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仮面舞踏会の夜 前篇 [AtBL再録2]

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 うすぼんやりとして、米帝第七艦隊の原子力空母エンタープライズが佐世保に入港するニュースをながめていると、あの激動の七ヵ月の佐世保闘争の記録がいきなり目の中にとびこんでくる。十五年をおいて再びその威嚇的な姿を現わしたエンプラ。
 アナウンサーのわけ知りの論説がかぶさって、一ロに十五年と申しましてもその年に生まれた子供たちは今義務教育を終えて……などといっている。そのとおりなのだ。そしてわたしの頭の中には、何かの本で読んだ《生きるとは、生き残ることであると同時に、意味ある生きかたをすることでもある》という一節が蘇えって回転してくる。

 このところ集中して見た日本映画のうちわずかに心に残ったもののほとんどが、今日のミドルティーンの彷徨と暴力と殺人とを主要なメインテーマにすえていたことの一つの必然が、漫然とながめていたテレビニュースを通して更に明瞭な反問となって帰ってきたようだった。
 六〇年代叛乱という形で歴史に登場してしまったかつての青春を愛惜する退路はもうない。わたしらはあの時代に二十歳だったことの意味と、あの時代に生を亨けた後続ジェネレーションがもっと幼くもっと不用意に不可避に歴史に登場してしまっていることの意味とを、二重に解かねばならない課題として突きつけられているのだ。


 かつて燎原の大の如く企図に拡大した「学園紛争」を目まぐるしく報じた新聞の紙面は、今日、警察力の導入なしには卒業式を貫徹しえない中学校の「病理」を忙しく追いかける。年齢的にも下降し取り急ぎ、また、より閉鎖的な体制に向っての「爆発」は一体、歴史がかれらに何の託宣を課しているかの容易な答えを告げてはくれない。しかしかれらはすでにそのように登場してしまっているのだし、そのかれらに素知らぬ顔で通り過ぎることも、官憲の泥靴に踏みにじらせることも、更に論敵に向って「こんなリクツは中学生にでもわかる」を連発する吉本隆明のように中学生はみんな自立派予備軍のルンルン気分におぼれることも共に拒否せねばならないとしたら、どのような言葉がかれらに向ってあるのだろうか。
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 曽根中生の『夜をぶっとばせ』に対しては否定的な感想しかもちえなかった。
 素材をほとんど生まのまま投げ出し、その内奥にまで一歩踏み込まない作り手の距離感が気になった。確かに生徒の側からの校内反抗の様態とその一定の帰結は描かれていよう。しかしそれでは四半世紀前の『暴力教室』をいかほどか超えたことになるのか疑問である。作り手は今ある状況の報告者に自足することでは、青春の理由なき反抗の果実の味はいつの時代も変わらないという達観に復讐されるだけではないか。でなければ石井の『爆烈都市』も長崎の『九月の冗談クラブバンド』も作られる必要はなかった。『夜をぶっとばせ』がもう一回転ぶっとばされなければ、今日のミドルティーンの本当の顔に出会えることはあるまい。
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 三村晴彦の『天城越え』は、作り手の位置そのものが痛切に困難なところにありながら、十五歳の少年の殺意を純化する方向にだけ突破することでかろうじて今日的な通路を待たし得た作品である。原作&プロデュースの清張・野村コンビによる「過去の犯罪が因果応報する」陳腐な推理話の図式と加藤泰共同脚本による汚れた女性への思慕の絶対性とにがんじがらめにされ、かなりに傀儡めいた演出の制約はあったのだろう。
 しかしまぎれもなく今日の青春に通底しうる殺意を提出することには成功した。曽根が対象への共感(それとも無反省の肯定にすぎないのか)から自在に作りえたところからはるかにむずかしい条件の中で三村は仕事をした。
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 困難な条件を逆手に台頭したといえば、すぐその名が浮かぶほど相米慎二は『ションベン・ライダー』で、すっかり作家的位置をゆるぎないものにしてしまった。
 シュレイダー夫妻の原案と西岡琢也の脚本を得て、アイドル映画ではない、自前の持ち物として作品の手作りを楽しむ条件をやっと手にしたようだ。それだけに冒頭は何かもたついて、勝手気ままの高踏が裏目に出て、凝りすぎ芸術映画に仕上ってくるのではないかと不安を感じさせるものだった。どうやら持ち直すが、最後まで固さは残った。
 一口にいえば、中年ヤクザ(藤竜也)と誘拐された仲間を助けようとする三人の中学生(河合美智子、永瀬正敏、坂上忍)との「友情の旅」がシンになって展開される話だ。そして思春期少女による中年男への逆ロリコンという前作の薬師丸映画『セーラー服と機関銃』のテーマのちゃっかりした密輸入もはいっている。
 展開を追いかけるよりも、場面場面のやりたい放題な高揚に身をゆだねて対応するべき作品世界なので、筋立てのつじつまを合わせて見ようと構えることでは息切れしてくたびれる。ガラスばりのマンションの一室で藤竜也がシャブに狂って日本刀をふりまわす場面など脈絡のつけようがなく、窓ごしに見える花火の飾り絵に彩られた立ち回りをながめていればよいということになる。

