
ましてや敵に対しては、その意識がないと立ち向かえない。
だから、警察に向かって、初めて銃を向ける。
――若松のなかで、映画のデティールは、すでにこんなふうに見事に出来上がっている。
あさま山荘に立て籠もった五人を内部から描く、その凝縮されたイメージに、革命運動が不可避に持つ正負の両面が映しだされる。
この一点だけでも、わずか一シーン語られたのみでも、この映画が若松固有のものであり、若松以外のだれにも作りえない作品であることは明らかに感得できる。
作る前に映像を逃れがたく、前のめりに私有すること。
これを、作家の業であると解するだけでは、絶対的に不充分だ。
連合赤軍事件を総括する若松の観点は非常に明快そのものだ。
銃撃戦も同志殺しも、どちらも単独にはありえなかった。二つにして一つだ。
彼らの運動の敗走は、そのどちらの局面をも単独に切り離しては了解できない。
ともすれば多くの論者の関心は、十六名の同志粛清の側面にのみ向かうようだった。
それは同志殺しが、六十年代末からの反権力闘争の衰弱を決定づけ、後からふりかえれば象徴化するような事項であった以上、避けて通れない偏向だったと思える。
そして粛清=同志殺し=内ゲバは、連赤関係の十六名という規模にはとどまらず、他セクトにも疫病のように波及し七十年代を通じて百名をこえる死者を数えていったのだ。
そこまで、日本の革命運動は悲惨な軌跡を刻みつけてこなければならなかった。
殺せ。
敵を殺せ。
敵を殺せ、というスローガンは味方のなかの敵を掃討する方向に肥大し、自らの存立根拠すらも噛み破ってしまったのだった。
ここで「同志粛清は正しかった」と断固いいきった者はだれもいなかった。
しかし粛清は正しかった。しかり。正しかったというほかない。
彼らの闘いに一片の正当性でもあったなら、それは正しい行為として救われねばならないのだ。
でなければ、殺された者らはいったい何のために命を捧げたというのか。
彼らの犠牲すらも唾棄されるのでは、われわれは何の教訓も得なかったということになる。
森、永田などの不適格なリーダーのために無駄死にを遂げたと解釈するのでは、あまりに議論が卑小すぎる。
私見によれば、一九七五年に書かれた埴谷雄高の『死霊 第五章』が、同志粛清を正当化する、最も美しい形象を提出しえた。
わたしもまた『煉獄回廊』において、同志=愛する女を粛清して恥じない日置高志という主人公を通して、この問題を追跡しようとした。しかしわたしの主人公は狂気の隘路から這いあがることができず、したがって小説も「正しい同志殺し」を明確にできないまま漂流せざるをえなかった。
愛しているから殺す――それが絶対に正しいと、作者も主人公も確信できなかったのだ。
結局それは、同志粛清のみを単独に銃撃戦という契機から取り外してしまった以上、必然にくる失敗だったのだろう。
幻の若松映画は――いまだ作られてはいないし、もしかすると作られずに終わるかもしれない連合赤軍映画は――彼らが負った二重性を、まるごと映像によって暴力的に全面展開・一点突破しようとする。
彼らの撃つ銃弾は、ただ五人によってのみ放たれるのではない。
その銃弾には粛清された同志たちの無念の魂が祈願されているのだ。
彼らが同志を殺した償いのために銃撃戦を闘って戦死しようとしたとするヒロイックな解釈も語られたが、それだけでは充分ではない。
共に闘えなかったにしろ共にある。
そうした現存は、映像だけが可能にするユートピア空間かもしれない。
……あと三十年、五十年経っても残る映画を撮りたい。
あの事件をやるんだったら、今、悪いけど、せめて俺とか足立(他のだれにも出来ないから)が生きてる間にやらないと。
わたしは『突入せよ!「あさま山荘」事件』などは最初から観る気もないし、これからも観ないだろう。
原作のほうは必要があって読まざるをえなかったけれど。
また『光の雨』も観ていない。
観るに足ると思えるだけの興味をまったく引かれなかった。
