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『日本誕生』1959年 [日付のない映画日誌1950s]

『日本誕生』1959年
 タイトルを眼にして、ああ、これは観たことがある、とかろうじて思い出せる作品のうちの一本。
 空疎な超大作といった決まり文句が、子供のアタマにも浮かんでくるような低レベルの鑑賞だった。
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 渋谷まで一人で観に行った記憶があるが、定かではない。だとすれば、独りで映画館をうろつきまわるという習性は、このあたりから始まっていたのか。
 そう想えるのは、作品の周辺にある付帯的記憶が無くなっているからにすぎず、たんなる想いちがいなのかもしれない。
 復元を試みるには、かなり手遅れだ。

 この項目は、これで終わり。
 東京時代の12歳までだから、ラインアップが充実していないのも、仕方なし。
 想い出せないこと、想い出したくないことの境界線が薄ぼんやりしているのが困る。
 といって、それを明確に出来ればいいわけでもないし。


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『赤胴鈴之助』1957年 [日付のない映画日誌1950s]

『赤胴鈴之助』1957年
 たしか一人で観に行った映画だ。
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 とはいっても、シリーズ(九作もある)の第一作だったのか、第二作、第三作あたりだったのか、さっぱり憶えていない。
 漫画の「真空斬り」を映画でやるのは無理だな。
 九作のシリーズの、一本を観たきりだったのだろう。
 東映時代劇には縁がなかった。
 この作品へのつまらない感想しか、記憶の隅に残っていない。
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 主題歌をなんとなく憶えているのは、映画のものなのか、TVからのものなのか。
 「剣をとってはニッポン一の……」

 


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『ヘラクレス』『ヘラクレスの逆襲』 [日付のない映画日誌1950s]

『ヘラクレス』1957年『ヘラクレスの逆襲』1959年
 たぶん第二作の『逆襲』のほうだったと思う。
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 家に下宿していた東工大の学生が下宿を出るさいのお礼にと連れて行ってくれた。
 確実なのは、この一点のみで、映画の内容も憶えていないし、映画館も有楽町だったような、何ともあやふやずくめの頼りない記憶だ。
 番組はこちらの希望だったろう。
 映画雑誌ばかり見ていたから、スティーヴ・リーヴスの筋肉美は憧れだった。
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 帰りにカレーをご馳走になったけれど、猫舌は子供のころからで、熱いのと辛いのの相乗に四苦八苦した。


 六畳と三畳を貸していた時期があり、八畳に一家三人が暮らしていた。
 母親は着物仕立ての内職、父親は部屋の隅に半死体のようにただ寝ていた。
 親戚に預けられていた姉がもどってくるさいに、まず三畳の下宿人に出てもらい、次に、別の親戚のところから兄がもどってくるさいに六畳のほうも明けてもらうことになった。
 一家五人の暮らしがいったん再開されたけれど、これも一年足らずで、東京の家は引き払うことになった。
 そんなふうに追憶を引きずり出していくと、否応なく気づかされる。
 ――ああ、この映画のことは、むしろ「抹消したい想い出」のほうに属していたのだな、と。
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『地球防衛軍』『宇宙大戦争』 [日付のない映画日誌1950s]

『海底二万哩』1955年
『地球防衛軍』1957年
『宇宙大戦争』1959年
 小学校の友達と冬休みに観に行ったいくつか。
 ガキどもが行列をつくってがやがやと並ぶのは、今も昔も変わらない風物誌だな。
 ところは、すずかけ通りの角の映画館(名前は忘れた)。
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 駅三つ先の自由が丘が、手頃な小都会だった。何人か連れ立って、いくつかあった映画館に出かける。
 その一本が、『メグレ警視』
  『サン・フィアクル殺人事件』 (1959年) だったか、その前年の『パリ連続殺人事件・殺人鬼に罠をかけろ』だったか、思い出せない。
 だいたいが、科白をきっちりと頭に入れないとわからない。
 ところが、字幕を読むのがまだ初心者クラスで超スローなので、画面は視野に入らない。
 画面に注目すると、字幕を読めないから、科白ナシの状態に取り残される。
 どっちもどっちものうち、映画はどんどん進行していく。
 何の話か理解できないうちに「FIN」になってしまった。
 こちらは、南口の自由が丘劇場だ。三本立て55円。
 ずいぶんと通ったから、しっかりと憶えている。
 思い出せないのは、番組のタイトル。
 もっと観ているはずだが、固有名詞が脳内から脱落しているので、調べる手がかりもない。

