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「モラトリアム時代の青春残酷」 後篇 [AtBL再録2]

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ウェディングのあとは核家族の崩壊映画

 ウエディング映画の次は順番としてやはり、核家族崩壊映画になるようですね。《幾山河 越えさりゆかば》の心境ですか。
 そうです。そうです。もともとこの種の題材ほど使いやすいものはないのです。
 そんなに喜ぶのはみっともないですな。『ザ・痴漢・ほとんどビョーキ』で下元史郎が、人の不幸に出会わなければモノが役に立たないマザコン男を快演していましたが、あなたもそれですか。

 ざっと見たところでは、『キャリアガール・乱熟』『プライベートレッスン・名器教育』『春画』『卍』『団鬼六・蛇の穴』『時代屋の女房』『十階のモスキート』『セカンド・ラブ』。大体、そこにおさまります。この中では『キャリアガール・乱熟』(和泉聖治脚本監督)が最高です。同じ水月円と末次真三郎の主演コンビでも『名器教育』(珠瑠美監督、木俣喬脚本)はかなり落ちます。売れっ子西岡琢也脚本の『春画』は趙方豪の最初の主演になるかと思いますが別にどうということはありません。趙は京都の満開座時代同様どうでもいいような役で沢山出ていますが、ようやくの主演、しかし少し違うのではないか、という気はします。この映画ではボクサーくずれの浮浪者の役柄をこなしていましたが、もっといじましさに徹したところにかれの持味が出るのではないでしょうか。いじましさの爆発のさせ方を安易に処理しているように思うのです。

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 子供のない倦怠期に近付いた夫婦に不気味な闖入者が入り込んでくるという設定は、『春画』にも『卍』にも『蛇の穴』ヽにも、また少し前の『赤いスキャンダル・情事』(高林陽一監督)にも共通しています。『春画』では趙の扮する空巣狙いだったその侵入者は、『卍』では、樋口可南子の翔んでるレスビアン娘に変わっているというだけの話です。高林の映画が有閑夫人の万引きから始まるのと似て、『卍』が高瀬春奈の同じようなシーンから始まったので、またダサイ映画を見さされるかと不安になったです。
 横山博人も谷潤原作で権威をつけようと思ったかどうかしらんが、相変わらずまどろっこしい導入なのでした。これはじつは、高瀬だけがひたすらダサく、かつての日活やくざ映画における松原智恵子のように、出てくれば衆人みな白らける、そういう存在だったからに他ならないのです。原田芳雄も樋口可南子もドラマの枠組みを相対化する方向で演技を組み立てています。しかし高瀬春菜だけがひたすらダサく、出て来れば白らけ、裸になれば更に――本人は芸術エロ映画の芸術に賭けて脱いでいるのだろうが――だらんとしまりがなく、不自然でそして醜いのです。

 崩壊核家族映画の教科書『ウィークエンド・シャッフル』に関して、ある映画評論家が《絶対にこういうプレハブ的核家族を形成してはならない》と書いていますが。
 かれは気が狂ったとしか思えませんな。PTAの先鋭分子から発された低次元の感想ならばともかく……。小生は、山谷哲男や原一男という同世代のドキュメント・フィルム作家批判から映画批評を開始したこの人物には、一定の興味と期待をもってはいたのですが、もういけません。映画評論屋がどんな家族を持ち、また望んでいようが勝手ですけれど、それを評論の価値判断に密通させてくるようでは、おしまいではありませんか。朝日新聞か怪人の折紙をつけた板坂剛を気取って、このような《雑文屋をこの世界から抹殺することもまた、映画ジャーナリズムに関わる者の使命なのである》とふんぞりかえってみたくなりますよ。