連合赤軍事件は、この時代を生きた者にとっての熱病的なテーマだ。
生きているうちにはこの難問に解決をつけられないとも思わせる。
多くの作家がそれに題材を得ているが、そのすべてに目を通していないし、目を通す義務感も感じないのは、わたしの倨傲さだろう。
外側からみた見世物、興味本位の活劇、無残に破れ去った青春の夢の記録。
おおかたのフィクション化が帯びる不正確さに、ふれる前から腹立たしくなってしまうのだ。
だが若松がつくるだろう作品は違う。
まったく違うと期待させる。
わたしは別に映像ブランキスト若松のファンでもない。
一定以上の評価を持つわけでもない。
しかし幻の連合赤軍映画に関しては、特別の興奮をかきたてられたのである。
05.04.13記
ピンクより愛をこめて [映画VIDEO日誌2004-06]
藤井謙二郎監督・撮影・編集『ピンクリボン』
インタビュー出演 若松孝二、渡辺護、足立正生、黒沢清、女池充 etc
同映画プレスシートの一部を抜粋して、内容紹介に代える。
この映画はピンク映画の歴史と現在を築いてきたプロデューサー、監督、俳優、配給・興行関係者へのインタビュー、そして新たにそこにチャレンジしてくる若い人たちの姿をとおして、彼らの「情熱と知恵」を探り、記録したものです。
■“ピンク映画"とは?
数百万という低予算、平均3日程度の短製作日数という厳しい条件で製作される、東映、東宝、松竹、大映、日活というメジャー会社以外の独立系の会社が製作した成人向けの商業映画の総称。“カラミ"の回数など制約はあるものの、監督が比較的自由に撮れるため、数々の優れた映画作家を輩出している。
1962年にピンク映画第一号といわれる小林悟監督『肉体の市場』が公開されてから、60年代半ばには若松孝二、小川欽也、渡辺護、足立正生らがデビュー。年間製作本数が200本を越え、急速にマーケットが拡大した。
1971年、日活ロマンポルノ(註)がスタート。高橋伴明、井筒和幸がデビューしたのもこの頃。
1980年には大阪で第一回ピンクリボン賞が開催(第一回監督賞は渡辺護監督が受賞)。滝田洋二郎、黒沢清、周防正行らがデビュー。80年代後半には家庭用のビデオデッキと共にアダルトビデオが普及し、1988年、日活ロマンポルノが終駕を迎えた。このピンク混迷期にデビューを飾ったのが、ピンク四天王と呼ばれる佐藤寿保、サトウトシキ、瀬々敬久、佐野和宏。
1990年代以降、男優の池島ゆたかが監督デビュー。後にピンク七福神と呼ばれる今岡信治・上野俊哉・榎本敏郎・鎌田義孝・坂本礼・田尻裕司・女池充の七名、国沢実、女優の吉行由実など、ピンク映画界のニューカマーが続々と監督デビュー。
今では情報誌にも掲載されなくなってしまったピンク映画ではあるが、こうしてたくましくも生き延び、現在でも年間約90本の新作が製作、公開されている。それは低予算、短製作日数、しかも35mmフィルムによる撮影という過酷な製作状況が生んだ膨大なノウハウの蓄積の賜物と言えるだろう。
(註)日活ロマンポルノ・・メジャーの映画会社、日活が経営に行き詰まった打開策としてスタ一トさせたもので、いわば一つのブランド名のようなもの。
まだピンクは健在なのか。いささか失礼な好奇心が初めにあった。
はるか何年もむかしに観客席からリタイアしてしまった人間としては、「ピンク映画40年史」みたいな包括的なアプローチを、自然とこの映画に期待したのかもしれない。
この種のドキュメントに必要なのは、対象への献身的な愛惜と周到・精密な知識だ。
しかし68年生まれの作り手に、そうした思い入れを過度に要求するのは筋違いというものだろう。
ここにあるのは、ピンクという異物に体当たりしていった映画青年の極私的な驚きと覚醒の記録だ。
それがピンク映画史と微妙にすれ違っていくのは当然だった。
むしろその隔絶こそがこの映画の価値だろう。
しかしインタビュー発言者たちの対話をチャット感覚でつないで構成するいくつかの「強引な」箇所には違和感が残った。