 テオ・アンゲロプロスもびっくりの貯木場における追っかけシーンの大移動ワンカットについては、言及する人も多いようなので、ここではふれない。遊園地における雨の別れのシーンというのがあって、これは三番目ぐらいに話題になりそうな出来映えの場面なので、少し紹介しておこう。
 前提として、麻薬ルート目当てにガキを誘拐した二人の弟分を藤は組長の指令で追っていたところが、組は偽装解散、藤は追跡の理由を失ってガキ共と別れることになる、というプロットの動きが頭に入ってないと、何ともまた唐突な場面転換なのだが。
 ともかくメリーゴーラウンドに乗ったかれらは、顔をかつてのアングラ劇ふうにメイクして、《雨降りお月さん雲の影》と唄を唄い、別れの盃にするのだ。そのあと回転遊戯箱から出て、背中を向けて雨足の中を去ってゆくかれの情感は、チャンドラーの《さよならをいうことは少しずつ死ぬことだ》を嘔いあげて切々と濡れそぼっている。「グッドラック、ミスター・ゴンベ」の叫びが追いかぶさる。
 かれの名はゴンベ、中年ヤクザ。

 ゴンベはじつは最後にもう一度出てくる。三人組が仲間を助け出し、逆にチンピラに追いつめられてしまう、そこにやくざ映画の晴姿そのままに登場してくるのだ。
 ここには藤竜也という役者が背負った「歴史」というものもはっきりと介在してくるようだ。『斬り込み』『反叛のメロディ』『任侠花一輪』などのステロタイプな忍の一字の殴り込み、『野良猫ロック・セックスハンター』の基地の街の混血児同志の内部ゲバルトの爆発、などの過去の集積がそっくり背負われているのだろうか。
 ともかく登場する。白いくたびれたスーツの上下、よれよれの帽子、顔のどぎついメイクも別れたときのそのまま、右手に拳銃、左手に色とりどりの風船。「おメエとやりあうなんて面白いことになっちまったなあ」とかいうセリフを唐突に喋り、これが晴姿なのだ。
 かれの仮面舞踏台の夜なのだ。
 この特権的立ち現われの中に『野良猫ロック』以来の十数年がふっとかき消される、あるいは耐えがたい重味でのしかかってくる――いや、どちらでも同じことか。
 射ち合ううちに位置がいれかわって、弟分は中二階にかけあがったところで射たれ、そのDX東寺空中ゴンドラふうの窓にぶらさがってフィニシュ。
 ゴンベの白服に赤い血の雨がさんさんと降りかかる。清順映画の本歌取りなのでもあろうか、いや、これは。
 これは、かつてのアングラ芝居のスペクタクルなラストシーンが引用されているのだといってよい。奇をてらっているのではなく、むしろ照れているのである。それは何故か。

つづく
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StevSwitte

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by StevSwitte (2019-07-17 13:14) 

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