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じやぱゆきさんはどこに? [AtBL再録2]

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 現在、日帝本国に流入してくる東南アジアからの性産業従事者(女性)は、二万とも六万とも数えられる。その不確定な数量の幅において大きな層を形作っている。ことが告発主義のみで片付かないことは、新宿歌舞伎町あたりを弛緩した表情でうろついていた男が、少なからず「お前は日本人か」の問いに更なるとまどいを経験する事例からも明らかだろう。
 「売春女性」の流入と同時に、「観光売春」団ツアーの流入もすでに経済大国ニッポン副都心の夜の見慣れた光景なのである。誰が流入するファック・フリークスを嘲笑えようか。露骨に、ソウル、マカオ、バンコクに目をぎらつかせて円をきる自分たちの似姿が、この新宿裏通り〈メインストリート〉を徘徊しているのだから、まだしも自国の女たちを流出させていない「幸福」を今一度かみしめてみるほうが良いというものだろう。

 ボードレールの詩句は一世紀の後、このゆがんだ列島の中枢で、更にどぎつくよみがえる必要がある。神秘な未知の女との出会いがもたらす衝撃は、とベンヤミンはいっている、存在全体にわたってエロスに恵まれた人間の至福であるよりも、絶望的に救い難い人間を襲う性的な錯乱である、と。

 メトロプロムナードの雑踏を折れ、サブナードの消費街でナンパした女が、ブランド商品に目を輝かせ、それはあのほうもじつに好きだったにもかかわらず、じつは最もセックスから疎外されてついさっきまでノゾキ喫茶の小部屋でオメコをおっびろげて覗かれていたのであり、カタコトの日本語と英語でしか会話をできないとしたら、これはきみ、一体どういう経験なのだと思いますか。わたしがこのような日常体験をする(可能性をもつ)男であることは、一応この文章の前提事項である。

 山谷哲夫の『じゃぱゆきさん――東南アジアからの出稼ぎ娼婦たち』(一九八三年)はこうした流入女性に焦点をあてた。この短いドキュメント・フィルムは、最初に歌舞伎町、そして沖縄コザヘと飛んで彼女らの実態を捉えようと試みている。ただ捉えきれない、潜入しきれない、そういうところにとどまっているのだが。

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 結論を先にいおう。
 いつかれは自身の脳天気なデバガメ性に気付くのだろう、と苛立ちながらわたしは、山谷の作品の大半を追い続けてきた。『きょむ・ぬっく・あいん――タイ・カンボジア国境から』(一九八〇年)、『バンコク観光売春――買われる側の生活とその意見』(一九八二年)から直接つながり、沢山の女性たちが日本帝国に流出しているようだと知る認識のみちすじは大まかに了解する。
 わたしの評価はここで止まる。止まらざるをえないのだ。作品を通していやほど感得できる山谷という作家のおそろしく鈍感な楽天性に出会って――。

 「じゃぱゆきさん」の実態は、現在、現場的に潜入してフィルムを回すことが可能なほど開放的な情況ではあるまい。そうしたことは極く日常的な常識の範囲で知れることだろう。体験的にはたまさか遭遇することではあっても、それを映画という形態で定着しえるものだろうか。ここにドキュメントという行為の根抵的な設問がある。
 不可能ではあっても、おのれの領域と問題関心とに引き寄せてくることは至上である他ない。この二律背反を完全に生きてみせることなしに優れたドキュメンタリー・フィルムは出て来ることがないだろう。
 わたしが山谷をデバガメと断定するのはこうした観点においてである。
 かれが今追っている「出稼ぎ売春」労働-戦後篇という素材に対して一定の敬意があることは否定しないにしても、である。
 戦後篇に対応する前作『沖縄のハルモニ・証言従軍慰安婦』(一九七九年)も確かにかれの一貫性として捉えられるものである。しかしながら、山谷に決定的に欠けているのは、そうした一貫性を充填しきるだけの自分の視点である。