 この頃の仲間とはまだつき合いがあるので、もしかしたら、映画館めぐりの記憶はもう少し詳しく再現できる可能性もないことはない。
 まだら模様の「喪われた時」も、顔を突きあわせて寄せ集めてみると、しかるべき個人史のページに復元されてくることがあるから不思議だ。


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『ダンボ』『白蛇伝』など [日付のない映画日誌1950s]

『ノンちゃん雲に乗る』1955年
 家族みんなで行ったのかもしれないが、憶えているのは、となりの母親が鰐淵晴子が踊るシーンでおれの眼をふさいだことだけ。
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『ダンボ』1941年(1954年公開)
『ララミーから来た男』1955年
『白蛇伝』1958年
 母親が生命保険の外交員をしていた頃、連れて行ってもらった。
 他にもいろいろあったはずだが、番組を想い出せるのはこれくらい。
 『ダンボ』は、渋谷まで出かけた記憶と分かちがたい。
 ところが、この映画だったのか、ディズニー・アニメの別作品だったのか、困ったことに、確信がない。
 振り返ってみれば、『白蛇伝』は、国産アニメが「始まった」歴史の証人になっていたんだな。
 それでも、「本場」アメリカのアニメにいだく「崇拝」は、決定的だった。
 カーテンが重々しくあがっていくオープニングのときめきは、もしかしたら本篇を観ている以上の興奮をもたらせた。
 それは、ディズニー・アニメが最初に教えてくれた「夢」なのだろう。
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 『ララミーから来た男』は自由が丘で。
 小雨の降る夜だった。
 駅前の雑踏のなか、母親の顔を覗きこんでくる男がいて、開きかけた傘の先が出会い頭にその男の顔面に当たってしまった。
 目玉を突き刺したのかと、あわてふためいた母親が金切り声をあげた。
 まるで、映画の一シーンのように、その記憶だけが焼きついている。
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『ビルマの竪琴』1956年 [日付のない映画日誌1950s]

『ビルマの竪琴』1956年

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 小学校の夏休み、校庭に白幕を張り渡して上映した映写会。
 夏祭り納涼盆踊りのかわりの野外劇場といったところ。
 であるから、「作品を観た」のではない。
 学校が考えたような「反戦」映画による教育効果はあったのかどうか。


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『私は貝になりたい』1959年 [日付のない映画日誌1950s]

『私は貝になりたい』1959年
 これは、母親に連れられて観に行った。
 オリジナル映画版のほうだと思う。
 自由が丘の線路横にあった建物の中の小さな映画館。
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 観客が感涙にむせぶ「時」を共有できるような、こじんまりした環境だった。
 映画館という戦場の別種の局面を教えられた。
 バンザイの興奮の対極には、哀しみの涙がある。
 けれども、母親をはじめとして、泣いているまわりの大人たちに、わたしがいだいた感情は、淡い恐怖だった。
 ここにもあったのだ。
 戦争は映画であり、映画は戦争である。
 ――という20世紀世界が。


 もらい泣きに反戦の涙を流すほどには「生長」していなかった。
 戦争映画観客(男たち)の好戦性も、
反戦映画観客(女たち)の感傷も、
子供にとっては、まだ届きようもない世界だった。
 銃剣をかまえたフランキー堺が、棒杭に縛りつけられた捕虜に向かって(上官の命令で)突撃していくシーンはよく憶えている。
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 駅前の散髪屋の主人は、わたしがさる陸軍大将と同姓同名であることを何故か知っていて、顔を見れば「ヨォッ大将」と敬礼のマネをするのが常だった。
 主人に悪気はなかったが、少年にとっては残酷な試練であったのかもしれない。
 順番待ちのコーナーには、戦争雑誌の『丸』がそろっていて、わたしは、熱心な愛読者だった。
 零戦戦闘機の知識、その他の戦争情報をそこから貪欲に吸収した。
 他のジャンルの雑誌があったかどうかは、憶えていない。


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『明治天皇と日露大戦争』1957年 [日付のない映画日誌1950s]

