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頭突き一発、僕の名もマルコム [AtBL再録2]


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 二つの国際映画祭が重なった上に、そこに含まれたマキノ雅裕特集に加えて、山中貞雄まつりで対抗された十日間、まさに至福の映画週間だったのでは?
 見逃がせば二度と機会のない作品も多いということで裏番組は落ちるわけだから、それにスケジュールも毎日ヒマなわけでないから、一言でいえば地獄……。

 『レイザーバック』のように映画祭期間中にもうロードショー公開が始まっている例もあった。
 あれは予告篇だけが素晴らしい映画の見本だ。同じ国のティム・バーンズによる『アゲインスト・グレイン』は、映像を手段とするプロパガンダを信じていることが気になった。それとノーマン・ジュイスンの下らない『ソルジャー・ストーリー』を選んでしまったおかげで、コスタ=ガブラスの『ハンナ・K』を見落してしまった。217a.jpg

 それはカネボウ国際女性映画週間をオミットした君が馬鹿なのだ。ブラジル日系三世山崎ちづかの『ガイジン』とマルチニックのユーザン・パルシーの『マルチニックの少年』ぐらいは万難を排して観るべきであった。ヒマがなかった? 自己批判なさい。
 ジュイスンは十何年前の『夜の大捜査線』と同じパターンをあてこんだ。原作付きで無難な路線を選んでは、人種差別をネタにする嫌味な商売人だが、今回は、あの暑苦しい田舎町も引き裂くように響くレイ・チャールズのテーマ曲もロッド・スタイガーの名演による傍役もなく、全く三番煎じ。ハワード・E・ロリンズJr. の好演は光るが、かれを探偵ミンストレル・ショーのヒーローに終始させることの責任はジュイスンという商売人に帰せられるべきだ。『ガイジン』もちょうど『パリ、テキサス』の裏にまわってしまった。

 ヴィム・ヴェンダースはすでに論じ尽されている作家だ。何を今更?
 ヴェンダースはマルクス・ブラザース映画やハワード・ホークス映画にオマージュを捧げようとしただけなのに、ロビー・ミューラーのカメラがあまりに美しいし、ライ・クーダーの音が国境を開いてしまったし、ナタ・キンは一瞬まるで『リオ・ブラボー』のアンジー・ディキンスンそのままだったし……いいたいことはどっさり原稿用紙百枚ほどある。
 レイザーバックのような男だな、君は。そういえば『パリ、テキサス』でチコ・マルクスの役を演じていたディーン・ストックウェル(かつては何代目かのJ・ディーン)がアメリカ軍将校の役で出てくる『アルシノとコンドル』は今回の最高だったのでは?

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 よろしい。『アルシノとコンドル』はコッポラの『アポカリプス・ナウ』と同じシーンから始まる。まさに同じ、ただ端的に、故意に同じなのだ。あの悪夢のような硝煙の中に低い爆音と共に戦闘ヘリコプターが出現してくるファースト・シーンが故意に同じにつくられているのだ。
 チリからメキシコに亡命したミゲール・リッティン監督。なにか図式タイプの人民解放戦争勝利万歳映画を覚悟していたが全く違って結構だった。どこまでも、コンドルのように空を翔びたいと想っていた少年のメルヘンなのだ。年上の少女との淡い恋やヘリコプターに乗せてくれるアメ公〈グリンゴ〉や強欲な鳥売りの男との出会いをも折り込んで、これは夢想的な少年が状況の変動によっていかにゲリラ兵士となってゆくかの淡々としたドキュメントだ。
 コンドルになりたかった少年は、木の上から落下して不具の傷を負う。この傷は何によってもいやされないのだろうが、ラストシーンはメルヘン的な延長でなお感動的だ,名前をきかれた少年が、僕の名もマニュエルだ、とゲリラの指導者を指示し、誇らしげに銃をもった腕をあげるのだ。不具になった肩を――。僕の名もチェだ。僕の名もマルコムだ。……。