ピンクの現場の生き証人たちが一同に会するフィルム。それはおそらく夢想のなかでしか実現するまい。
総合的なピンク映画史はいずれ書かれるはずだが、これはその貴重な二次的資料となると思われる。
やはり若松孝二と渡辺護。この対照的な作風を持つ二人のピンクの巨匠のパーツが圧倒的に濃い。
若松という人は、カメラを前にするととたんに千両役者になる。根っからの映画人なのだろう。
足立正生は若松の引き立て役に徹している。
あるいは作り手には足立が何者かという認識が基本的に欠落していたのか。
考えてみれば、映像ブランキスト若松が60年代末に発信した猛々しい挑発を、その時代に身をおかずして感得することなど土台、不可能なのではないか。
高度成長社会から取り残された下層大衆のルサンチマン、性的失業者の混沌たる情欲――若松映画が体現したメッセージの数かずは、もはや今の時代には翻案不可能な身体言語ではないかと思える。
犯せ。女どもをレイプしろ。
単純明快な若松の雄たけびは、造反有理の社会的情念の深部へと破壊的なヴァイブレーションを起こしていった。
低予算と劣悪な労働条件のもとの映画製作は、大衆の怨念を作り手たちに転位させたのかもしれない。
他に行き所のなかった才能を結集させたという点では、若松は辣腕の製作プロデューサーという一面も併せ持つ。
ピンクが時代の代弁者だったとしても、それを主要に支持した層はあまりにも流動的だったし、作り手たちの生活を安定させる経済的基盤すら不安定そのものだった。
だが「彼ら」が何者だったかは語り伝えられねばならない。ぜひとも語り伝えられねばならない。
ただ『ピンクリボン』の作者が作品の基調を託しているインタビュー出演者は、(当然に、というか)若松でも渡辺でも、ましてや足立でもなく、「ピンクの異端児」としてキャリアを開始したゴダーリスト黒沢清であるようだ。
黒沢の屈折したポーズと語り口に作者は共感を寄せているふうにみえるが、そういったスタンスこそ、じつはピンク初期の瞑い暗いエネルギーの理解とはもっとも遠い知性的解釈ではないかと思える。
古典的階級史観がとうに破産した現状でこうしたことを指摘するのは、もはや妄言にすぎないだろう。
性映画ゲリラたちのデスペレートな闘争は、日活ロマンポルノ裁判で一つの分岐点をつくり、若松が映像スターリニスト大島渚と組んだセックス・フィルム『愛のコリーダ』裁判によって終結したといえよう。
――などという局地的な整理すらも映画史には刻まれていない。
その意味で、さまざまな型破りの才能によってこの「特殊・畸形」の映画製作現場が支えられ、成り立ってきたという、可もなく不可もない結論に『ピンクリボン』が落ち着いたことはきわめて妥当なのかもしれない。
2005.03 記
バンカーとハッタの死 [映画VIDEO日誌2004-06]
そしてエドワード・バンカーが逝った。 『ドッグ・イート・ドッグ』の作家。
というより『暴走機関車』や『レザボア・ドッグス』のバイプレーヤー。
映画関連では、カヨ・マタノ・ハッタが急死した。
ハワイ生まれの日系三世。
自らの家系のルーツとアイデンティティを探った『ピクチャーブライド』で知られる。
『ピクチャーブライド』は、工藤夕貴、タムリン・トミタ、ケリー・ヒロユキ・タガワ、アキラ・タカヤマの主演。
三船敏郎が特別出演している。(1994年制作、96年公開。96.1.23に観た。)
これが第一作で、予定されていた次回作(1950年代に強制収容所を出たばかりの日系人を描く「Floating World」)は作られなかったのだろうか。
鈴なり壱番館の現在 [映画VIDEO日誌2004-06]
この日誌もちょうど二十年前にさしかかってきたところで。
ちょっと現在形。
感慨無量なんてのは、てめえ一人の都合だけ。
あまりゆっくり振り返っていると、こっちの寿命が先に終わってしまう怖れもあるんで、なるべく駆け足を心掛けているのだが。
