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ぼくらが非情の大河をくだるとき6 [AtBL再録2]

つづき

6 情報という河・非情の大河
 たぶんここで情報資本が登場してくるし、当然せねばならない。既成の映画資本が不可避にコングロマリット化しつつ延命せざるをえなかったように、他系列の資本もまた映画(製作から配給の総過程)に不可避に介入してきたのである。

 すでに角川映画のマッチ・ポンプな作法については誰もが親しく知ることになっている。ベストセラー商法と協同化した作品選択、テレビのスポット・コマーシャルと一行のキャッチ・フレーズの採用、つくり手の一本釣り的な登用、などの連続に、映画環境は飼育されてしまったのかもしれない。角川資本の介入によって、映画は観るものから明確に受動的に観させられるものと化した。
 『復活の日』――愛は人類を救えるか、などというみたこともない映画に関する情報が、こまぎれの言葉の配列にいつのまにか蓄積されてくる不気味さが現実の環境となった。

 更に暴力的な介入は西武資本によってなされてきている。最初はしとやかに、そしてまさに現在である頂点はなりふりかまわず、その後はどうなるか全く予測がつかない、といった暴虐ぶりである。K資本は先ず、製作・宣伝の分域を簒奪することで始めたが、S資本はよりマイナーに、つまり「マルビ」好みのポーズでシネマテークを商品価値化する戦術で開始してきた。それは、直接にはデパート、スーパーに劇場を並置させる形で実現してきたわけであり、以下、固有名詞を挙げるのも不愉快で「局部伏字〈ボカシ〉」にするが、渋谷のデパートの最上階にある○○とか、六本木の地下のアカデミックな○○とか、大森のスーパーに脱構築的にぶっ建てた○○とかが出来上り、もともと店舗内アイドル・スペースを上昇的に時々活用するためだけの映画環境としてではなく「シブヤ西武」陣地内の僻地であったり、有力映画評論家某教授をブレーンにすえるがやる作品やる作品すべてくだらない心のくじけるような物件(ダニエル・シュミットの『ラ・パロマ』などは例外として)を寄せ集めたので更なる映画僻地化を進行させたり、僻地に映画環境を啓蒙教宣化するようないやらしさで、しかし作品選定から早々と行き詰ってズルリーニの『激しい季節』のようなどんなに頑張っても全然どうでもいいリヴァイバルで日程を埋めるような僻地活性化の失敗例であったり……で、充分な結実はいまだないようなのだが、こうした戦術から容易にみてとれるものは、観客が操作可能な消費「商品価値」として測定されているという一点である(忘れてならないことは、それにほぼ並行して、いくつかのエロ映画館――上板東映、テアトル千住――が消えていったことである、これは偶然ではない)。


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 それは、デパート資本の戦略がその近辺の都市圈をまるがかえにした消費価値のマクシムを取り込もうとする方向に邁進せざるをえない、というこの国の文化スタグフレーションの一局面であるだろう。資本の貪欲さはたんに観客を一個の商品性に解体するにとどまらない。
 都市を遊歩するチューサン階級の夢とルサンチマンがまるごとディコンストラクションされるのである。人が私有する余暇を使って都市に集まるという個別過程が確実に、資本の総意志によって商品化された〈類〉に疎外されてくるのである。資本の暴虐は、個々の商品価値存在にソフト・ウェアを与えてやることによって、巧妙にインペイされる。
 映画という環境はどこまでも、こうした文化ファッション戦略の一部門・一支流に組み込まれている。

 新たな局面は、S資本がいよいよ映画製作の領域までふみこんだこと、情報誌と連動したコンピューター・ネットワーク・システムつくりを開始したことにあらわれる。チケットを前売り制であらかじめ買わねばならないという形で観客はすでに資本の戦略に主体的な参加を強要されるのである。情報誌をめくって自己私有の余暇の頁を埋めてゆく娯しみがこうした形で情報資本によって変容を強いられるのである。商品化された情報が人を罠におとすのだ。
 観客は情報を解体構築し自己流にパフォーマンスするのではない、そうした自由を保持しているという幻想において、情報によってディコンストラクションされ類型化されているにすぎないのだ。
 これが一つの終結の見取り図である。

 これはあまりにも悲観的な見取図でありすぎているだろうか。いや、これでもまだ充分に悲観的でないことに、わたしは不満をおぼえる。シネマテークは映画をつくることと同一だったというゴダールらの戦略は、すでに充分に学習され、別系の戦略によって解体構築され、情報資本延命のためのマニュアルとして利用されるに至っている。
 観ることの間接制は、更に更に、批評・鑑賞・学習の三極に分節化され、蘇生の途をはばまれる。批評はたんなる情報従属言語、もしくは映画愛好家の感想文、もしくは熱心な勉強家の模範回答、のレベルにとどまってしまう。
 映画への愛を語ることは、もはや短絡的に、批評へはつながってゆかない。こうしてありうべき批評は、その基底に情報資本への全身をもっての敵対を構えることなしには成立しえない、という酷薄な位置にあるといえるのである。

 映画は映画であり、これは限りなく単純なことだ。
 わたしは例えば、一日の労働が終ったあと、青山に足を向けてムルナウの『ノスフェラトゥ』をみ、地下鉄にのって新宿に戻りコルピの『かくも長き不在』をみることができるし、次の日には、お茶の水でサンチャゴの『はみだした男〈レゾートル〉』をみることができる。

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 これらの作品の間には六十年にわたる歳月のひらきがあっても、大東京のなかで電車で移動さえすれば、同時に受容することが可能である。
 映画はある国においてはいまだ、青春の輝きを放つ若く苦悶にみちた形式であるし、また他の国においてはすでに、厚化粧の表皮から死期の迫った腐臭すらただよってくる形式である。
 これがわたしたちの現在的な所与なのである。

「インパクション」36号、1985年7月


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