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モラトリアム時代の青春残酷 前篇 [AtBL再録2]

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N 『誘拐密室暴行』(中山潔監督、夢野史郎脚本)あたりからまいりましょうか。ビデオ・マニアによる人気アイドル歌手誘拐事件を扱っています。歌手には敏腕マネージャーたる双子の姉がいて、二人二役でもって世間をあざむいてきたという設定が仕掛けられています。二つのメイン・プロットを強引に織り上げて、かなり見せる映画といえます。この姉妹の葛藤という部分などアルドリッチの『何がジェーンに起ったか』をうまく下敷きにしたと思うのですが。
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 清純派アイドル歌手の番組外での淫乱下半身については、眼鏡を外して歌手に扮した姉の役目となる、外見は対照的な姿である二役トリックということでは、むしろ、ニコラス・ブレイクの『メリー・ウイドウの航海』あたりが直接の下敷きでしょうな。二役を演じている日野繭子は、まあ、可もなし不可もなしという程度で、『時代屋の女房』の夏目雅子の二役が白らけるだけなのに較べれば、少しはマシと云えるでしょう。夏目さんの場合は、設定が見えすいていて、始めから話が一人二役以外には考えられず、だまされた男が阿呆なのか、酔っぱらって幻覚でも見たのか、どちらかというところです。

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 といいましても、この映画の二人二役に関しては、よく工夫はしてあるけれど、どうも出来映えがすっきりしていないのです。ラストシーンがファーストシーンにつながり、また一人の誘拐犯があらわれるというオチも、もう一つ決まらないのですな。ぬいぐるみの人形を使った人さらいは、それはそれで面白いのですが、どうにもツメが甘い。やはりもう一つの眼目である、ビデオ・マニアによる犯罪という猟奇性がよくできています。誘拐暴行犯がインポテンツであるという「原則」は、フォークナーの『サンクチュアリ』やその猿マネであるハードリー・チェイスの『ミス・ブランディッシに蘭はない』以来の常道になっているようです。
 この犯人は、アイドル歌手の実物をさらってきて、裸にむいてベッドの上に転がしながらも、それを被写体としてレンズを通して捉える手続きをぶんだ上でしか感能できないのです。自分でせっかく誘拐監禁しながら、彼女の実在と相い交っては反応することができないのです。どうやら、足元に転がる実物は、ビデオの自分だけの作品に封じ込めるための素材としてしか、使い途がないようでもあるのです。こうした青春の不能を描いて、かなりの努力作とは思うのですが。

 前バリが何度もチラチラ見えましたね。
 興醒めどころではありませんな。こんなものをつけて演技しているんだぞと、観客にあわれさをアピールしたかったのか。どちらにしたってオケケの見えない暗黙の了解領域だから、こちらとしては目をこらして見る義理も何もないけれど、あんなものがちらつくのには、一体何事かと腹立たしくなりました。仲々のシナリオで気負いは買いたいと思うのですが、あんまり仕上げが雑すぎます。

 メカニズム万能時代の不能の青春という一断面を照らし出していると同時に、ビデオに依拠した誘拐暴行犯なる設定は、非常に映画そのもののメッセージ性を委託されている、と思うのです。「縛り物」の縄の喰い込んだ毛ゾリのあとも青黒い陰阜にしても、この部分の前バリちらちらにしても、ポルノ映画表現への規制の不条理さという一点をネガティヴに体現するところに行き着くのではないでしょうか。
 それはこの映画のザツさとは外れた一般論ではありませんか。小生がいっているのは、傑作になったかもしれない材料を、あまり頑張って仕上げなかった作り手への苦言なのです。それにしても、映倫にも原則論者がおって、そもそも毛のはえている範疇自体が不可である以上、たとえそこをソったとしても、そのソリあとの秘部は映してはいけないのだ、それはワイセツだ、と主張しないことが不思議です。
 中山潔という人は、向井寛のラグタイム映画『四畳半色の濡衣』の助監督に名前が上がっていたと記憶しますが、次回作に期待しますか。