こないだ「『風吹く良き日』に始まる」のページについて、鈴なり壱番館のことを質問された。
知りませんという返事しかできなかった。
ある詩人の書いた「下北沢不吉」を信奉しているわけではないが、最近はあの方面には電車で通過するだけになっている。逆に教えてもらったかたちになって、鈴なり壱番館は下北沢シネマアートンに模様替えしていることを知った。
その方に、現在の写真も送っていただいた。少しデカイがアップしておく。なるほど見覚えのある場所だ。
飲み屋長屋の上にある猥雑さは好みであったが、いくらかミニチュアめいていて馴染まなかったのかも。
下の飲み屋にも入った記憶はない。
市場の上にデンとあった京一会館を思い起こさせるけれど、どちらかといえば高校時代によく行った伏見東映の侘びしさに通じるので、腰が引けてしまっていたようだ。
作品とロケーションとが一体化しているといえば、前の年に観たホウ・シャオシェン他の『坊やの人形』のほうが強い。隣のスズナリで観た芝居もごくごくわずかだった。
一部の人には伝説的な場所なのらしい。こちらはさして思い入れはなく、韓国映画移入の先駆けは、集団的には発見の会、場所的にはスタジオ200と受け取っていたから、意外だった。
写真とともに、「韓国映画情報掲示板」という楽しいサイトがあることも教えていただいた。感謝。
Gone is the Romance that was so Divine
昭和の終わりのもう少し先までルッキンバックできたらそこで切り上げて、60年代、70年代へとさかのぼって行きたい。
やはりそのあたりのほうが自分の原点という意味で生々しいわけだ。しかしあんがい道は遠い。
記憶違いというより記憶消滅といった事態がひんぱんで、けっこう難航している。
「鈴なり壱番館の現在なんて知らねえな」というのがいい例だ。お恥ずかしいかぎり。
韓流の源流という項目は、いっぺんまとめて連続アップしてみたのだが、正確さに欠けるところがあり、一部削除した。
一部残っているページもその日付けが回ってきたときに修正していく予定。
トッド・ソロンズ『おわらない物語』 [映画VIDEO日誌2004-06]
渋谷 東芝試写室
14歳の少女を8人の女優が演じる。
そのうちジェニファー・ジェイソン・リーなど二人は明らかに成人。
髪の色も容貌も体型も、肌の色までみんな異なる。
映画ならではの語り口が嬉しい。
数年前のヒロイン役をやったエマニ・スレッジ(6歳らしい)がいちばんカワユかった(ロリコン的反応か)。
ベロをちょろっと出して喋る仕草がブラックのペコちゃんのようだ。
話は、このアビバが沢山タクサン子供を産みたいと宣言するところから始まる。
それを聞いたママ役のエレン・バーキンが「おお、私のベイビー、愛してるわ愛してるわ愛してるわ」と、あのクチビルの端っこがエロっぽくひんまがる微笑をもって抱きしめるんだな。
ここまで観て、おおホラーじゃと焦っちまった次第。
ご安心を。ホラーではなく愛の遍歴物語だ。
普通なら少女の成長にしたがって何人かの役者が演じる。
ところがこの映画は一種の循環ストーリーだ。女優は8人。
年齢も指定が14歳となっているだけで、成長したりしなかったり。エピソードが変わるごとに「違う女」になる。
遍歴とは元にもどるという意味でもあり、教訓はあまりない。
話はかなり悪ふざけにグロイところもあるから、真面目に受け取ると損をする。
ジョン・ウォーターズが褒めたのも当然だ。同類なんだろう。
家出したアビバが障害児ばかりのサンシャインホームの世話になるパーツが突出している。
障害児たちのゴスペル・グループのセッション・シーンは最高だ。トッド・ブラウニングの『フリークス』にも匹敵する。
けれどこれも終着駅ではない。ぐるぐる回って後戻りする遍歴だ。
いかにもシネマライズ・ロードショーっぽい。
余計なことを一つ。
ジェニファー・ジェイソン・リーは、ガンツケの目つきが親父ヴィック・モローにますますそっくりだ。
なつかしの『コンバット』!
