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哀しみの男街 [AtBL再録1]

IMG_0023y.jpg 根岸吉太郎監督『キャバレー日記』は、久方振りにロマンポルノの正道にたった作品である。正道とは、上京者の不安と自衛から、都市のかたちが透視されてくること、にふさわしい映像を用意する傾向である。
 セックスの不平等な混乱や惑溺はそこからの結果にすぎないといえる。青春とは性への流刑であるよりむしろ、`街路とコンクリートの錯綜への流刑であると、これらの映画は、十年間主張し続けてきたのかもしれない。ネルソン・オルグレンの命名による「ネオンの荒野」は基本的にいって強いられた居留区域〈リザベイション〉なのである、と。そこでの交通形態の未納こそがテーマなのである。
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 都市は、動物的な嗅覚によって進路を選ばれて、内奥を開示することこそが本来だろう。そこで出会った男女がとりあえずおめこにふけるのも、そうした動物的進路の延長ではないだろうか。これが性映画の教宣である。都市がカタログ化されるのか、カタログが都市化されるのか、もはや判然としなくなっている時代において、十年間同一のことを主張し続けるのもまた志ではある。
 例えばその初期『盛り場・流れ花』だったか、田舎から駆け落ちしてきた男女が満員電車に乗ったことからいとも簡単にわかれわかれに引き裂かれてしまうのである。後に残されるのは、片方だけ駅のプラットフォームに打ち捨てられた新調のハイヒールと、そして片桐夕子のいかにも大都会にボーゼンとした鈍重な表情と、なのだ。臆面もない図式である。
 発表当初においてすでに、観念小説的思い入れの力みが目立ったアナクロの図式ではなかったか、といえばいえる。だがここから世代論にスライドして利口ぶってみても仕方ないのではあるまいか。いたるところに案内図が付き、標識の掲げられた管理空間以外の何物でもなくても、都市が異貌の内奥をちらつかせて横たわっていることに変わりはないだろうから。

 『キャバレーロ記』は、そうした主張において、性交代理サービス産業労働者たちの生活と意見をスケッチする体裁になっている。ここでは様々の視角が可能である。酔い痴れて肉体の怒張を静めにやってくる男たちの愚かしさ度し難さを暴きたて、彼女たちの「労働」の不条理さとそれら性の退廃の鋭角的風景とを悲憤することが一つ。
 キャバレーなる場を一つの共同体と措定して総体的な風呂敷で、滑稽であったり悲惨であったり狂騒であったりする「交通形態」の一駒一駒を呈示することがもう一つ。この映画の場合は、後者によって前者をも包括的に囲い、バランスを良くしようと心掛けてはいる。本番キャバレーという異様な磁場については、かろうじて何も判断しないように努めている、といったほうがいい。むろんそれは限定付きポルノ映画としては一応の正確さなのである。
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 薄暗い裏路地を技けると煌々として真昼のようにギラつくイルミネイションの大海、呼び込みの男たちが口々に、若い娘ばかりであるの、五千円ポッキリで大丈夫だの、生尺オーケーであるの、三役締めの名器ぞろいであるの……と、引きも切らずにささやきかける。地下であるか階上であるか地つながりであるか区別もつかない店の中に案内されると、あくまで漆黒に近い暗さと音楽の壮絶な轟音で外界を遮断した奇妙な空間がある。最もセックス表現の後進領域であるところの劇場用商業ポルノ映画は、こうした性産業の過激性を限りない素材の宝庫とした。これもまたその中の一つの映画にすぎないのであるが。

 性交代理サービス産業は自明のことに、性そのものを疎外する。それはつまるところ代金に還元される射精にすぎない。かくまでおとしめられた男の性欲とは一体なんなのだろうか。おめこ代は払っても関係そのものは未納なのだ。東南アジアヘの売春観光ツアーに「進出」することから、そこで撮されて国内に出まわるウラ本を官憲の目をかすめて買ってくることまで、これからまぬがれることはできない。
 本番キャバレーや観客舞台参加の本番ストリップが乱交的解放区の様相を呈する「瞬間」があるという現認は起りやすいが、それは最も弄劣な錯覚というべきだろう。 在日は相い変らずアジア圈性矛盾のるつぼである。寒々とした性の売買によって生じたツケは各自の個体に分断されてまわされてくる。これは財政破綻の国家が増税を唯一の策として「国民」を追いかけるのと類似であるだろう。
ここから余剰価値としての哀感が湧き出てくる。放出と同時に発生するこの上部構造は、街をうろつく「性流者」の単純なメカニスムの証左である。

 かくして、哀しみは性表現におけるテーマとも成りうるが、それは幻想なのだという醒め方が一方になければつまらないものに終る、といえるようだ。性的賃労働の剰余価値は資本によっては搾取されない。それは労働者のものである。哀感を通してそうした疎外への憤りに通底してゆく途も確かにある。いや、そこへ行き着かなければ、性の彼方に異貌の都心の奥の奥は、見えてこないだろう。

 『キャバレー日記』では、「風紀」という合言葉が男女従業員間の交情および情交へのタブーとして幾度も□にされる。当然のことに主人公の純情な青年とナンバー・ワン・ホステスとの間の踏み越えるべき愛の山河にもこの言葉がヴァリアーとなっている。この規律が形骸であるばかりでなく不当なものである実例が反復された後、やっと二人は結ばれる。
 それはこんな情景である。――誰とでもッてわけじゃないけど、としつこいほど前置きした上で、女が男に体を開く。誰とでもッてわけじゃないけど……本番するわ。閉店後のボックス席。二人は客とホステスとしての身振りを続けながら関係をもつのである。ビールをつぎながら、誰とでもッでわけじゃないけど……。
 これはかれらがこの身振りを最後まで捨てきれないというよりも、この身振りの多義性に賭けて、疎外を克服する武器にしようとしている、と解せる。
 そこは哀しみの都市なのである。

「同時代批評」6号、1982年11月
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