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昭和大軽薄の夜がきた [AtBL再録2]

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 時節外れにストーンズの『ハイ・タイド&グリーングラス』をひっぱり出してきて「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」を聴いています。小生は今不機嫌なのです。映画評どころではありませんね。

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 ハル・アシュビーの『ローリング・ストーンズ』をごらんになったわけですか。
 ラストのタイトル・バックに何故ジミ・ヘンドリックスの「スター・スパングルド・バーナー」が流れるのですか。ストーンズのコンサート・フィルムにですよ。あの胸くそ悪い反戦映画『帰郷』を想い出しましたね。大体が、この映画が『レッド・ツェッペリン――狂熱のライヴ』のような解釈半分ライヴ半分のフィルムだったり、『ラスト・ワルツ』のようなインタヴュー構成をジョイントしたフィルムだったり、という話なら見なかっかです。最初から。しかしまるまるのコンサート記録だというから……。
 二点を除いてはね。ラストのジミ・ヘンと「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」。二十年前のデビュー当時、同曲を歌うかれらの若き姿をモンタージュする位ならわかりますがね。おまけに、アウシュヴィッツや南京の記録フィルムが挿入されるとなると、かなりの創り手の解釈が大手をふってくる。
 一体、二十年間ロック・シーンの前線でこの曲を歌ってきたかれらは好戦主義者てあるとでもいいたいのか。戦争の虐殺の加担者であるとでもいいたいのか。どういう聴き方でストーンズに対しているのか。じつに支離滅裂な解釈で不愉快きわまりなく、古いレコードでもう丁度「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」を聴いてみたのです。

 そういえば山川健一の小説『鏡の中のガラスの船』には、ストーンズの「レット・イット・ブリード」や「悪魔を憐れむ歌」をバックに内ゲバ殺人の記憶を語る学生が登場しましたね。
 山川直人の『ビハインド』も内ゲバを背景にした学生生活の映画でしたが、BGMは徹頭徹尾ディランでした。
 なるほどFor the Time They are a‐changin’ですな。
 時代は変る、ですよ。もう今や、時をかける少女ですよ。

 『時をかける少女』ですね。やっと本題に入りましたか。
 時をかけない大林ですよ。おまけに赤川シンデレラ・アイドル路線をもてあました根岸です。もう一つおまけに、二本立ての映画館にオジサン映画評論家の入り込む余地はなし……。
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 曲り角にきた薬師丸、退場の予感ですか。押し付けられた監督に同情致しますか。
R 同情して欲しいのはこっちです。映画館をかけるオジサンのほうですよ。『探偵物語』の次は『刑事物語2・リンゴの詩』で、どちらも満員の立ち見なのですから。武田鉄矢のシリーズ、杉村六郎第一回監督作品ですが、どうですか。期待はできますか。
 寅さんシリーズの持ち昧にパーカー風ハードボイルド教育論をプラス。一応の水準にこなしていますが……。
 ますます不機嫌になります。

 中山潔・夢野史郎の監督・脚本コンビは『実録・痴漢教師』『OL拷問・変態地獄』の二本がありましたね。
 立ちませんよ。
 映画館と試写室をかけて疲れきったオジサンのチンコの話ではありません。マイナー映画が状況の上ずみ部分から猪突して、それをどれだけ奥まですくいあげてこれるかの映像ゲリラの戦果についての話です。
 一緒に見た梅沢薫の『少女地獄・監禁』のように明らかに限定ポルノ戦線の守備範囲で精一杯の刺激性にあふれたものを狙っている傾向もありますが、もうすでにピンク系・にっかつを含めて「エロ映画」の現況はそういう楽天性にはないと思うのです。
 かつてのロマンポルノの属性として、名もなく・どぎつく・いやらしくの要件が考えられましたが、まさに今や時をかける陰毛カイカイ、エロ映画とは現代日本の性娯楽産業の領域でももっとも後進的なクソ面白くもない化石めいた物件に退行してしまっているのではないですか。ビ二本やノーパン喫茶のアイディアを昭和軽薄体=オモシロかなしズムによる独創的編集感覚と規定したのは南伸坊ですが、同じ伸坊の命名による「慢性インポシンドローム」の一等ふさわしい実例がエロ映画の現況ではないのでしょうか。
 この停滞の突破口はゲリラ性の強化にしかないと思うのです。もっともこれは若松孝二以来の十年一日のテーゼで、今更ながらの気恥しさもあるのですが……。昨今の「にっかつ」の右往左往ぶりにしても、大年増うれし恥し路線、二時間引きのばし大作路線、アイドル・オナペット酷使路線、素人ギャルいきいき新鮮路線、フィストファックにオナニーマンズリから本番やっちまったぞバラエティ路線、歌謡カラオケポルノ路線、文芸エロス大作路線……などなど、万策つきはてた「代々木の森」にふさわしい混乱ぶりです。