『ニライカナイからの手紙』 [映画VIDEO日誌2004-06]
17時15分、『おわらない物語』が終わって薄暮の街に出る。
歩道橋を渡って、駅前に。
体調は大丈夫かねと自問しながら、銀座線乗り場への階段を昇る。
立体交差する高速道路を横切って、地下鉄に乗るために階段を昇る――いつもやっていることだが、渋谷はシュールなツギハギ都市だ。
銀座ガスホール。
熊澤尚人監督・蒼井優主演『ニライカナイからの手紙』
話としては『いま、会いにゆきます』の裏返しといったところ。
O・ヘンリーの短編みたいなほのぼの感涙ストーリーだ。
沖縄の離島を舞台にすることで、人工的なメルヘン世界をつくりあげた。
ただ前半がちょっと辛いな。テンポが取れていない。
一夜明けてみると、ナイト・シャマラン風のあざといメリハリを張ったほうが良かったのかなとも思う。
監督が主演女優に惚れこんで撮ったという点で、ついつい『ヴィレッジ』を思い出したから。
もう一つ、カメラテクニックのこと。
逆光の多用はいささかうるさく感じた。意図がいまひとつ読みきれなくて困った。
後半の「さあ、泣け。ここで泣け。ほら、もっと泣け」の怒涛の押しまくりもしつこかったが、これは好みかもしれん。
「泣きなさい、泣きなさい」が、どうも今風のようで、これには勝てません。
ヒット作路線のお行儀の良さだな。
『バトル・オブ・エクソシスト』 [映画VIDEO日誌2004-06]
ウソだと言ってよビリー 2005年02月20日
『バトル・オブ・エクソシスト』というオタク本を読んだ。
「悪夢の25年間」ってのは、いくらナンでも言いすぎだろ。
肝心の『エクソシスト』本体にあまり愛着もなかったせいか、楽しめなかった。
フリードキンとピーター・ブラッティ。ダブル・ビリーのエゴの確執じゃ、ちとスケールが小さい。
ディレクターズカットの内幕といってもねえ。
いちばん面白かったのは、試写会でのブラッティの体験談。
ショッキングなシーンでよろよろと退席する女性がいて、ブラッティが「あれ、ポーリーン・ケイルの奴じゃねえだろな」と焦りまくったという話。ケイルは『エクソシスト』について何か書いていたはず。忘れてしまったから仕方がない。
そういえば、ブラッティの『トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン』のビデオについて先日、カルチャースクールの生徒さんに教えてもらった。こっちが教える立場なのにマッタク……。
てなわけで(つながりは何にもないが)ネットサーフィンをしていたら、ブラッティの『エクソシスト』日本語版は恐怖のサイテー翻訳だ、という記事が見つかった。
誤訳の例示もキチンと示されていた。ただし一箇所(!)ね。
面白いので同じ筆者のべつのブックレビューも覗いてみたら、昨今売り出しの新進翻訳家によるさる世界名作の新訳はクソだという記事を発見。なるほど。これもサンプルが一箇所。
件の名作の新訳については、こちらも最近読んだところで、新しい収穫があったと思っていたので、この指摘にはおそれいった。原文で読むに勝るはナシっていうのは正論なんだがね。
さて、この辛口ブックレビュアーの意見に興味をひかれるところ多大で、ホームページも訪問することになった。
すると……。いや、なんというか。玄関口でなにやら猛烈な臭気がするではないか。
論評はさしひかえます。
場所を間違えちゃったよ。わたしはすみやかに退散したのであった。
ひるがえって考えてみると、この人物のブックレビューの個性も切り口も鮮明だし「面白い」ものではあった。
部分的に誤訳が散見されるのは事実だとしても(件の筆者は百箇所以上と保証はしているが)、全体的にみて珍訳か半創作かは、やはり主観に属する。
つまり評価する主体の識見次第ということですな。
わたしはこの人物のホームページを瞥見して、クソはこの人物のほうだと思った。