『明治天皇と日露大戦争』1957年
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 これも親爺に連れられて観た映画の一つとして記憶されている。
 映画館は満杯。通路まであふれかえっている。ドアは開けっ放しの状態。当時は入れ替え制なんてものはない。
 親爺は子供が踏み潰されないように、肩車をしていた。
 わたしは親爺の頭越しに、203高地の激戦のスペクタクルを懸命に観たのだ。
 高台の塹壕から機関銃で攻撃してくるロシア兵。おびただしい犠牲をはらって、奪還された要塞にひるがえる日章旗。
 観客から嵐のように起こる「バンザイ」の怒号。

 映画は戦争であり、戦争は映画である。

 後で知識となったこのテーゼを、わたしは子供の頃にまるごと体感していたのだった。
 むしろ、視線は、「日本軍バンザイ」を高唱する観客の大人たちに向いていたのかもしれない。
 そこにあった最も深い感情は、まぎれもない恐怖だった。
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 以来、どんな戦争映画に接しても、これ以上の恐怖につかれることのない、原初的な感情だった。
 その他、軍神広瀬中佐の戦死シーンとか、乃木大将の日の丸弁当(ドカベンの中央に梅干し一個)とか、よく憶えている。


 この作品も、公開日を調べてみると、57年の「天長節」になっている。親爺は、すでに、廃人化していた。
 すると、この映画を、わたしは、だれと観たのだろうか。
 わたしを肩車してくれたのは、だれだったのか。

 そして、映画館という戦場において、わたしを脅かした恐怖――あれは何だったのか。


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『新・平家物語』1955年 [日付のない映画日誌1950s]

『新・平家物語』1955年
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 人生最初に観た映画作品は何だったのだろう。
 記憶は改変されたり、融解したり、変質をこうむったり、ごくあてにならない標識と化している。
 この映画は親爺に連れられて観たと想っていた。
 だが、公開日を調べると、55年の9月21日となっている。
 親爺が倒れて廃人となったのは、23日。
 とすれば、公開直後に観に行った、ということになるのだろうか。
 市川雷蔵が弓を射るラストシーンだけは、不思議と憶えている。
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 映画館もどこだったのか。
 旗の台か大井町あたりと思いこんでいたけれど。
 時期からして、そうではないようだ。
 幼児期につれられた満員の映画館の記憶がごっちゃに融解して、作品の記憶に重ねられてしまったのだ。たぶん。
 そうならば、人生の最初に観たフィルムも彼方の謎だ。
 喪われた時を求めてを祈願するしかすべがない。


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54年ぶりの『橋』 [日付のない映画日誌1950s]

 54年ぶりに『橋』を観た。
 わたしにとって「二番目」に観た戦争映画だった。衝撃も恐怖も、それだけ長く忘れられない作品だ。「最初」に観た戦争映画のことは、いずれ稿をあらためたい。
 それ以降、数知れない戦争映画を観て、名作も超大作もあったが、「二番目」という強烈さにおいて『橋』をしのぐ作品はなかった。

 『橋』Die Brucke 1959  1960.02公開
 ベルンハルト・ヴィッキ監督
 マンフレッド・グレゴール原作

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 「いつどこで観た」のか。記憶ははるかに抜けているけれど、公開日から逆算してみると、自由が丘劇場で小学校の友人たちと観たうちの一本だったのだろう。

 話は単純。第二次大戦の末期、ドイツ降伏の直前。招集された7名の少年兵(15歳ぐらい)が、小さな橋の防衛を命じられる。まったく無意味な作戦だったが、予想外に戦車を先頭に立てた連合軍の小隊が通過しかける。
 少年兵は無謀な戦闘を試み、次つぎと倒れていく。

 恐怖は、機関銃、弾薬ベルト、対戦車砲などの武器のメカニカルな煌めきと、それらが肉体を損壊して生命を奪っていく映像によって呼びおこされたものだ。リアルであるかどうかは別だ。
 映像の暴力シーンには慣れが生じる。このような衝撃は、二度、三度とは反復しないだろう。

 再見してみて、気づいたこと。
 無理矢理に徴兵された少年たちの悲劇、という思いこみがあった。
 これは、部分的に訂正しておいたほうがいい。7人の少年たちの多くは、むしろ好戦意欲にあふれていた、というふうに描かれている。「戦争が日常である世界」に育って、年齢は満たずとも、兵士として戦うことを待望していた、と。
 映画の後半、戦闘が始まるにつれ、彼らの「ゲーム感覚」はリアルの戦場において粉々に打ちくだかれていく。銃弾の飛来、爆発音と衝撃、着弾、血の臭い……。憧れていた戦闘が肉体のレベルで原始的な恐怖に置きかえられていく。

