SSブログ

たまらなくE.T. [AtBL再録2]

IMG_0023y.jpg


202i.jpg 
 涙と感動のさよならのラスト・シーン
 さよならの言葉は、E・Tからはかえされてこない。――きみの心に永遠に。とってもE・Tなせりふがかれの口から発される。

 荘重なオーケストラ音楽と共に降りてくる幕。感涙の渦である館内の老若幼男女には失礼だが、わたしは、次に、RKO映画のマークが出てくるのではないかと錯覚した。
 といって、わたしは、米国三流ムーヴィーの別名であるRKO社の映画を沢山見た記憶があるわけではないし、当該の映画群を馬鹿にしているわけではない。ただなんとはなしの、さりげなくE・Tな連想である。見終ったとたんに、四〇年代のデモクラシー万能の陽気なグッドオールドデイズのRKO映画の、という連想が出てきただけである。何というヘソマガリの非E・Tな男というなかれ。偏屈な感受性こそ映画批評子の特権でなくてなんだろう。
202h.jpg202g.jpg
 しかしここに登場するのはインディアンではない。胴長短足・カボチャ頭に掃除器のホースのような首を待った・象皮の・未知の生物である。かれ(か彼女かわからない、性器があるのかないのか・映ったのか映らないのか・映ってもボカされてしまったのか・注意して見なかった)は、居留地である他の天体から離れ、この地球に、一人だけ取り残されてしまう。捜索隊の包囲・かれを受け入れてくれる家族との愛情、と設定はあくまで手固い。スピルバーグ映画工房は、ディズニーに迫るキャラクター量産の端緒についたところかもしれない。
 かれが初めて憶える言葉は、ホーム、である。極めつきのアメリカ的なアメリカ語なのだ。かれを受け入れる家族は母子家庭の三人兄弟である。父親は別居してメキシコにいることが会話で、何回かふれられている。家庭崩壊の中産階級を背景に「宇宙人」をからませたところに現代性があるなどといい出す間抜けがいると困るから、急いでいっておくと、これは、クレイグ・ライスの『ホームスイート殺人事件〈ホーミサイド〉』と同様の設定である。ライスの作品では、殺人事件だった闖入者が、この映画では「宇宙人」になっている。
 ライス夫人の戦争協力探偵小説から四十年、おお、たまらなくE・Tな盤石のデモクラシーよ、アメリカよ。

 ブラッドベリの『火星人年代記』にしてもホームの一語は、どこまでもやるせなくE・Tに使われていたことを想い出す。地球壊滅の日は抒情たっぷりに描かれていたものだ。それは火星への植民者の視点を借りて構成されていた。かれらの見守るなか、地球人は滅亡し、最後の通信を送り届ける。――カム・ホーム。カム・ホーム、と。
 ブラッドベリのリベラルSFから三十年、おお……。

 さて、E・T。
 限りなくE・Tに近い、なんとなくE・Tな世の中であるからして、愛と笑いと涙、過不足ない三題バナシが必要であるらしい。
 『E・T』に並んで、『蒲田行進曲』が、昨年度ベストワンの栄誉に輝くことは、ほぼ問違いのないところだろう。とにかくE・T。なにはともあれE・T。こうである以上、とってもE・Tな称讃のあいさつ、余人に後れをとることがあってはならない。
 ――映画内進行的映画を背景に使った点では同様のトリフォーの『アメリカの夜』をはるかにしのぐ傑作ではないだろうか。否、そうだ。断じて断定だ。202j.jpg
 第一、映画(いや活動写真といいましょう)にこめたその愛着の総量が、ドバッと
E・Tだ。人類みな、じゃない、映画屋みな兄弟。とにかくE・T。この映画が描いている撮影中の映画、一人の人間が受胎されて誕生するまでの比較的長い期間に渡って製作されている超大作らしい。だから人間喜劇も満載。泣かせ/見せ/笑わせ/……。いかにもよくこしらえられたペーソス・E.T.コメディなのだ。うんぬん。

 すべからくE・Tフィーバーに便乗するべきである。
 痴漢電車シリーズ『ルミ子のお尻』(滝田洋二郎監督)は、まがりなりにもE・T殺人事件ふうのピンク・ミステリーに仕立てあげられている。

202a.jpg202b.jpg
 痴漢探偵(螢雪次郎)が電車の中でフィンガー・プレイにはげんでいると相手の女の子がアヘアヘの最中に殺されてしまうのだ。気付いたときには終点で、もたれかかってくるその背中に深々とナイフが……。というヒッチコックばり。容疑者はかなり手軽に見つかり、これが車掌である。『Xの悲劇』ふうの車掌殺人事件かと思うと、容疑者の一人が連続して殺され、おまけに「E・T」のダイイング・メッセージを残す。と、仲なかE・Tな展開である。
 痴漢探偵、犯罪のために女助手の肉体に電車の路線図をはりつけて、指技から本番へと事に及ぶ。ファックが快刀乱麻を断つ名推理のため必要条件であるというハメハメ探偵のタイプは、トロイ・コンウェイのコックスマン・シリーズのような変種は別にして、小説の中にはあまり多くはなく、この種の映画の特権領域でもあるようだ。あいにく題名は忘れたが、シャロン・ケリーの主演作で、こんなものがあった――。