 ドキュメンタリー過程において、作家は対象とではなく本当は自己自身と向き合わねばならない、という月並みな論点をここでも導入せざるをえないようだ。「捉えようとして求める←→拒絶される」という回路が全く埋まってゆかないままだとすれば、作家の側には次の三つの方法しかない。
 一、求め続けることにおいて作品を断念する。
 二、問題意識を稀薄化するという不徹底な求め方において不徹底な拒絶を受け、それがソフトな受け入れられ方だと誤解しかつ満足する。
 三、求めることを断念して対象との了解可能事項だけで当初のアプローチを代用する。

 これらの方法を通過して作家ははたして変わるのだろうか。
 変わらない、変わりえないのだ、とわたしは思う。一方に、小川伸介、もう一方に、土本典昭という七〇年代を疾走したドキュメンタリー・フィルム作家の達成と変貌を視野に入れ、変わらないとは一体どういうことなのか。
 ここで皮肉にいえば、山谷の稀少価値があるに違いない。山谷という「作家」は本当に変わらないのだ。『バンコク観光売春』における――「日本人はいくらくれる」「日本人何人を相手にした」「家族たちは貴女の仕事を知っているのか」「結婚したいか」「今何になりたい、何をやりたい」――などの愚問が、耐えがたい恥しさと共に想い出される。
 この映画にも「娼婦たち」が美しく距離を喪うといった得がたいシーンがいくつかないわけではない。それは率直に作家と彼女らの関係の具象化なのだ。しかし帝国
主義そのものですらある愚問の位置するところは変わらない。変わりようがない。
 結果的に沈黙を選んでいないから、山谷の作品のほとんどは、先述の項目二に分類できるわけなのだ。
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 しかし更に、わたしは、山谷の最初の作品『生きる――沖縄渡嘉敷島集団自決から25年』(一九七〇年)を問題にして、この男の徹底的な限界を指摘しておきたい。
 テーマをもって沖縄にとんだ作り手は、生き残りの人たちのことごとくの拒絶に出会う。これは全く当然で正当なことなのだが、ここから何を引き出してくるかがドキュメンタリストのしぶとさというべきだろう。
 しかし山谷がこの作品でやったことは次の二点である。
 一点、自己のテーマをいとも簡単に断念した――集団自決という歴史的事件はすでに闇の領域であって踏み込めないとあきらめる、そしてその替わりに、過酷な歴史を生き延びてなおしぶとい大衆の原像を持ち出して、ああなんと〈生きる〉ことは素晴らしいのかという俗呆けの生命讃歌に横すべりした。
 二点、それらのドキュメンタリー作家としての本質的な屈折転向をその重大さの自覚なしに無邪気に一作品の中に定着させた。
 つまり、対象の血ぬられた過去については踏み込むことができない、しかし何はともあれここにこんなに素晴らしく〈生きている〉人々がいるこれはすごいではないか、というテーマ放棄の過程が作品の別側面を作ったのだ、これでは全く私ドキュメンタリーでしかない。

 何故わざわざ戦時中に起した集団自決事件で知られる島まで出かけてまで、生キルッテスバラシイを報告せねばならないのか、この問いは最後まで宙に浮いたままだ。
 いったん人々の過去に土足で踏み込んでしまった人間、踏み込もうとした人間が、こうした安逸な帰着に自足して恥じないことは不思議だった。しかし山谷という作家の方法論は第一作でこのように基本的に決定してしまったのである。
 テーマの追求を稀薄化したりまた断念しつつもフィルムをとる行為は止めずに、表層の反応をかすめ取って対象を捉えることの代用と換える、そうした回路が山谷の作品にはすっかり定着してしまった。
 素材的な局面から言えば、山谷哲夫は稀有であるし、お座なりに更なる持続を要求してゆきたいわけだ。しかしかれの方法論が転換されない限り、かれの「テキスト」が犯罪的にしか結果しないこともまたあまりにも明らかなのだ。

「同時代批評」10号、1984年4月


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LestulP

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