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クリストファー・フレイリング『セルジオ・レオーネ 西部劇神話を撃ったイタリアの悪童』 [拾遺]

『北米探偵小説論』注釈 映画を探して11   2002.12.05の日誌より

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 クリストファー・フレイリング『セルジオ・レオーネ 西部劇神話を撃ったイタリアの悪童』は、圧倒的な書物だ。最初はレオーネのような「二流の巨匠」にこのような大部の本(なにしろ二段組、600ページ)がふさわしいのかどうか疑っていた。しかしここにあるのは映画のスクリーンの影にうずめられた無数の声の集積にとどまらない。

 一人の映像作家の墓銘に百人の無名の徒の訴えが含まれているように、戦後の一時期を彩った映画史の欠落を埋める貴重なドキュメントであると同時に、その映画史には、アメリカという文化スタンダードの支配を受けた一辺境(ここではイタリア)がいかにその「支配」を脱構築=ディコンストラクションしたのかという記録が、びっしり微細な証言をもとに大建築物のように組み立てられている。すぐれた書物には大河小説のごときゆったりした流れと、濃密に埋められた一行一行の何にも代えがたい輝きがある。映画についての長々しい本がしばしば陥るのは、細部の集積に書き手がこだわるあまり、書物としての統一性を喪ってしまう事態だ。
 この本はちがう。統一性と細部の輝きとが見事なバランスをもって一人の映画作家の悲劇――レオーネの生涯にも作品歴にも悲劇性はひとかけらもなく、むしろ再現されるのは、死を前にして観ていた映画が『私は死にたくない』だったというエピソードそのままに、騒々しいコメディアンのような軌跡の連続だが――悲劇というしかない人生が呈示される。どこまでもレオーネは滑稽な喜劇役者のキャラクターに描かれるが、それらすべてが、人生一般がおおむね求めて得られない果実をつかみ取ろうとする悲劇的な闘いであるという言葉本来の意味において、悲劇の陰影の満ちみちているのだ。
 こうした本は希有である。

 監督としてデビューする前、1950年代後半において、レオーネの視線は複雑なコンプレックスをもってアメリカに向けられる。彼がスクリーンで知っていたハリウッドの巨匠たちが史劇大作のロケ地に選ばれたイタリアにやってくる。レオーネは助監督として彼らにつき、不自由な英語会話能力でオマージュを伝えようとするが、本国での西部劇ブームは過去のものになりつつあった。
 そして60年代なかば、レオーネは悪名高いパクリ映画『荒野の用心棒』を送りだす。それにつづくマカロニ・ウエスタン三部作によって作家レオーネは生まれるわけだが、その誕生と成長を跡づける筆致はとくに印象深い。伝記というよりむしろ、豊富な映画史的知識に恵まれた筆者の手になる、パノラマのように展開される巨大スケールの芸術家小説を読むかのようだ。魅力はレオーネそのものより、作者のほうに横溢している。

 頂点に立ったイタリア製西部劇が巻き起こした60年代末状況についてはずいぶんと教えられた。「売り出し中のマルクス主義者」はみな西部劇をつくり、それを階級闘争史観の入れ物にすることを欲したらしい。ラディカリズムと娯楽センターとの無媒介な野合。わたしはマカロニ・ウエスタンをほとんど観なかったので、実感しにくかったが、ゴダー『東風』などをこの脈絡におくなら、なんとか了解できる。

 筆者はレオーネを最初のポストモダン作家と位置づける。そして最後の数ページを、いかにレオーネが後代の作り手に深甚な影響を与えたかの考察にあてている。そのあたりはまあ「そうですか」と傾聴しておくしかない。ピーター・ボクダノヴィッチ『ウエスタン』のラスト近くの長々しい決闘シーンのモンタージュに関して評していることは首肯できる。まるで、評論家同士がぺちゃくちゃと内輪話で盛り上がっているみたいだ、と。それをポストモダンと呼ぶのだろう。

 またエリザベス・マクガバン『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』バート・デニーロレオーネについて語っていることも印象深い。この映画のシナリオ協力をスチュアート・カミンスキーがやっている。わたしはその昔、この映画についての映評まで書いていたことを思い出した。厚顔無恥を地でいくような文章だったが、日本公開ヴァージョンが何分版だったかまったく憶えていない。

 わたしはこの本に深く満足するが、かといって、レオーネの作品をまた観なおしてみたいとも思わなかった。書物がここでは勝っている。これほどまでに活字によって映画的感動を喚起され、再現され、注釈され、再構築される映画とは何なのか。「二流の映画」に捧げられた一流の書物を読み終わって、いささか混乱してしまう。映画の未来はあるのか。それとも終わってしまったごとく際限なく語られることこそ映画の現在なのだろうか。映画史の現在。それこそポストモダンの奥深い空虚な悲劇ではないのか。悲劇としては決して受感されないだろう無様な現在の。


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