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 その累進する恐怖。それが、12歳だったわたしを震撼したのだろう。わたしは、映像の少年兵にほとんど同化していたのだ。そのことが確認できた。

 戦争の無意味さと不条理さを訴える反戦映画。――『橋』の問題性を言葉で取りだすと、やはり一種の紋切り型になってしまう。
 しかし、わたしが54年前に受け取っていたのは、ただ戦場の怖ろしさ、それだけだった。

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 だから、この時期(戦後14年)に、ドイツでこうした傾向の作品がつくられたことの意味を継続して考えることもなく過ごした。
 それ以降に観た戦争映画の大半が連合軍勝利者の観点のものばかりだったので、ドイツ人悪役というドラマ構造に慣れ親しんでしまった。ドイツでも戦争映画はつくられていたという事実に注意をはらわない習慣ができてしまった。
 子供の頃に限定すれば、ドイツの戦争映画は、もう一本観ている。

 『撃墜王アフリカの星』 1957 1960.10公開
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 「いつどこで観た」のか、忘れているが、封切り日から逆算すると、京都時代になっているはずだ。これは、タイトルからもわかるとおり、戦争ヒーローものだ。「好戦性」のあるドイツ映画も、この時期、輸入することが出来たという証拠になるだろうか。

 『橋』再見の機会に、50年後のリメイク版も併せて観た。

 『1945戦場への橋 ナチス武装戦線』2008

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 なにか騒々しいタイトルになっているが、DVD版のものだから、仕方ないか。原作は同じ。内容的にも変わっていない。総天然色画面になり、戦闘シーンの比率も増しているが、戦争の虚しさを訴える反戦映画という基本線は同一だ。
 わたしが観たのは、ドイツ語版で、sub は、スウェーデン、フィンランド、ノルウェイ、デンマーク語だった。

 08年版では、戦車を攻撃された連合軍兵が全身炎につつまれて絶命するさまを、スローモーションで念入りにとらえる場面があった。この黒焦げになった死骸は、後のシーンで短く登場する。リメイク版に追加されたシーンとして最も印象に残るものだ。

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 カラー映画になって、いやおうなく気づくのは、彼らの護る橋のランドスケープが「絵」になっていることだ。案外これは本質的なことかもしれない。
 59年版『橋』では、彼らの護る橋はみすぼらしい。一画面におさまってしまう、ただの橋だ。どういうアングルから捉えようと「絵」にならない橋だ。これは、年端のいかない子供まで兵員に狩りたて無意味な殺戮を強いた戦争への抗議、というテーマによくつりあった舞台装置だ。「たかがこんな粗末な橋を護る」ために、あたら若い生命を犠牲にしたのか? そうしたメッセージのために映像の橋は「ただの橋」である必要があった。
 タイトルも、そっけなく『橋』。
 ところが、これでは、「絵」にならないのだ。

 橋は、戦争において、大きな要路をつくる。進撃するか、阻止するか。『遠すぎた橋』とか『レマゲン鉄橋』などを思い出すまでもなく、橋をめぐる攻防は、戦争超大作の源になっている。そこでは橋が主役だ。配役には多くのビッグ・スターが連なるけれど、彼らはみな「橋」の引き立て役かもしれない。橋をめぐる戦闘は、戦争映画のひとつの支流といえるだろう。
 『橋』はその支流にありながら、貧相な橋を主役に立てることによって戦争スペクタクルであることを拒否したのだろうか。

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 54年経って再見すると。
 彼らの射撃の腕が確かなことに感心していた。
 まったく余計なことだが、彼らは戦闘能力に優れた勇士としての側面も描かれている。銃撃の狙いは確かだし、対戦車砲も一発で命中させている。こうした高度な戦闘能力は、彼らが徴兵され訓練も受けずに戦場に追いやられたという設定とは、明らかに矛盾してしまうのだが……。

 ドイツ人は学校でも射撃訓練などを義務化していたのだろうか?
 老人のくだらない詮索心でオチ(?)になった。


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