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月に吠える [AtBL再録2]

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  《でも、一時間半の崇高な映画さえ、一時間半の馬鹿げた退屈な映画と同じくらい退屈で面白昧のないものなんだ》――ジャン・リュック・ゴダール
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 例えば『暗室』
 徹頭徹尾、これは一九八三年のメタファーとしての暗室なのだ。そのようにわたしは、浦山桐郎のこの映画を見たし、そのようにひきずりこまれてしまったのだ。
 暗い。そしてどうしようもなくからみつき、そしてどうしようもなく去ってゆく女たち。

 意図としては、これは、中村幻児が勝田清隆をモデルにして作った『23人連続姦殺魔』と裏表なのかもしれない。こちらは陽画であり、攻撃性なのである。女が好きでいとおしくて可愛くてならないから絞殺して犯してしまう――これはこの映画の『暗室』とは対照的な(そして作品的水位では余程下に落ちるのだが)メッセージなのである。
 『暗室』は徹底的に受動的な世界に落ち着いているのだ。ここでは、女はすべて向うのほうからやってきて、関係し、妻となったり、受胎したり、奴隷になることを望んだり、暴力的に対峙したり、そして去ってゆく。どちらにしてもある種の関係の断念があることは確かで、攻撃的に表明されようと受動的に表明されようと、女は人形として感知されている――そういう共通性なのである。
 作品的水位は別にして、『暗室』のほうがすぐれてメタファーとなりえたのは、どうしようもなく遁れてゆく対象の感受という一点だと思われる。受動性はこの際、全く視点から外してよい。
 喪われてゆく。常に暗い部屋の中で、何かが、喪われてゆく。

 『暗室』でゆいつ突き抜けている場面は、最後に遁れてゆく女が涙を流すところだけではあるまいか。いやそういっては不充分か。映画は人形たち一人一人を女優の生ま身で現前化させていた以上、浦山のそして石堂脚本の意図が、もっと積極的に関係の成立と崩壊とにしぼられていただろうことは当然である。
 しかし画面はそれを理詰めに追ってゆくわけではない。遁れてゆく女たちの内面は、基本的には、画面から排除されていたようだ。常に遁れられてゆく、喪ってゆく男の茫然自失にこそこの映画の暗部は隠されていた筈だから。
 それが最後のシーンで泣く女の側にと突き抜ける。
 しつこいな、もたれるな、と思った。感情移入のきつい場面だ。作り手の側の。
 『私が・棄てた・女』の例の幻想シーンを想い出してうんざりもした。
 うんざりしながら気付いたことは、じつは、これに対応する場面が中程にあって、そこでも映画は女の側へと突き抜けていたのだった。ただあんまりに、滑稽な場面だったので直ぐさま、そう受け取りにくかったのだ。やはり、遁れてゆく女がいて、国際空港に見送りにまで、男は行く。するとレスビアンの愛人を寝取られた恨みに逆上した女がいて、ゲバルトを仕掛けてくるのである。ただもうめったやたらに男はどつきまわされ、ふんずけられ、けりとばされてしまうのだ。
 原作者はこの場面の暴力女麻生うさぎは最高におかしかったと悦にいる。麻生うさぎ――『神田川淫乱戦争』によって長く記憶されるが、この映画では過剰にもてあまされた部分に活躍してしまった。
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 暗室。暗いマリオネットの部屋である。見続けることがうっとおしかったこの映画の核心はもう少し明確に語り直されるべきだろう。

 だが、少し迂回しよう。
 吉本隆明が『映画芸術』三四六号に「ふたつのポルノ映画まで」を書いて『暗室』を批判している。かれは何をいっておるのか。他に、『檜山節考』『戦場のメリークリスマス』をとりあげて、これらがベスト級の作品であろうと見当をつけた上で裁断している。わたしは、前者がフジヤマ・ゲイシャ・ポルノ映画、後者がフジヤマ・ゲイシャ・ハラキリ映画だ、とする吉本説に基本的には賛成する。しかし同時に、この巨匠の相いも変わらぬ傲岸な正当性主義にヘドの出そうな嫌悪感を持ったことも確かなのだ。かれは書いている。

 《こういった作品が現在の日本映画を代表するもので、しかも偶然のめぐりあわせでないとすれば、日本映画がもう要素的に解体している気がしてならなかった。これらの作品は崩れてふた色の基底に分解されている。ひとつはポルノ映画であり、ひとつは死に接地した暴力映画である。つまり、現在の日本映画は、裸にすればポルノ映画か死に接した暴力映画に分解してしまうものなのか。これが真っ先にいだいた感想である。》