さようなら、諸君。
誤訳の指摘というレベルのみならその意見を参考にできるが、その他はすべて黙殺するにしくはない。
もちろんこの文章は批判としてのルールは踏んでいないわけだから、筆者の名指しはしないでおく。
てなわけでネットの海にかぎりなく広大に泳ぎだしていったら、またまた無駄な時間を喰っちまったというお粗末。
これって溺れてるようなもんか?
『エクソシスト』の祟りだとしてもなんとチャッチイ。
『ギムリ・ホスピタル』を観たぞ [映画VIDEO日誌2004-06]
大使館での試写会なんて初めてだ。
4FにいったんあがってからB2の試写室に行く。メインロビーで何かのパーティに迷いこみそうになった。
モノクロのインディーズ映画を大使館主催(協賛か?)のイベントで観るとは不思議なものだ。
今回の特別試写二本は、十年前にパルコのレイトショーで一般公開されていたらしい。
それにしても内容の一般性のなさと会場の立派さそして満員の盛況ぶり、そのアンバランスにびっくり。
二本は、ガイ・マディンの長編第一作と第二作。
どちらをとるかといえば、第一作の『ギムリ・ホスピタル』だ。
病院の話というから、『キングダム』を連想して構えたけれど、トリアー風ではなかった。
たしかに初期のD・リンチに通じるグロテスク趣味はみえやすい。
だがフリークスへの偏奇ぶりなどは二番煎じだと感じた。
シュールレアリズム時代のブニュエルやマヤ・デレンを想わせるショットがいい。
本質的には短編作家なのだろう。
不遇時代を通過した後、新たなスケールを獲得した(という)最近の三作品が「東京フィルメックス」で上映される。
それを観れば、カナダ大使館がこのカルト作家上映に協力した謎も解けるかもしれない。
同映画祭では内田吐夢特集も組まれている。『宮本武蔵』五部作と『大菩薩峠』三部作は入っていないけれど。
『エメラルド・カウボーイ』を観たぞ [映画VIDEO日誌2004-06]
2004年10月30日
『エメラルド・カウボーイ』を観たぞ
コロンビアの無法鉱山地帯で一攫千金の夢を追い求めた日本人の一代記。
「エメラルド王」と呼ばれる男の半生は西部劇もどきの冒険に満ちていたのだ。
その自伝をもとにした痛快なアクション・ドラマ。
――になるはずだったんだが。
ロケ地その他の事情が重なり「ハーフ・ドキュメンタリー」という珍しい形式になった映画だ。
ハリウッド風ドンパチとは一線を画した(ほんとうはソッチでいきたかったみたいだ)、きめの粗い実録フィルム・タッチの変わった作品。
製作ノートを読むと、苦労の連続だ。
まずアメリカ人監督の成り手がいない。ヒーローを演ずる日系俳優に逃げられる。
そのために、自伝を書いた本人の早田が共同監督およびシナリオを兼ねるだけでなく、現在の彼自身の役を演ずることになった。
早田英志(画像の人物)のカリスマはスクリーンにも転移するか。
だが極端なワンマン映画が成功する確率は……。経験則では、ゼロに近くて。
ロバート・エヴァンスの『くたばれ! ハリウッド』みたいなヘンなドキュメンタリーもあったし、実録やくざ映画でスカーフェイスの本人役を何度となく演じた安藤昇なんて人もいる。
だから特に異例な作品というわけでもない。
半分は夢の翼に乗った男のアドヴェンチャー・ロマン。
半分はゲリラとの抗争に明け暮れる中途半端にシリアスな「実録」路線。
まあ、とにかく面白い。
こんな破天荒な日本人がいるのだ。
『ドッグヴィル』『ヴィレッジ』『暗黒館の殺人』 [映画VIDEO日誌2004-06]
参考に『ドッグヴィルの告白』を観てみたが、たんなるメイキングフィルムで面白くなかった。
ストレス漬けになった俳優やスタッフの告白を観せられたって役に立たない。
トリアー、シャマラン、綾辻。
いずれも外界からほぼ完璧に隔絶された共同体の「崩壊」をめぐるエキセントリックな寓話だ。