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清張のヒステリー公害について
 この作品とは違う意味ですが、『宇能鴻一郎の姉妹理容室』(中原俊監督、桂千穂・内藤誠脚本)も随分と勿体ない芸のない作りだと思います。同じ内藤誠が共同脚本をしている『悪女かまきり』(梶間俊一監督)は、藤竜也作詩・石黒ケイ歌による「横浜ホンキイトンク・ブルース」だけが良かったです。半ば占領地区である混血国籍不明の街の生理、これぞまさしくフォニイですな、キッチュですな。『野良猫ロック』シリーズや『野獣を消せ』以来のそして『ションベン・ライダー』に蘇えった藤竜也の肉体ですな。映画のほうは、素材としての五月みどりをうまく使いえてないのです。この点では『マダム・スキャンダル・十秒死なせて』に数歩ゆずる結果になりました。
N 『天城越え』(三村晴彦監督、加藤泰共同脚本、松本清張原作、野村芳太郎制作)などもついでに取り上げましょう。梶間作品と同じ第一回監督作品ではありますが、非常にアウシュヴィッツな「体制」下で貫徹された力作だと受け取りました。ポルノばかりが「締め付け」じゃない、と思える布陣ですな。清張=野村コンビの「過去の犯罪は必ず暴かれ裁かれる式」の道徳ミステリの綱領に加うるに、加藤泰好みのけがれた女の聖性に対する絶対的思慕という定数が共同して、これでまあよく自分の映画がつくれたものよと、老婆心いっぱいになったです。
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 ラストの三十分間位で全面展開やったですな。少年が天城峠で出会った酌婦(伊豆の踊り子でもなんでもいいですが)と交わす詩情でもって画面を全面占拠したわけですな。いいかえれば、ここの部分にのみしか作り手の「自由」がなかったということになります。小生は『名探偵松本清張氏』を書いた斉藤道一ほど清張に付き合っているわけではありませんが、清張ミステリのヒステリ公害については認識を一つにしますね。いいかげんにひっこんでほしいですな。《そんな裕子にほれました》と主演女優にミーハーすることで、かろうじてこの映画を支持しようとした川本三郎のいじましさも同様です。
N ミーハーは如才ない映画評論屋の戦略ですよ。大体ことあるごとに日本映画危い危いがいわれますが、作り手たちにばかりその責任を負わすことはどうでしょうかね。安全圏で好みの問題をふりまわす言説屋がどうして責任の一端を負わないのか、と小生などはいいたいですな。

 このかん見た映画に引き付けて云えば、『丑三つの村』『ションベン・ライダー』『夜をぶっとばせ』『処女暴行・裂かれた肉』、それに『ピンクのカーテン』シリーズなども含めて、『天城越え』は、今日の青春映画(いや青春残酷映画といいましょうか)の中でモラトリアム映画という正道を選んでいるといえるのです。しかし、四十年後の回想においてその青春モラトリアムを自己規定するという構成は、決定的に平民主義(平和と民主主義のことだ)の市民エゴに醜悪にのっかっているのです。四十年たって、清張好みの老刑事がやってきて、お前が犯人だとバクロすると、そのことに震憾されるそんな人物をまともに想像できますか。人を殺して四十年の鉄面皮を押し通した人物がそんなに簡単に崩壊して、過去の悔悟に占拠されるものでしょうか。
 清張=野村ドラマはこういう時問の亀裂が絶対に自然だという前提で成立しているのです。四十年後に一敗地にまみれる犯人が、一体、四十年もどうやってその犯罪の自責から逃がれて生き延びてくることができたのでしょう。そのことに対する説得はこれっぽっちもないのです。どんな人間だって忘却もすれば変節もします、それを認めないところに『天城越え』の図式があるのです。この映画で、「みなさまがた、今にみておれでございますだ」といっているのは、汁かけ飯の好きな執念深い老刑事なのですからね。冗談ではありませんよ。
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 『セーラー服と機関銃』や『転校生』など、質もそこそこ、観客の支持も結構といったモラトリアム青春SFが昨年は目立ちましたからね。それはそうと、『ピンクのカーテン』シリーズなどは、《いつまでも/そんなにいつまでも/むすばれているのだどこまでも》やりそうでやらない近親相姦寸前に居直った暑苦しい延長十八回的ムードで少し困るのではありませんか。いくらなんでも『翔んだカップル2』なんて考えられんでしょうが。
 視点の問題です。あるべきものかないのです、清張映画は。ワイセツ映画です。

 モラトリアム映画のあとは順序としてウェディング・マーチ映画となります。根岸吉太郎と丸山昇一が組んだ『俺っちのウェディング』がきわめつきになりますな。これは作り手の側が「翔んだカップル」になったということでしょうな。宮崎美子が、どんな試練にも耐えて添いとげます式のブリッ子をしたあと、こっちを向いてベロンと舌を出して見せる場画がありますが、作者の姿勢としてはおおまか、このベロンに尽きるでしょう。
 ただ、再び老婆心でいうと、根岸監督がウェディングづいて、『遠雷』から数えての結婚三部作に向いはしないか、と心配いたす次第であります。丸山に関しては、『汚れた英雄』ではいい仕事をしました。しかし、いかんせんディレクターがあの超能力者の御大で、草刈のケツばかり映し、シナリオの意図はことごとくぶっつぶしました。
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 結婚式糾弾闘争映画でもあった『日本の夜と霧』が上映打ち切りにされてしまった頃を回想して大島渚は、その直後にたまたま自分の結婚式が重なったところ、友人たちが決起してその場を会社糾弾集会にきりかえてしまった、という話をしていました。二十年前の松竹映画です。
N 『ピンクカット・深く愛して太く愛して』(森田芳光脚本監督)もウェディング映画です。「卒業」映画です。『日本の夜と霧』が古びないのと同じに、マイク・ニコルズのニューシネマの古典は、べつだん古びてしまったわけではありません。だから……。

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 『ピンクカット』は細部に懲りました。むしろ小道具の映画という気がします。『ゴールドフィンガー・もう一度奥まで』という女私立探偵ポルノも同様です。カタログ映画です。探偵の事務所の壁に貼られたボガードの『カサブランカ』や『マルタの鷹』のポスターがいいのです。要するにそこだけがいいのです。そこだけしか良くないのです。

つづく


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