 別に何を選んで見ちらかそうが、このオヤジから「日本映画がもう要素的に解体している気がしてならなかった」以外の感想がとりたてて出てくるとも思えない。これはあらかじめの予断にすぎないのだから。
 「〈解体〉」という抽象から下降的に、吉本は実作品の限界的な質を規定するだけなのだ。例の『マス・イメージ論』の手口であり、これはもう神託とでも呼ぶ他ないシロモノなのだ。現今のサブ・カルチュアの有力な部分を形成するエロ漫画やエロ映画に関する項目が、あの書物にはなかった、ということはまだしもの救いと云える。
 映画批評という領域にまで、折りにふれての喰いちらかし感想記述を別にしては、吉本神託銀行が、その硬直した体系囲い込み化の侵略意志を発動してこないことは、まだしもその醜悪な〈神のお告げ〉からまぬがれるというのみの意味で、ハッピイなことなのだ。しかし、ようやく風邪も直りかけてきた折りなので、ここでは吉本の醜悪さとしつこく向い合いたくはない。

 『暗室』に対する巨匠の明らかな読み違えに限定しておこう。
 読み違えの質はかなり惨憺たるものだから、テキストをそのように誤って喰いちらかし、体系囲い込み化の自己増殖過程にオンライン化してゆく『マス・イメージ論』などの転倒の具体相が見透かせて面白いだろう。
 『暗室』を解体したポルノ映画と規定した上で、吉本はどう扱うのか。先ずかれは次のようにいうのだ。
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 《ポルノ映画の核心は性交の場面にあるにちがいない。では性交の場面の核心はとこにあるのか。性交における映像的な愉悦と、リズム感の流れにあるに相違ない》
 一体なんなのだろうこれは。『エマニエル夫人』とかを見て興奮した欲求不満の処女が思わずもらした屁のような感想だろうか。へんに真面目くさった裏ヴィデオ評論家が頂末きわまりない技術批評の能書きをたれる時の前置きのようなものだろうか。こんなに根抵的にズッコケてしまってはまともな「読み」に立ち直ることは当底期待できないが、もう少し我慢して付き合おう。
 続けて(改行なしのつながりで)、吉本は書いている。
 《この映画のポルノグラムは、とうていそんな水準にはない。性行為はただ〈努めている〉とか〈仕事している〉とかいうより仕方がないものになっている。何も愉悦を感じていないのに、性行為の動作だけはおおげさに演出され、演技される。観客の方はもどかしさや苛立たしさや空虚しか感じない。たいへん努力して男女が裸で仕事をしあっているという感じしか伝わってこないからだ》

 これはこれ自体、全くそのとおりなのだ。このとおりの惨状が、日本のポルノ映画館の日常的な状況なのだ。だからどうしたのだ、とわたしは問いたい。だからどうだというのだ。
 神託銀行のシンクタンクからは〈ポルノ〉についてこうした凡庸な認識しか出てこないということがお笑いである。同じ神託の『E.T.』論を読んで、荒筋の紹介しか書いていなかったので、果てしなくETな気分になってしまったことがある。今回も似たような荒涼としたムカツキに襲われる。
 かかるシンタックスから派生するものは二つしかない。作り手の側の本番突入主義、そして受け手の側のポルノ撲滅論、これである。《ポルノ映画ほど、監督や俳優の力量や、人間的な質の高さを問われる映画はないはずだ。なまじの気持で手がけるべき主題でないことがわかる》と書く吉本がどちらの側かは断わるまでもあるまい。そんなに露骨にもいえないから、吉本は、性演技の演出が妥協的であるのかそれとも演出家の性意識がもともと貧しいのか、どちらかの理由でこんな映画にとどまる、と更なる見当外れを続ける。
 それでもう書くこともないので、原作との比較という悪質の文学主義まで導入して、止めておけばいいのに、《たえず死臭のただようエロス》とか《墨絵のような文学的濃淡》とか原作を飾り立てて、スゴんでみせる。そしてあとは要領をえない繰り返しで枚数を埋めて。
 これが吉本の『暗室』批判である。

