SSブログ

白馬を見たか2 [AtBL再録2]

IMG_0023y.jpg

 201m.jpg

つづき

 革命が大道具に取り込まれてしまった二大作とは隔絶して、『鉄の男』は、重苦しく深刻に、進行する「革命」と渡り合っている。ワイダの切迫した回答は、語り伝えねばならない、証言せねばならない、という当為に危険なほど傾いている。
 『鉄の男』は、軍政による革命的民衆の闘争圧殺という悲嘆の事実を、いわば「前宣伝効果」としてもつことを経て、上映された。観客は、あらかじめの良心の痛みをもって、これに対峙した。一人の巨匠が、偉大な民衆の闘いを、見事に作品化し、全世界に向けてアピールする、という前提が出来上ってしまった。革命すら同時進行的に、作品性の前に屈服させうるという、不遜な作家精神は不問に付される他ないのだろうか。
201f.jpg201g.jpg201h.jpg
 ある種の闘いの全人民性は、それを証言せねばならぬと真摯に信じる芸術家の「特権性」をも解体させるような質をもつことの、当り前さに、考えは向かないのだろうか。
 『鉄の男』の作品性を讃美する言説は、この問いに何も答えなかった。典型的な例を一つあげよう。
 《私たちは、「連帯」がグダニスクで〈勝利〉した瞬間、数年前すでに二人を予告していた『大理石の男』を見た。さらにポーランドが軍政にとじこめられたあと、『鉄の男』を見て、映画のラストが、スト勝利にもさめきって、若い二人が、未来の弾圧を予見しつつ、あえて、「ヤネック・ヴィシネフスキの死」に同感を托そうとしている姿を、知った。改めて、ワイダの(先見性、予言性を)驚嘆すべき事例が、二つ重なった》(『キネマ旬報』一九八二年四月下旬号)

 偉い偉いワイダは偉いとポーランド可哀そうですね大変ですねの合唱者に、ワイダは、次に、何を予言してくれるのだろうか。
               
 作品自体が構成に無理があると指摘する者はあっても、これのもつ圧倒的な臨場感を否定する者はあるまい。闘いに歌いつがれたバラッド「ヤネック・ヴィシネフスキは倒れた」を映画はラストに、勇壮に、全世界を鼓舞するように歌った。距離を置いて見るには、あまりに直接に歴史の勝利の瞬間をカメラに収めた、はっきりとドキュメントそのものであり、しかし証言として見るには、あまりに型通りの不屈の闘士たちをヒーローとするフィクションでありすぎる。
 闘いに属するものは闘いに返えせ。そうでないものは、そうでないといえ。

 「連帯」の闘いは、映画作家ワイダをのりこえる過程をもっただろうか。そうだとして、のりこえられたワイダは、そのことを正当に作品化に投げ返えすことができたのだろうか。
 あまりに生々しい記憶の中から現出してきた映画に、わたしらは本当に正当に向かい合ったのだろうか。あるいは……。

 一方、『ミッシング』は、すでに蹂躙しつくされて久しい革命に取材している。そして、『レッズ』同様、全きアメリカ映画である。

201i.jpg201j.jpg
 一人息子を奪われたビジネスマンの父親ジャック・レモン。かれと最初は感情的に対立しながらも、次第に自分たちの生き方を理解してもらうべく心を開いてゆく嫁シシー・スペイセク。ほとんどかれらの芝居で見せてしまう。
 ジャック・レモンが、これぞヤンキーのおとっつあんキマリ、という圧巻の演技を見せ、観る者としては、『総長賭博』の鶴田に感動した三島ハゲのように、何という万感こもごもの表情を完璧に見せることのできる役者になったことよ、と感心していればよいことになる。
 映画はこのおやじの視点から少しも出ずに展開されてゆく。ハリウッド映画の定石通りの作りで、息子捜しの、異国の「反民主主義行為」への怒りは、時にあざといほどに『ミッドナイト・エクスプレス』のような実話映画に酷似さえする。
 古き良きデモクラシー・ダディ。かれはアメリカ人がこの国で殺されるわけはないと信じているのだ。この点はアジェンデ政権への共感からチリに往む、心情左翼のボヘミアンである息子夫婦にしても、同様の無邪気さなのだ。この安心から、息子は、好奇心いっぱいに、クーデター計画に参加した米国人の秘密に踏み込んでしまって、消されるのだ。

 チリ以降、ラテンアメリカの諸地域に、あるいは「韓半島」に、われわれはあまりに多くの同種のクーデターを見なければならなかったし、またそこに影をおとすUSAの戦略に気付かざるをえなかった。そうした脈絡で『ミッシング』を見れば、一人の青年のミッシングを通じて、恐怖政治の闇について教宣した、と平板に解することはできない。
 消されたのは自業自得だ、と説明するチリ軍人の意見は、米国人の奢りを明確に指示している。どちらのシンパであれ変わりはない。米国資本にやとわれ、米国映画の文法そのままの作品を作ることによって、コスタ=ガブラスは、いわば、捨て身に、アメリカの世界蹂躙に対する告発をなしたのだ、とわたしは解する。かれが往年の衝撃的な作品から後退したかどうかの判定は、だから、さしあたって興味はない。

 革命を静物画に配図する超ボケ大作にはさまれて、ワイダとコスタ=ガブラスの両作があったような按配の本年度であった。わたしらには、安穏として、ライナー・ファスビンダーやジョン・ベルーシ、その他ウォーレン・オーツからホールデン、バーグマン、フォンダらへの追悼を一方の視野に入れつつ、岡目評定をすることが許されている。
 状況的に破綻することを内在化させながらも証言者の位置を確保しようとしたワイダの苦渋と、商業映画に徹頭徹尾偽装した形で隠された主張を手渡そうとしたコスタ=ガブラスの居直りとを、わたしは、胸に刻みつけておこう。

 それにしても『ミッシング』が描いたサンチャゴの恐怖は、そのまま光州における「全一派」空挺部隊の進駐の恐怖だった。
 それはあまりに見慣れた悪夢の情景だ。
 軍靴の響きと嘲弄の銃弾に追い立てられるのは、明日、だれであるのか。
 あるいは、われらの世紀末の幹道を白い馬は走ってゆくのか。

「日本読書新聞」1982年7月26日号


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

白馬を見たか1たまらなくE.T. ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。