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一九八四年の情事OL [AtBL再録2]

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 ジョージ・オーウェルのアンチ・ユートピアにおける新語法ではないが、一九八四年、エロ映画の看板から「女高生」「女子大生」「OL」「団地妻」とうの女性職業名が消えた。だから、社会主義者オーウェルを論じることは人様にまかせて、わたしは、是非とも、情事OLの下半身地獄〈アンチ・ユートピア〉についてだけ、少なくとも一九八四年は、語って通過したいと考えるのだ。

 この国のエロ映画が自主規制の権力上位の一貫性において観客を抑圧し続けてきたことは自明なのだが、こうした環境(これはハスミ的用語法であろうか)においてすら、映画内自己表現を追い求める人たちの試行錯誤はあるし、それによってかろうじて今日のエロ映画の水準が支えられていることも、また自明なのだ。これは全く逆説的な、インテリゲンチャ好みに言えばジョージ・オーウェル的な、わたし好みに言えば情事OL的な事態なのである。
 今日、どんなに阿呆な観客でもエロ映画館に行けば女性の局部が見られるなどとは思わないわけだし、実際(その倍の金を出せば「実物」をおがめるばかりでなくジャンケンに勝ては「本番〈ソノモノ〉」まで出来るのだが)そこでは、当局が局部と指定する局部は見ることが出来ず、故にしたがって当局が指定しないところの「局部」ばかり目について、例えば朝吹ケイトがパンティを脱いだ(脱がされた)時のゴムのくいこんだ跡とか虫刺されの点々とか肌のぶつぶつとか、そーゆーものばかり見えて、哀しくも虚しく怒りに燃えてしまうようなエロ映画体験も、それすらも、風俗営業法改悪によるオールナイト興行廃止という方向で危機に瀕していたことは周知の事実だ。それが自主規制によって切り抜けられたこともまた周知の事実だ。
 そして、女高生だの女子大生だの情事OLだの、その語感だけにおいても発情勃起するエクリチュール(筆者が興奮しているわけではないが)が、差別用語ふうのやかましさで生賛の祭壇にのせられたことも、また周知の事実だ。

 じつに一九八四年だ。

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 たまたま、本年度、最も面白い映画を見せるだろうエロの作り手は二十台の人たちである。わたしがじつに乏しく見た限りでは、『虐待奴隷少女』の米田彰『神田川淫乱戦争』の黒沢清『女子大生・教師の前で』の水谷俊之などに代表される人々だ。
 わたしはほとんど舌をまきながらかれらの映像に向い合い、そしてほとんど複雑な感情にとらわれざるをえなかった。何故ならかれらの「イデオロギー」を確定することはできるだろうし、それはアカデミシャンのA某や作家のS某と何の違いもないのだ。自明に否定されるべき後続世代の世界がわたしの前に突き付けられてあり、しかし、……いや、つまりは、わたしは納得してしまったのである。
 かれらを、ポスト・モラトリアムの世代、と呼ぶこともできるだろう。
 水谷の『スキャンティドール・脱ぎたての香り』は、森田芳光の『ピンクカット・深く愛して太く愛して』程度の作品(つまり埋もれた秀作とも言うべきもの)であり、故にだから、かれが次に『家族ゲーム』の・よーな作品を作り、そして『ときめきに死す』タイプの一種信じ難い駄作(因みに水谷はこの映画の助監督でもあるのだ)で流行監督宣言などをぶちあげて、更に角川映画にでも進出するだろう位のことは瞬時に予想できるほどに納得してしまったのである。
 全くの映像主義者であるかれの迷宮は、『スキャンティドール・脱ぎたての香り』におびただしく登場する下着同様に極めて不安定にかれの映像と関わっている。それがもっと明快な方向を見い出すためには、あの映画の中の巨大なスキャンティ・アドバルーンさながら、ふわふわと浮薄に、ひたすら上昇志向にとらわれるしかないのかもしれない。

 かれらがどこにいるのか、どういう存在なのか。これ以上、わたしは、つまびらかにはすまい。ただ今日の青春の不条理な宙吊りのうめき声を、もっといえば、一九八四年の情事OLという不条理なセックスのアンチ・ユートピアの現認報告を、かれらには少しばかり期待できるだろうとは思っている。

 だめを押すようだが、水谷にことさらひかれるのは、これらの人々の中で、かれが最も駄目だからである。覗き部屋アルバイトの女子大生が、その仕事熱心がこうじて、遂にはその覗き部屋に住み込むようになるという強烈にシンボリックな逆説的物語(磯村一路脚本)が、『女子大生・教師の前で』の内容だった。
 裸を見られるという日常的性労働の一様態が、日常生活をまるごとそこに投企してしまう形で絶対化されるとき、それを追うエロ映画としての主要な表出は、映画表現の原点に勃起してくるような迷宮を観客に向って現前化させてくるのかもしれない。覗き部屋の覗かれる女の裸像に重ね合わされて、覗き部屋全体の透視がモンタージュされてくるシーンにおいてその表出は過激である。
 覗かれ女のセックスの虚しさ(性労働に限っての部分的なものではなくセックスそのものの存在感の稀薄さ)が、その透視画において、決定的に暴露されるのである。その過激さは観客の覗き見志向をも射呈するだろう。映画のもつまなざしの根底的な二律背反に水谷は行き当った。
 『女子大生・教師の前で』は、このように一種陶酔的な映像を突き付けてくる映画であり、それを語るにはあの痴呆的に嫉妬深い「ハス見的ロマネスク」の語法以外にふさわしいものはあるまいと思えるのだが、さしあたってそれを支持することは今日のA・A〈アサダ〉現象の一変奏に他ならないし、それ自体、エロ映画から上昇し、不条理な虚白から外れて流行に便乗することに結果するだろう。
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 ポスト・モラトリアムとは何か。この世代は何を用意してくるのか。
 わたしはかつて、ヒロヒト在位五十年に『批評の蹉跌――エロ映画にとって天皇制とは何か』を書いて、個別の闘い方とした。そして、エックス・デイ近付く一九八四年、やはり情事OLについて(また、エロ映画にとってユートピアとは何か、という形で再び天皇制とは何かについて)、語ることが、また個別の選択であるように思える。

「同時代批評」11号、1984年8月


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