 兄が妻と彼の弟との密通の現場を押えるために探偵を雇い、自分は亭主が留守の隣の女とよろしくやりに行く。探偵は夜を待つ間がもたなくて、助手とやりすぎて腰が定まらない上に、したかかに酩酊して、指定の家の隣にカメラを持って忍び込んでしまう。翌日、探偵は、証拠写真多数を依頼人に意気揚揚と渡すのだが、そこには、依頼人自身が隣の女房としっぽりやっている密通現場しか写っていなかった、というわけである。

 痴漢探偵映画の話に戻ると、ダイイング・メッセージは、かなりE・Tな種明しで、簡単に犯人を指定し、事後は、犯罪のかげにフアックあり・フアックあり、の解決篇をつけてラストにつながる。ラスト・シーンは、再び事件発生の報に、自転車にとびのった痴漢探偵が走ってゆくうちに、やはり、空に舞い上り、左手に東京タワーを配した飾絵のような夜の首都、宙天にかかるお月様に重なって浮んだシルエットで、臆面もなくE・Tに決めていたことである。

 そうであるがE・T。
 この映画のミステリ部分の設定は、容疑者三人をみなE・Tのイニシャルを持ったネクラ人間であると指定していたことであり、そのうち一人などはネクラにして酒グセ悪く女にもてないなどと、わたしは鏡を見るような、心中おだやかならざる思いにおちこみさえして、昨年はこの種の性格にとっては更にひときわ暗い一年だったことをもまざまざと想い出し、かの吉本大先生が自分もそうだからネクラ人間を嫌いではない、と大先生による例の文学者の反核声明への批判と同等の蛮勇をふるった発言をなさったことも、あまり力にはならず、心なしか、ひが目か、集中的に見た正月映画の傾向と対策は、ネクラ人間狩りの敵意にみちていたのではないか、と思えてきたのである。

 ネクラなる言葉の流行現象は、などと大上段にふりかぶってはいいたくないのだが、やはりいってみたくなる。なんという巧妙な柔構造管理社会の「差別用語」であることか、と。ネクラの里の住人たちは、この現象の影響を披って、一夜として枕を高くして安眠することができない。ネクラでも生きられる、は、もはや幻想でしかない。自らのうちの過剰をきりすてることによって延命する小市民意識によって、それは、テロられるのだ。

 このことは、痴漢電車シリーズ『良いOL・普通のOL・悪いOL』(稲尾実監督)に眼を向けても、全く同様の事態だと云わざるをえないようだ。かかる窮状においては、すべてのネクラ者は、偽装転向になだれをうつ他はないのである。そのとき、『この子の七つのお祝いに』のような残虐ネクラ映画は、充分に踏み絵としての有意義に輝くことだろう。たとえ、あの映画のラストの岩下志麻の「私の一生は、いったい、何だったの」というシツコク何度も繰り返えされる作りダミ声のせりふのコーネル・ウールリッチ調に感ずるところがあっても、讃めてはいけない。状況はいまだに、自己の実存を《隠せ!》と戒しめられた丑松的命題を、過去のものにはしていないのだから。隠さねばならない。ネクラ思想を……。やがて破局が、この性格をこのタイプを狩り立てるために、やってくるから。

 そうであるからE・T。
 だから、美保純・寺島まゆみシンドローム、すべてこれ翼賛しなければいけない。 『OH!タカラヅカ』(小原宏裕監督)――原クンそっくりさんの熱血教師が、女ばかりのSEXケ島の高校に赴任して、その性格の唯一のクラい難点であるところの超早漏を克服するという清く明るいアヘアヘE・T映画。

202n.jpg202q.jpg
 『女子大生の下半身・な~んも知らん親』(楠田恵子監督)――三人の女子大生の性生活と意見の紹介だが、単なるオムニバスにせずに、早いテンポでまとめあげ、特に「地方出身」女子学生の「喪失」場面は、健全な解放感の印象もさわやかにE・Tである。
 『ピンクカット・太く愛して深く愛して』(森田芳光監督)――……。
202p.jpg202o.jpg
 さて、E・T。
 たまらなくE・Tな映画は、やるせなくE・Tに論じる他はない。間違っても、笑いと涙の政治学などというきりこみからインキヴィチ・ネクラーソフに裁いてはいけない。その点、澁澤龍彦先生などはさすがに、この種の手本を示してくれていて、E・T感覚いっぱいである。
 《ポップコーンの匂いがむんむんしている映画館で、評判の映画「E・T」を見た》
 うん、これが書き出しである。
 そして仕舞い方は――。
  《「華やぐ知恵」のなかに、ニーチェは次のように書いている。
 「動物の批評――私は、動物が人間を彼らと同類の存在なのだが、すこぶる危険な方向に、動物の良識を失ったものとして見ているのではないかと思う。――気の変になった動物として、笑う動物として、泣く動物として、不幸な動物として。」
 やさしいE・Tは、ニーチェのいったような意昧での動物といわんよりは、むしろ人間そのもののように見える。エクストラといわんよりは、むしろイントラ・テレストリアル(人間の内部から出現したもの)のように見える。これが私の結論だ。》(朝日新聞一月十日夕刊) .
 しごく当り前の感想も、ニーチェの引用と、これがわたしの結論だの大見得に際立たせられて、大変に立派な教訓になっている。それ以上の分析はE・Tだ。勿論のことだ。
 そして、おお、たまらなくE・Tな盤石のデモクラシーよ、アメリカよ、である。

「映画芸術」344号、1983年2月

 この文章が契機となったか(?)、後に同誌は、滝田洋二郎の特集を組むことになる。ピンク時代の滝田の仕事に関する貴重な資料であろう。

202e.jpg202f.jpg


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。