作者の個性はさまざまだが、とくに寓意など作品にもちこみたくないという点では共通している。
つまり彼らは期せずして、自らの構想以上に、大きく深い世界をつくってしまったわけだ。
その理由も(共通して)ふるっている。たんに鬼面人を驚かせる結末を用意したいという子供っぽい遊び心に発する。
そのため、出来上がったものは寓話になった。
人を驚かせたいといってもそれぞれ動機はちがう。
トリアーの場合は、エンディングを気にかけたのではなく(むしろエンディング欠落のほうが彼には似合っているから)、あまりに奇妙偏屈な作品すぎて結末に爆発が起こったということかもしれない。
シャマランは選択の余地なく、観客が彼に期待するどんでん返しのお約束に応えた。
この点は綾辻も似たようなもので、ルールにしたがった追いつめ方だ。
というわけで、結果的に、共同体にたいする深刻な問題提起を含む作品が偶然に並ぶことになった。その様態をたどっていけば面白いだろう。
と、今日は予告編のみ。
『大統領の理髪師』を観たぞ [映画VIDEO日誌2004-06]
コメディタッチのホームドラマで韓国現代史の暗黒に切り込む。
という謳い文句にウソはない。こういう方法が成り立つのも韓国映画の「勢い」だろう。
主役の一家に扮した俳優がそれぞれ最高だ。
韓国映画にはさまざまなタブーがあったということは周知のこと。解禁は進んでいるとはいえ、逆に、ストレートすぎるテーマでは作品化しにくい。大統領の専任理髪師とその家族の十数年という狙いは見事に当たった。
気の弱い亭主(『JSA』『殺人の追憶』のソン・ガンホ)、口うるさい女房(ムン・ソリ)、トリックスターの一人息子(イ・ジェウン)。役者の存在が観念劇に肉体を与えた。
韓国人のなかに潜在する朴正熙という国家指導者への二律背反的な感情が了解できて面白かった。
朴は独裁の悪の人格化でもあったが、権力にしがみつきアメリカに見はなされて「第二・李承晩化」する前は、慈父のような崇拝の対象であったかもしれない。
開発独裁は現在の民主化社会の原動力を蓄積したという評価も生まれるのだろう。
「北塊スパイ事件」の取り扱いなど、後半にいくほど戯画化が過ぎると感じさせる。
大統領がツルッパゲの全斗煥に替わったら用済みになったというオチもいただけない。
だが、韓流ドラマ独特の、誇張された哄笑もまた「庶民の悲哀」を表わす作品全体のメッセージなのだろう。
『ニワトリはハダシだ』を観たぞ [映画VIDEO日誌2004-06]
そういえば、『党宣言』――正式タイトルは『生きているうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』以降の作品をほとんど外していることもあって、『喜劇 特出しヒモ天国』のむかしに、一気に巻きもどされてしまった想いだ。
貪欲すぎるほどに社会的テーマをとりこんで、職人芸の軽喜劇の枠におさめてみせる。
若干の未消化や説明不足が生じても、細かいことには無頓着だ。
知的障害者と家族、養護学校の現状、在日朝鮮人の戦後。
と、それだけの単一でも一個の作品に余るテーマを放りこむのみならず、おまけに「最近流行」の警察の構造腐敗――裏金つくりや盗難車密輸の黙認まで――を話の飾りに配した。
老いてますます盛ん、というか。
老いても反骨のアオ臭さはますますトンがるばかり。森崎トンがり党、健在なりだ。
『ヴィレッジ』を観たぞ [映画VIDEO日誌2004-06]
M・ナイト・シャマランの最新作『ヴィレッジ』を劇場試写で観てきた。
『シックス・センス』でびっくり仰天、『アンブレイカブル』でムムムと戸惑い、つづく『サイン』の大コケぶりに呆れ返った(あるいは激怒した)――というのが、このインド生まれの「21世紀のヒッチコック」への平均的な反応だったようだ。
こんどはどうかね。
その《地上の楽園》は、
奇妙な《掟》に縛られていた…。
――何故?