外野席ウルサイ! 女は骨董屋か

 さっき少し出ました『時代屋の女房』ですがね……。
 逆に問いたい。過激屋にとって女房とは何か。それは骨董品か、置き物同然の飼猫の一種か、と。
 あまり焦らないで下さい。森崎東にとっては何年かぶりの作品で、思い入れする人も多いかと思いますが、森崎作品としては全くの平均点だと云えるでしょう。
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 前作の『黒木太郎の愛と冒険』は饒舌すぎて抑制をなくしていると感じました。その前の東映作品『喜劇特出しヒモ天国』(川谷祐三の初めての主演作で芹明香のアル中ストリッパーも見事だった)が最高傑作だと愚考します。
 また森崎の饒舌さにつきあわされるのかといやな予感もありまして、ですが、五十代の森崎が四十代の原作者や三十代の脚色者よりもずっと過激だ、などという五十代の評論家のはしゃぎぶりはいかがなものでしょう。外野席の饒舌さが今度は不愉快です。大体、「過激派狩り」でいったんは排撃された過激なるコトバを風俗用語に転用した村松風過激は、まぎらわしいから漢字では書かずに、カゲキ、あるいは自立派好みに〈過激〉と上下にカサをつけて表記して欲しいですな。元祖村松の用例からして、カゲキは意味するところのものではなくて、ほとんど表記にすぎないのですから。 一家団欒にアンコウ鍋などつっついて一杯やっている最中に女房が「ちょっと出て来ます」といい残して「家出」してしまうようなカゲキな夫婦(猫一匹同居)が、歩道橋のすぐ下にある街角の古物骨董商を営んでいる。そこで夫婦が、時代屋にとって女房とは何か、いや違った失敬、時代屋にとって骨董売り買いとは何か、についてディスカッションする場面があります。
 古物を時代の闇から引っぱり出して商品流通させるパトスは、優しいのか残酷なのかという論点です。これはそのまま、理由もいわず数日間「家出」してしまう女房に何も問わない、その過去も問わない、という主人公のハードボイルド好みにもスライドして、この作品世界のキーワードとなっているようです。

 「お前なんで時代屋になったんや? 他にしたいことなかったんか」と質問された主人公の意識に、六〇年代叛乱の一つの光景が挿入されます。これがマルチュー対マル機の市街戦なのです。

 ずいぶん余計なお節介じゃありませんかね。過去については問わず語らず、後生大事に抱きかかえるようにして、背中をまるめ、今日をただよっている市井人の優しさと残酷さがないまぜになったしたたかさに〈過激〉な人生模様を、解釈ぬきの情感どっぷりに提出するのが、この映画の位置なのですが、おかしなインサートは止めてよして頂きたい。それに女は待ってさえいれば帰ってくるものだとの認識はいかがなものでしょうか。待ってやることの優しさを主張するためには、女の魂にまでは踏み込めないから骨董品扱いに感情をとどめておくという前提がどうしたってあるのです。こんなものは、待たれてやることの優しさが反対命題として主張されたら、くずれてしまうでしょう。帰ってくる女房――パラソルをふりながら歩道橋を軽々と歩いてくる女房を二階の窓から感涙のヴェールでむかえるまなざしとはこの程度のものでしょう。

 これは崩壊核家族映画というより「卒業」映画なのでしょう。
 むしろ中年モラトリアム映画。


大原麗子の鼻水ずるずる

 そうですね。タイプとしては崔洋一の『十階のモスキート』もここに分類できるでしょう。これは公開予定のたっていない問題作なのですが……。

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 型は同じで、メッセージは全く逆です。逃げた女房にゃ未練はあるがエサを欲しがる猫まで家出、じっと耐えての昼寝待機主義こそ〈過激〉道の奥義、これが自民党公認の、いや失礼、自立党公認の村松=森崎風風俗喜劇のいいたいことです。一方、『十階のモスキート』に関しては、内田裕也のあの不機嫌な仏頂面もここまでくれば全く見事という他はないです。『水のないプール』からの疾走はまだ続いているのですな。若松作品の異議申し立ての部分をかなりの卒直さでバトン・タッチして、仕上げています。第一回監督の崔は気負いもなく、たんたんと正攻法で、余力をためつつ作っています。むしろ恵まれた現場において製作することができたといえるようです。
 完成後に条件の悪さにみまわれているのですが、『卍』にしたって、現職の警察官の女房がレスビアンに耽溺し、相手の女を同居させて家庭崩壊の危機をまねいたところ、ダンナも油断ならず相手の女をものにして奪り上げてしまった上、いくらダサい嫁ハンとはいえ、絶望的な自殺に追い込んで新しい女との新生活にはいるという、何とも不道徳きわまりない、そして原作の七光りでの権威付けをはいでみれば、ただのエロ映画でしかない警官侮辱作品で立派にあるではないですか。あんまりふざけるなといいたい。それに中年モラトリアム映画が『セカンド・ラブ』(東陽一脚本監督、田中晶子共同脚本)などと続くと反吐が出そうになります。何ですか一体、これは。