 ……どうも、女性と少年でエキサイトするようなので、ちょっと枯れてみよう。ルイ・マルがバート・ランカスターでやった『アトランティック・シティ』とフィリップ・ボルソスがリチャード・ファンスワースでやった『グレイ・フォックス』と、老残のアウトローをしみじみと活写した作品も重なった。217c.jpg
 いや、ランカスターが老人を演じる(あるいは、ただ、たんに老人になっている)ことにどうしても慣れることができなかった。これは果していい映画なのだろうか? 後者については、カナダ製西部劇(それもニュー・シネマ的西部劇)に接することができて感動した。やはり凍てついてくるその風景の未知さにただ感動した。

 ところで、ジョン・カサヴェテスの『ラヴ・ストリームス』は?
 候孝賢の『風櫃〈フンクイ〉から来た人』の裏になって……。うむ、なんだが、裏表で観そこねた作品カタログみたいだな、小生、恥かしながら、いまだに、『殺人者たち』のニヒリストや『パニック・イン・スタジアム』の特別狙撃隊隊長としてのカサヴェテスしか知らんのだが……。
 そんなことではもう『フューリー』のラストの彼の頭同様、ボカーンと粉々に爆発してしまったほうがよろしいようだ。あえて選んだ『フンクイ・ボーイズ』の感想は如何?

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 アメリカ語タイトルが“All the youthful days"つまり台湾版アメリカン・グラフィティなのだが、あの『グローイング・アップ』なるタイトルで五作ほど連続したうんざりするようなシオニスト・グラフィティの商魂よりはよほど好感をもてる。兵役を待つモラトリアムの日々の閉塞感を正攻法で描いて立派だ。中華民国といういまや過渡的な国家と社会の状況が見事に伝わってくる。
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 伝えるということでいえば、李長鎬の『寡婦の舞』の暗く重心の低い不器用さも出色だったのではないか。
 そうだ。メッセージは受け取った。受け取らねばならない。同様に、バルバラ・サス監督、ドロタ・スタリンスカ主演『叫び』もたいへんな作品だ。女性による女性映画はこれに尽きる。不良少女が社会との異和を通してしか自己を確認できない惨状を呈示することで作者は自国の状況をプロパガンダしたかったのだろう。ガムをかみ、ビール瓶のフタを歯でこじあけ、街を与太る彼女はまさしく世界そのものである。襲いかかるようなエレキの旋律はヒロインに属している。廃船のかげで目論まれたつかのまのセックスが、男の視線の中に河に浮いた死体が入ってくることによって、急激に萎縮してしまうシーンは、深淵にまで達している。人間の希望を旗としてもったはずのボリシェヴィキ独裁国家の現段階が、一種すさまじいばかりのオーウェル的状況におちこんでいることへのシンボリズムでもあるようだった。

 朝日新聞のコラムは、この作品の主調が不快なものだと判断し、続けて《現状にあって、何とか光を見いだしたいと願う彼らの苦悩を、我々は決して見逃そうとしているわけではないのだが、上映当日、会場で主演のスタリンスカが熱心に観客との討論を希望したことや通訳がうまく行われているか強く聞いていた姿を思うと、我々は何処でこの作品に反応すればよいのか、とまどいを感じてしまう》としていた。

 タダ、マッスグニ反応スレバイイ。それだけだ。この一文ほどに、いっけん良心的でしかし傲慢きわまりない映画祭開催国から発する主観はないと思うので、これに頭突き一発、それでしめくくりたい。なるほど、当日ポーランドのエージェントは英語でメッセージを喋り、かつ通訳は拙劣きわまりないものだった。しかしそんなことはどうでもよろしいことであり、叩きつけてくるロックを背にしたスタリンスカを捉えるサスのまなざしが重たければ、この映画は観られるべきなのだ。それは観ねばならないものだ。ああ、それにしても、これはあまりにもハッピイな映画環境でありすぎるではないか、と思いつつもこの環境を享受したいしまたそうしなければ敵の武器を奪取することはできないだろう、と戦術を確定し、次に相まみえる機会がくるまでは訣別の辞を書かねばならない。

「映画芸術」351号 1985年8月


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