果たして何をやるのか。
監督および主演女優の舞台挨拶つきの、盛況なマスコミ試写であった。
感想をひとことでいうと――じつにまあ、強烈な寓話だ。
どこがどう寓話なのかは、ラストまで堪能してみて初めて感得できる。ホラーの進行で奇抜な共同体を描くというやり方は正攻法。これにラヴ・ストーリーをからませるんだが、となると、どんなドンデン返しになるのか予測がつかなくなる。
掟をめぐる仕掛けが割れてくる後半は、盲目の少女(役の上では大人だが)が怪異の森に彷徨うという冒険ファンタジーの定番で押していく。この人のドラマ作りには、奇をてらうところはあまりない。
結局、結末にいたって観客も「ザ・ヴィレッジ」の外側を観せてもらえるわけだが、これが、文字通りの「外」なのだ。
原タイトルにはついている「ザ」の意味が、これ以上ないくらいに雄弁に、ザザザッと立ち上がってくる。
それでいて、内も外もない、愛がすべてに打ち勝つという話にきっちり収まっているんだから。まあ、なんと臆面もないことで……。彼女は村を救ったわけではない。恋人を救うのが主で、その結果、村の未来もついでのように救った。村の未来を救うとは、村の「外」を救うことでもあるから……。村を呪う恐怖は、ザザザと揺れる森の暗闇、ペキペキペキと木立ちが折れる軽金属音、そしてガォーッと吠える怪獣の咆哮、おなじみのジャジャーンと響く衝撃の効果音、などをもって迫ってくる。
む、これ以上はバラせないか。
一つひとつの要素としては、さして新味があるわけでもない。アンサンブルの手腕だ。
まあ、とにかく――宇宙人の来襲とかでなくて助かった。
終わってみれば、なんとなんと堂々のヒロイン・ストーリーなのだった。
これがデビュー作となるブライス・ダラス・ハワード。女優誕生の映画でもある。
ドラマの華はすべて彼女がさらってしまったようだ。まるでブライスのために全編が捧げられているといっても過言ではない。村の長老たち役のウィリアム・ハートやシガニー・ウィーバーはもちろん、寡黙な賢人(恋人)役を演じるホアキン・フェニックスも、兄弟殺しの聖者役を受け持つエイドリアン・ブロディも、みんな彼女の引き立て役といったところ。
何ともはや、贅沢三昧の配役だ。
要するに、こういうことか――。
これまでのシャマラン映画に不足だったのは女優、そうヒロインだったのだ。『サイン』の大空振りの真の要因もそこにあったとすれば納得がいく。
会場を出てみると、そこが『シックス・センス』を初めてロードショーで観た同じ映画館であったことに気づく。
ずいぶんな偶然であって、個人的には、映画鑑賞にも倍してスリリングな発見である。