 東陽一もうまいですな。
 うまくもなるでしょうよ、全く。
 大原麗子は泣いたときに涙より先に鼻水がずるずる出る、このリアリズムが良かったですな。小林薫はテレビドラマがせいぜいといった役者です。
 こういうクロワッサン風キャリアウーマン映画は仲々支持率もよくてなくならないものでしょうか。モラトリアム中年の現状維持的開き直りと自己弁護に付き合わされるのはもうまっぴらですよ。大人にもなれない中年団塊世代の老いの繰り言をいくらきいたって何の腹の足しになるというのですか。


夜の街を翼を持たずうごめいて

 時間もないので、少し走りましょう。『丑三つの村』、古尾谷雅人も良かったが、原泉が圧巻でありました。佐多稲子の中野重治追悼一本『夏の栞』は未読ですが、この映画の祖母役を通して、原泉が、半世紀の伴侶中野へのレクイエムを謳っていると感受されたのです。『遠雷』のババ役のお付き合いといった程度から較べれば格段でしょう。彼女の存在感はこう告げています。モラトリアムであれ、ウェディングであれ、崩壊核家族であれ、世代の交感という一件は極めて重要だ、と。
 その意味で、『夜をぶっとばせ』のドキュメンタリー・タッチは素材主義に足をひっぱられた結果に思えてどうにも買えず、『ションベン・ライダー』の思い込み一点突破強行の破れかぶれに可能性を見い出します。残念ながらあまりいっぱいいえないのですけれど……。

R 『キャリアガール・乱熟』でしめましょう。タイトル・バックに出てくる変態男を演じた俳優は何という人なのでしょう。『丑三つの村』にもちょっとした役で出ていましたが、水月円とからみあって、自分の尻にバイブレーターを突っ込みながら、オシッコ飲ませて、飲まして、とせがむいやらしさは仲々のものでありました。
 昼は辣腕のジャーナリスト、夜は数知れない男に肉体を売るコールガールという一応の筋立てで、実家にあずけたままの三歳の子供、若い女のもとに走った小説家志望の前夫、純真な恋慕を棒げる童貞の新聞配達少年などの関係が次第に明らかにされるわけです。
 『セカンド・ラヴ』の大原麗子がローラー・スケートの少年に衝突されて頭をケガするだけなのに較べて、この映画のキャリア・ガールはやっと希望が見えてきたところで童貞少年にエロブタと罵しられて刺し殺されます。大原・小林のカップルが互いに命に別条のない傷を負ってゆるしあうのに較べてこの映画のカップルには未来がないのです。
 いかにもありふれた二つの映画の筋立てですが、前者がはっきりと時流風俗へのズブズブの迎合であることは申すまでもありますまい。水月円は、全く似合わないサングラスをかける時の他は、健闘しています。夜の時間は暗い色調の粗い画面が退廃を指定します。昼と夜の対照が見事だということではなく、ひたすら、この暗いトーンがよろしいのです。
 夜の街を翼も持たずうごめいてゆく主人公のカットには胸を打つものがあります。ピンク系映画の本来的な暗さではなく、しごく技巧的に捉えられた「青春」の形が幻覚のようにゆらめいて迫るのです。マーチン・スコセッシの『タクシー・ドライバー』の夜でもなく、ヴァルター・ボックマイヤーの『燃えつきた夢』の夜でもなく、ウォルター・ヒルの『ウォリアーズ』の夜でもなく、まぎれもなく和泉聖治の『乱熟』の夜なのです。
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「映画芸術」345号、1983年4月


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