一九八二年度ベストテン&ワーストテン [AtBL再録2]
冷や汗が出た
〈外国映画ベストテン〉
①~③なし
④少林寺(チェン・シン・イェン)
⑤ミッシング(コスタ=ガブラス)
⑥~⑧なし
⑨探偵マイクハマー・俺が掟だ(リチャード・T・ヘフロン)
〈ワースト〉
①ロッキー3(シルベスター・スタローン) ①レッズ(ウォーレン・ビーティー)(各マイナス5点)
ここ二十年来、もっとも少なくしか映画を見なかった年度に、皮肉にもベストテン選考の依頼が舞い込んでくる。いやはや、冷や汗が出る。映画を見なかったのは、一千枚の原稿書きに追われていたからである。ひどい単調の日々を苦しんだ、まさに青春も萎えしぼみゆく生活の連続だった。そのくせテレビ画面から送られるCMに包囲された「映画」に付き合う回数は増えたりしているようである。
『望郷』も『ガス燈』も『泥の河』も見た、短縮版の『ワイルドバンチ』まで見てしまった。
ワーストワンは『ロッキー3』と『レッズ』何れも甲たりがたく乙たりがたい。アメリカ映画の収容力はついにインタナショナルの高唱に彩られたボルシェヴィキ革命のスペクタクルまでも取り込んでしまった。わたしが『日本読書新聞』(一九八二年七月二十六日号)で予想を書いておいた通り、『ロッキー4』の製作は決定されたそうだ。シルベスター・スタローンの顔は、精悍さをまして仲々良いのだが、次には政治家の面付きになるだろう。
『ブレードランナー』をはじめ、数多く見落しているので、ほとんどベストテンの体をなさない。前略、『少林寺』『ミッシング』、中略、『マイク・ハマー・俺が掟だ』、後略という具合だ。
眉目秀麗・童顔潑溂のリー・リン・チェイの次回主演作はアメリカ映画になることだろう。『少林寺』が基本的に教育映画であるのに較べて、それは老獪な娯楽になることだろう。『ミッシング』のコスタ=ガブラスがアメリカ映画に「買われた」ように、少林拳の美しいチャンピオンたちも「買われる」のであ
る。
『俺が掟だ』はB級暴力エロ映画の鑑である。とりあえず、ぼくたちはこーゆー映画を沢山見たいのだ、とでもいっておこうか。ペン・ケーシーとダーティ・ハリーを足して二で割ったような短足ガニ股のマイク・ハマー(アーマンド・アサンテ)はじつに今日的だった。
(ところでマイケル・チミノの『天国の門』完全版三時間三十九分は公開されないのだろうか。ベルトリッチのアホ映画より二時間弱も短いではないか)。
汚れない角川映画
〈日本映画ベストテン〉
①キャバレー日記(根岸吉太郎)
②~⑤なし
⑥九月の冗談クラブバンド(長崎俊二)
⑦爆裂都市(石井聴亙)
⑧ピンクのカーテン(上垣保朗)
⑨水のないプール(若松孝二)
⑩TATTOO〈刺青〉あり(高橋伴明)
〈ワースト〉
①汚れた英雄(角川春樹)
邦画は『キャバレー日記』がベストワン。ただし原作のヤゲンブラ叢書のもの(『ホステス日記』も最近出た)はかわない。
中略、『九月の冗談クラブバンド』『爆裂都市』『ピンクのカーテン』『水のないプール』『TATTOOあり』。
『水のないプール』と『キャバレー日記』については『同時代批評』(五号「枯れはてたプールで」、六号「哀しみの男街」――本書所収)に書いた。『ピンクのカーテン』は、美保純シンドロームの原点になる作品だという他、取り柄はない。
邦画のワーストワンは、他の人がそれとしてあげるだろうような候補作は、すべて見ることを回避したから心もとなく『汚れた英雄』あたりになる。「汚れた」ことのない角川マルチ文化収奪システムに大藪の世界は映画化できはしない。そのことを最終的に、世界のラストヒーロー・ハルキカドカワが直き直きに監督をやることで、決定的に証明してくれた。
『ロッキー』もそうだが、ヒーロー待望論は常に、民衆愚弄の強調をイメージ化することで成立する。このことは好戦映画の流行よりも不愉快である。
最後に、ベストにもワーストにも選外である『悪魔の部屋』は落胆させる映画だった、と付け加えておこう。ジョニー大倉は助平になったヘンリイ・シルヴァのような顔で出てくる。この男の独得の「哀愁」はここでは全く殺されてしまっている。
というよりもむしろ、『遠雷』での「宇都宮のラゴージン」といった役柄に見事に自分をリリースすることのできたジョニーが例外で、『総長の首』のように差別的なステロタイプにおとしめられることが、俳優たるかれの常態なのだろうか、とさえ考えた。
特別演技賞 スターリング・ヘイドン
スターリング・ヘイドンというと、赤狩り時代に密告者にまわった「過去」と、あの『博士の異常な愛情』の世界戦争狂いの軍人の役柄とが、セットになって想い出され、そればかりでなく、『大砂塵』のウドの大木の西部男ジャニー・ギターから、『ゴッドファーザー』の入れ歯警部、『ロング・グッドバイ』のスピレーンのような作品しか書けなくなったヘミングウェイ風のアル中作家まで、益体もない記憶がぞろぞろと行進してくるが、今度の『1900年』に至って、イタリア人農夫の重厚な存在感をもって最高の立ち現われを成した、と感動した次第である。
「映画芸術」344号、1983年2月
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