 これが映画批評なのか。
 これが果して映画批評なのか。
 逆に問おう。今日、映画批評とはどう成立するものなのか。
 巨匠のダルな感想文への嫌悪感は、問いを必然に、そこのところにとがらせてゆく。黙然としてわたしは苛立ちに捉われてゆく。そして映画を見続けることに付随して、読んだ沢山の数の映画言説を本年に限ったものでも、出来うる限り想い起そうとした。
 そして再度苛立つ。これらの中で映画情報批評あるいは業界内批評に該当するものを一つ一つ消去していったとして、何が残るだろう。誰の、どういう営為が残るだろうか。加えて吉本神託銀行から発される権威的普遍化主義の毒ガスだ。
 たまたま文学者の映画批評の一貫性のなさにかみついて咆哮している大島渚の十年前の文章が目についた。大島によれば、文学者たちは《二、三年、熱心に映画を論じて、そしていつの間にか、映画から離れてゆく》――こういう者らは《なぜ、映画の批評を書くのか》。それは試写室で映画を見る特権を享受したいというエゴイズムからだけではないのか。こんな調子で、大島は例えば花田清輝を槍玉にあげ、いくつかのすぐれた映画批評を残したが、トータルな姿勢は前記のような高見の見物的な傍観だった、と論断している。
 花田の映画批評の頂点と大島の作家的出立点とがある時期併走していたことを考えれば、当然のきびしい判定だともいえようか。花田の映画エッセイのはらんだ一つの先駆性と、しかしそこに流れ込んだ否定しがたい私小説性とが、年少の実作者にどう映ったのか、それはそれなりの興味ではある。考えてみれば、くだんの吉本の映画批評にしても、花田のオルグによって、この時期に開始されたのではなかったか。
 しかし問題は映画批評とはどう成立するかという一点だった。

 大島の文章で特に次の部分が印象に残った。  
 《そうした文学者の映画批評が、それ自体一個の読み物としては面白くとも、現実の映画のなかには何らの力を待ちえず、そしてそのことが映画批評を書く文学者にも微妙に反映して、彼らのほとんどが結局短期的な活動しか行いえなかったことの方をより重視しなければならぬ》
 今、批評が存在しない(客観数量的に存在しない)ところに、ぽかりぽかりと作品が浮かんでは消えてゆく。「批評家」たちはそのうちの任意のAなり、Bなり、Cなり、あるいはそれらすべてを貪欲に喰いちらかしては何事かの言説をひきさらってこようとする。
 両者の間に何らかの相互作用があるのか。絶望的なコミュニケーションの不在が横たわっているだけだ。文学者の映画批評に一過性の陽気なニヒリズムを嗅ぎ取った大島の怒声は、しかし今日の映画言説全体に向けられた響きであるにとどまらず、この不在への怒りであるのだろう。不在は更に深まっている。映画言説屋とは依然として、人より多く人より先んじて映画を観て、それを語る特権に居直っている連中のことであるらしい。
 わたしは、この一年、いくつかの機会に、このような土壌の映画批評に何らかの論陣を付け加えたが、何か口の中がほこりっぼくなるような、小林旭の歌の《月に吠える犬のように、何にも救いはないけれど、荒れてみたのさ》的な気分に、その都度、押し戻された。わたしもまた一過性のそれ自体読み物に完結するふうのエッセイの材料にたまさか映画を選んでいるだけなのか。答えはひきずる他ない。

 『暗室』にかえろう。
 この主人公の、ただどうしようもなく取り残されてゆく男に、何かを重ね合わせるような憐愍に充ちた観方もまたあるだろう。暗い部屋の中の紋切り型の性行為。だがこの男にはもともと喪われるべき何物かなどはない。
 かれが喪うのではない。かれがただの移り気な女たらしであろうが、少しは色事にも熱心な《恋にも革命にも失敗し急転直下堕落していった》顰め面のイデオロジストであろうが、映画を沢山見すぎてパーになった映画言説屋であろうが、変わりはない。
 何か、のほうで喪われるのだ。
 土台、愉悦に満ちたセックスなどではないのだ。そんなものがどこにあるか。
 ある女は華やかで、ある女は騒々しく、ある女は重苦しく、ある女は空気のようで、ある女は従順だ……。
 暗い部屋の中でマリオネットとたわむれる。という意識。それに苫しめられる空虚。『暗室』は映画についての映画なのだ
 暗い部屋の中でマリオネットとたわむれるようにわたしはずっと映画と関係しあってきた。
 ただどうしようもなくからみつき、そしてどうしようもなく去ってゆく映画たち。
 わたしはそれらを愛している。愛してきたことであった。
 それを語ることは、どこまでも「一犬、虚に向って吠える」の類い以外ではないのか。


「日本読書新聞」1984年1月16日号
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Jeatals

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