 だからですよ。ここがインポ・シンボーのしどころという映評オジサンこそいい面の皮なのです。ちぢみますよ、もう。
 あなたは今回は映画ボヤキ屋に一貫しているようですな。あとか怖い。ストーンスの「アズ・ティアズ・ゴー・パイ」でもひとまず聴いていなさい。『午前三時の白鳥』のような弱気の作品を書いて消えた板坂剛みたいなものではありませんか。
 よろしいですか。十年一日のテーゼを繰り返えさねばならないところに、十年一日の日本エロ映画の決定的な貧しさがあると考えます。その間の烈しい振幅や作品的達成について充分に目配りするとしてもです。十年といっても一日、一日といっても十年、多くの創り手とそして映画批評が疲労しパンクするのには充分な期間です。充分すぎる期間です。
 『OL拷問・変態地獄』は性犯罪フィールドにきりこんで正統的な視点を獲得しようと努めた作品といえます。正統とはこの場合、ゲリラに徹するということです。作品を自立させる節操のようなものはこのさい必要ではない。金属バット撲殺通り魔というのが、この映画での一つの素材となっています。そこに港雄一の変態拷問者とその生賛になるOL水月円がからんでくる。彼女は地方出の都会生活に疲れたOLという追い込み方を強いられ、最後には、金属バットで拷問者を逆襲して殺した女装の通り魔を「男娼」として囲うという帰結まで進みます。
 当然、破局が来て、彼女はかれを撲殺せざるをえず、更に、その行為の故にかれを受け継がねばならなくなるのです。彼女が通り魔殺人者の二号を志願するのです。ラストの金属バットを買い求める水月円のストップ・モーションは『クルージング』風の仲々出色のものです。

 あの金属バットは殴ったらボコボコ音がするみたいで、あれは塩ビバットで代用して撮ったんではないですか。
 八〇年代日本の一発ワンショットは、一柳展也の金属バットだ、とは藤原信也のアフォリズムです。中山の映画ではあくまで『クルージング』の転用というところが核心になると思います。一億総通り魔ですか。同じ創り手でも素材を性犯罪ドキュメントの通り一遍の方向におさめてしまうと『実録・痴漢教師』のような駄作になります。
 同様の傾向でつまづいたのが崔洋一の『性的犯罪』です。

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 妻妾同居の三角関係から派生する破れかぶれの保険金詐欺事件という題材、少し前に高橋伴明も『性犯罪脅迫暴行』で扱っていました。どっちもどっちですだや。途中で寝てしまった。三角関係が三角共犯になるプロセスの心理ドラマも担おうとした助平根性が場違いです。心理ドラマが何だ。エロはエロ、ひたすらエロではないか。つまらない、全く。
 カメラを視線の地平に固定した静的画面に、そのドラマと三人やりまくりを充填しようとした意図はわからないでもないのですが、崔の力コブが空転してしまっていることは確かですな。実録を追って文体を喪う、これはかなりシンドイことではありますまいか。
 ともかく『十階のモスキート』におけるキャロルに代置できるものをこの映画では聴き取れなかった。あるいはと思わせる断片もないではないですが、徒らに焦る表情が見えてくるようで疲れました。
 一方、上垣保朗の『少女暴行事件・赤い靴』は、やっと自分のスタイルを確保したと思わせます。『ピンクのカーテン』三作で充分に暗くはなりきれなかった上垣の地肌がじとじとと出てきます。歌舞伎町ディスコ女子高校生惨殺事件というトピックにからめて、地方都市のたった四人の暴走族とか両親の離婚から非行化する少女とか、おそろしくステロタイプな設定ばかりを使っても、それでも上垣のスタイルは潑溂と伝わってきます。かれは力をぬいて、ダランとしています。フィルターのかけ方で成功しているともいえます。それもまたゲリラの一つの行き方ではないでしょうか。

 好調な中村幻児は『連続23人姦殺魔』でゲリラに徹した職人芸を見せています。少しばかり力をぬきすぎて、過度にホップな文体に悪のりしたようでもありますが。屍姦に第一等の快楽充足をおく稀代の性犯罪殺人者を扱って、間違っても澁澤龍彦の世界に悠悠とすることがないのは正しい方向です。ここでは破調によって陰惨さと対象密着とをはぐらかそうとする嗜好がよく見えます。その範囲では健闘めざましいというところてはないでしょうか。
 シェイヴィング・クリームを若草山にぬりたくって陰毛を剃り落とし、ただもうめったやたらにネブりまくって、タンポンまでくわえてひきずり出し、しゃぶりまくるという屍姦シーンは、もうめったやたらにやりすぎではないですか。悪趣味ですよ。
 悪趣味大いに結構。何をいいだすのですか。ケッコウ毛だらけ剃りあと泡だらけではありませんか。ボヤキすぎてつぶしのきかない映評おじさんは、映倫的発想と顔付きの鎖につながれるしかないのですか。やりすぎ・いきすぎ・ゲリラの目、ですよ。ただの事件追認のリアリズムのどこが面白いというのですか。そういうあなたの好みはかつての東映歌謡映画的まるだしの歌謡ポルノ『ブルーレイン大阪』(小沼勝監督・高田純脚本)に落ち着きそうですな。図星でしょう。話はわりとまともに作ってあるし、感情移入もしやすいでしょう。
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 何とでもいってくれ給え。こんなものかと思ってしまいます、実際。エロ映画時評の夜も更けた。開き直るのもいい頃合いかもしれません。どいつもこいつも、ほとほと愛想がつきた。それにあなたのお喋りの次の題目ぐらい先刻予想がつきます。歌謡ポルノのもう一本『三年目の浮気』(中原悛監督・森田芳光脚本)は、別の意味でのポップを代表している、とかそんなことでしょう。森田にとっては『家族ゲーム』の余剰の仕事であることは自明です。力をぬくもぬかないも、最初から軽いのですから。いいとも、いいとも。ポップ・ステップ・ジャンプ……タイム・イズ・オン・あちら側の発想ですよ。
 それは、『家族ゲーム』の悪意を素通りして表層を笑いちらかしているような観客問題もあるのではないですか。
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 冗談じゃないです。森田は善意の作家です。それも極度の。ポンポン蒸気に乗って河向うの団地を訪ねる家庭教師の場面を見れば、それははっきりとわかります。
 あの人物の内的風景には、きっと『ランボオⅡ』を書いた小林秀雄の詩情が巣喰っているのです。
 ――《その頃、私はただ、うつろな表情をして一日おきに、吾妻橋からポンポン蒸気にのっかって、向島の銘酒屋の女のところに通ってゐただけだ》。懐中には《一っぱい仮名がふってあった》メルキュウル版の『地獄の季節』と《女に買って行く穴子のお鮨》
 いいとも、いいとも。
 それに、河向うの団地という設定とは、つまり、話題の本『東京漂流』のほとんど弄劣なパロディが狙われているといえるでしょう。定住の危機を問い詰めようとした本を手がかりに、同じものを冷笑の対象に転化しようとする欲求です。この耐えがたいヘドロ的状況のはるか上層の上ずみに浮き上がって形をなしてくる昭和大軽薄小説や雑文〈スーパー・エッセイ〉や映画やそれらの横断が、身の毛もよだつボーイ・ソプラノで奇怪なポップスを垂れ流してくることに、小生は不機嫌になるのです。全くもって優等生のやり方です。
 視点の傲慢と軽快さにはあきれるばかりです。やめて下さい・やめられませんか……。これらのものの「様々なる意匠」の消化力の旺盛さに対しても何かおぞましい想いを禁じえません。
 小林秀雄に関しても一柳展也に関しても《人々がこれに食ひ入る度合だけがあるのだ》といえるだろうし、また《恐らくそれは同じ様な恰好をした数珠玉をつないだ様に見えるだろう》ということであります。
 家族解体あるいは解体家族という認識は悪意でも善意でもありえない。そしてそこを笑ってやって下さいという創り手のモチーフには善意以外の何がありますか。
 『家族ゲーム』フィルターはありませんや。あるのは額縁です。観客はその枠に入る範囲の舞台劇をながめることを強いられたのです。もっとも森田がハル・アシュビーほど独善的なら、ここにヒロシマやナガサキの記録写真を挿入して、さあどうださあどうだ的に迫ってみせるでしょうがね。

 ああ疲れた疲れた。小生は「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」をもう一遍聴いて寝ることにします。Yes it is〈いいとも〉、Yes it is〈いいとも〉……

「映画芸術」346号、1983年8月


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